エゼキエル書講解22
ぶどうの木の存在価値
エゼキエル書 15:1-8
1 主なる神の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。3 ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。4 それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。5 完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。6 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしが薪として火に投げ込んだ、森の木の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。7 わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。8 わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。
道具は人の手にあって価値を発揮する
This is a pen. これはペンです。ペンにはどのような役割がありますか。字を書くことです。
それではペンに向かって、「字を書け」と命じたらどうなりますか。何もしてくれません。
何が問題ですか。安いペンだからでしょうか。5000円のペンなら書いてくれますか。霊的でないからでしょうか。教会の名前が入ったペンなら書いてくれますか。字の下手な私が命じるからでしょうか。もっと字のきれいな人が命じればいいですか。
問題はそこではありません。人の手から離れていることです。
たとえどんなに価値がある道具でも、人の手から離れていれば役に立ちません。
逆に価値がなさそうに見えるものでも、優れた人の手に委ねられるとき、その本来の価値が発揮されます。
私たちも創造主に造られた被造物です。
創造主の手から離れているなら、どんなに素晴らしい人間でも、何も善いことはできません。
全てを捨てて主に治められるとき、私たちは本当に高価で尊い存在として生きることができます。
ぶどうの木は他の木より優れているか
今日の本文は主がエゼキエルに、ぶどうの木は他の木より優れているかと問いかける場面です。
ぶどうの木は木材や道具としての価値はありません。ぶどうの木の存在価値は、どうすれば発揮されるでしょうか。
ぶどうの木はイスラエルを象徴する木の一つです。
主はこのたとえによって、私たちの存在価値がどこにあるかを語っています。
今日の本文を通して、私たちは神から離れて生きられないこと、キリストにつながって実を結ぶことを知り、イエスを王として迎える私たちになることを期待します。
役に立たないぶどうの木
まず今日の本文の1節から5節で『1 主なる神の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。3 ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。4 それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。5 完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。』 とあります。
私たちは神なしには生きられません。
木材は取れない
ぶどうの木はどのような木でしょうか。細長く曲がっています。アカシアやレバノン杉は太くまっすぐ伸びています。板のように加工するのに適しています。ぶどうの木からはそのような板は作れません。
細い木なら、何か物を掛ける釘のような道具に加工することができるかもしれません。しかしぶどうの木は軟らかく、すぐ折れてしまいます。
あとは火に投げ込まれ、燃料にされるだけです。それもすぐ燃え尽きてしまいます。
生の木でも役に立たなかったのに、燃え尽きてしまえばとうとう何の価値もないものになってしまいます。
役に立たないイスラエル
これはエルサレムの住民のことを意味しています。彼らに何か優れたところがあるでしょうか。
周りには優れた民族がいました。アモリ人は体格がよく、力強い民族でした。ヘト人は技術があり、鉄を加工して道具を作ってきました。ギリシア人は学問、アラム人は貿易、レバノン人は木材の加工、フェニキア人は航海、そのように優れた民族がいました。
イスラエル人はどうでしょうか。他の民族に比べて、人間的に優れていたわけではありません。
それがもし主の裁きを受けるとしたら、完全な滅びです。
神はイスラエルの民を選び出し、宝の民と言われました。それなのに輝きを失った金のように、土の器のように捨てられたもののようになってしまっています。
それは彼らが主から離れたからです。
たとえどんなに人間的に優れていたとしても、神から離れていては何の役にも立ちません。
空しい人間
私たちも同じです。たとえお金や技術や知識があったとしても、神から離れているなら何の役に立つでしょうか。
どんなにお金を稼いだとしても、その富のために人間関係を破壊してしまう人がいます。どんなに高い技術力を持って素晴らしい道具を発明できるとしても、その技術によって人を殺す道具を作ってしまいます。多くの知識があるとしても、神を知らなければ、この世はただ偶然に存在しているだけの意味のないものになってしまいます。
日本語では本来の価値を失っている状態を、「死んでいる」と表現します。この電球は死んでいる。この水道は死んでいる。
神から離れた人間もまさに死んでいる状態です。この世の価値あるものを追い求めた結果、人は本来の価値を失い、死んでいくのです。
ソロモンは世界最高の富も知識も持っていました。彼が悟ったことは何でしょうか。
どんなにこの世のものを手に入れても、人間は空しいのです。
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。
コヘレトの言葉12:13
私たちは神なしには生きていられません。
実を結ぶぶどうの木
私たちの存在価値はキリストにつながるとき発揮されます。
木と枝の一致
ぶどうの木は本当に何の役にも立たず、価値のない存在でしょうか。存在しているだけ無駄な存在でしょうか。
いいえ、ぶどうの木には素晴らしい役割があります。それは実を結ぶということです。ぶどうの存在意義は、おいしい実を結ぶことにあります。
そのためにぶどうの木に求められることは何でしょうか。まっすぐである必要はありません。太さや硬さはどうでもいいです。ただ木と枝がつながっていさえすればいいのです。命の源につながることだけです。そうすれば時が来て実を結びます。ただそれだけです。
ぶどうは木と枝の区別が難しいです。どこまでが木で、どこからが枝なのかよくわかりません。木と枝が密接につながり、一致しています。
イエスはまことのぶどうの木
イエス・キリストは、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたは枝である」と言われました。キリストにつながっているなら、豊かに実を結ぶと約束されています。
私たちがキリストにつながって生きるなら、私たちは愛の実を結ぶのです。
そのために私たちは一致する必要があります。神との一致です。
自分の力を頼り、自分の考えに従って生きようとするなら、折れかけの枝のようです。キリストは私たちを決して手放さない。しかし私たちの方からその手を拒んでしまう。キリストにギリギリつながっていても、実を結ぶことなくやがて枯れてしまうでしょう。
私たちが本当に生きる道は、私たちが死ぬことです。
古い私たちはキリストと共に十字架に葬られた。そしてキリストと共に新しい命に生かされている。この手で握りしめてきたものを全て下ろし、主の御手に抱かれるとき、私たちの本当の人生が始まります。
キリストが私たちの内で生きて働き、愛、喜び、平和に満たされます。
愛の実を結ぶ
シドニーオリンピックで銅メダルを取ったテコンドーの岡本依子さんという方がいます。
彼女は自分の存在価値に悩まされていました。自分の価値を実感させてくれたのは、人に勝つことでした。試合に勝つことで、私には価値があると確認できました。
逆に、負けることは恐怖でした。勝てなければ、価値がない人間になってしまうと恐れていました。
さらに強さを求めた彼女は、テコンドーの本場である韓国に渡ります。一流の選手たちと練習を重ねます。
彼女は人を見るとき、自分の役に立つ人間と役に立たない人間という基準で裁いていました。
自分の心の醜さに気づいたとき、彼女はイエス・キリストに出会いました。自分のありのままを受け入れてくださる方の愛に出会いました。
それから彼女の人生の方向性が変わります。今までは自分の価値を確かめるために試合をしていました。しかし父なる神が彼女の価値を認めてくれている。イエス・キリストに出会ってからは、神の作品としての素晴らしさを表すために試合に臨むようになりました。
それから人を見るとき、一人一人を尊い存在としてみるようになりました。自然に困っている人や寂しい人に手を差し伸べるように変えられました。
キリストが私の心の中心におられるなら、私たちの人生は愛の実を結びます。
誰が王か
最後に今日の本文の6節から8節で『6 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしが薪として火に投げ込んだ、森の木の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。7 わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。8 わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。』 とあります。
イエス・キリストこそ王の王、主の主です。
自分が王でありたい
神から離れたエルサレムの住民に、主ご自身が顔を向けて裁きを下します。そのとき人は、神こそが王であること、主権者であることを知ります。
私たちは自分が王でありたいと願います。
アダムは神の命令に背き、善悪を知る木の実を取って食べました。神との契約を自らの意思で破棄し、反逆しました。自分が神になりたいと思ったからです。
ニムロドは神に反逆し、シンアルの地に定住し、バベルの塔を築きました。神に散らされることがないように、自ら天に昇ろうとしたのです。
これが私たち人間の姿です。この世に、また一人一人の心の中にバベルの塔を築こうとしています。神は死んだと言い、人間の力で生きていこうとします。心の王座に自分が座り、自分が世界の中心であるかのように生きます。そのままでいい。ありのままで生きればいい。誰にも支配されない。好きなことをする。愛があれば、結婚相手は誰だっていい。そのような時代です。
神への不信
主は裁きの理由を、不信を重ねたからだと言われます。神がどのような方かを勘違いしているということです。
私たちが王に治められるとしたら、どのようになると思いますか。
よい王様ならいいですが、人は権力を持つと変わってしまうものです。王は権力を振るい、国民を奴隷のように扱うかもしれません。税金を払わされ、労働させられ、戦争に行かされるかもしれません。道具のように使い捨てにされるかもしれません。そのような王に支配されるなら嫌ですね。
私たちは主なる神様に対してもそのように考えていないでしょうか。神は私たちを支配し、私たちから金をとり、労働力を搾取する。
これは神への不信です。私たちの主なる神様はそのような方ではありません。私たちを治める方、私たちを豊かにする方です。
塩は料理に欠かせない存在です。
もし世界のどこかに塩を知らない国があるとしましょう。あなたは塩の商人で、そこの国民に塩を紹介したいとします。「塩はとても大事なものだ。私たちの国はどのような料理にも塩で味をつける。私たちは塩なしでは生きられない。」
それを聞いた相手はどう思うでしょうか。「そんなにいいものなら、ちょっと味見をさせてくれ。」
塩だけ味見するとしょっぱいですね。
「うわ、何だこの刺激的な味は。こんなものを料理に入れたら、全部塩味になってしまうじゃないか。」
このたとえはC.S.ルイスが語ったものです。
私たちは神に対してこのように感じているかもしれません。神はあまりにも強い王であり、このような方に支配されると私たちの存在は消えてなくなってしまう。
塩は確かに強いです。しかし塩は、素材の味を引き出します。
神の支配は、私たちを殺すものではなく、生かすものです。
イエスは王
神への不信を重ねた結果、神殿のケルビムの上にあった神の栄光は離れ去っていきました。イスラエルの神の栄光は東の門から出て行き、オリーブ山の方へ向かいました。
後に人々は、東の方から神の栄光が帰って来ることを待ち望みました。そしてイエス・キリストはこのオリーブ山からエルサレムに入城しました。
群衆はホサナと叫び、上着を脱いでカーペットを作り、棕櫚の葉をもって歓迎しました。まさしくイスラエルの王として、エルサレムに入城したのです。
ところがその姿は威厳に輝く力強い王のようではありませんでした。ロバの子に乗って来たのです。それは柔和な王の姿でした。
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
ゼカリヤ書9:9
今日は棕櫚の主日です。
イエス・キリストは今日も私たちの心に来て、問いかけます。「あなたはわたしを何者だと思うのか。」
心の王座を主に明け渡しましょう。他の何物にも支配されてはなりません。自分が王になってはいけない。他の人に支配されてもいけない。恐れや不安、過去の傷に支配されてはならない。悪霊に支配されてもいけない。
私たちの王は誰ですか。全ての支配、権威、勢力、主権の上に立つイエス・キリストだけです。
イエスは私たちを神の命に生きる者としてくださいます。全てを捨てて、王なる主イエスに従うとき、朽ちることない私たちの本当の存在価値が輝き出します。
私たちは神なしでは生きられない存在です。イエス・キリストを王として心の王座に迎えましょう。イエス・キリストが治めるとき、私たちは本当の価値を発揮します。
すべてを捨ててイエスに従おう。王なる主イエスが私たちの全てです。