新年感謝礼拝
わたしを呼べ
エレミヤ書33:2-3
2 主はこう言われる。創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方。その御名は主。3 「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。
挨拶を交わそう
明けましておめでとうございます。新年の挨拶ですね。
会えない方にはクリスマスカードや年賀状を送ったり、電話やSNSで挨拶をしたりしたでしょう。
なかなか連絡しないけれど、この時期に久しぶりに連絡を取ったという方もいるでしょう。
年に一回だけでも、連絡があるとうれしいものです。
年賀状が来たらうれしいでしょう。誕生日やクリスマス・新年だけでも連絡を取っていきましょう。
おはよう、ありがとう、ごめんなさい、さようなら、挨拶をしっかりしましょう。
そうすると段々親しみがわいてきます。
神様とも挨拶を交わしていますか?
神様はあなたの名前を呼んでいます。今日も神様からの招待が送られています。
あなたは神様からの招待を受け取りましたか?あなたは神様の名前を呼んでいますか?
神との関係が形骸化した民に
今日の本文は預言者エレミヤに語られた主の御言葉です。
イスラエルの民は神殿での儀式を守っていましたが、それは形式的なものになっていました。
そんな時代に主は若いエレミヤに「エレミヤよ」と呼びかけて預言者としての使命を与えました。
主はエレミヤを通して民に語りかけますが、民は聞こうとしません。神の言葉を記録した巻物を燃やし、エレミヤを牢に入れてしまいました。
そこで主はエレミヤに「わたしを呼べ」と語りかけます。
神様は名前を呼ばれたい
神様は「わたしを呼べ」と言うお方です。神様は名前を呼ばれたいのです。
1月は出エジプト記の通読月間になっています。昨日読んだ箇所の中で、主がモーセに、ご自分の名前を紹介する場面がありました。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
出エジプト記3:14
わたしはある。ヘブライ語ではヤハウェという言葉だったと考えられています。これが主なる神様のお名前です。
そもそも神様に名前があるというのは不思議な感じがしませんか。
名前には他と区別する役割があります。区別する必要がなければ、名前をつけなくていいです。
星にも色々な名前があります。火星、木星、土星、シリウス、北極星などなど。
星の名前なんて気にしたことないという人もいますね。違いなんて知らない。星は星。
また、夜空に星が1つしかなかったら名前をつける必要はありません。星は星です。
聖書で神は唯一だと言っています。神がただお一人しかいないなら、名前をつける必要はありません。神は神だからです。
それなのに神ご自身が「わたしはある」という名前を紹介されたのは、何か理由があるはずです。
名は体を表す
名前にはそのものの性質や願いが込められていることがあります。
プテラノドンという恐竜がいます。「翼がある。歯がない」という意味だそうです。
翼(πτερόνプテロン)⁺ない(ανアン)⁺歯(ὀδoύςオドゥス)→プテラノドン
恐竜の名前ってそんな感じです。
「わたしはある」という名前にはどのような意味があるのでしょうか。
それは自ら存在される方、創造者。そして変わることのないお方であることを意味しているのかもしれません。
今日の本文でも「創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方」とご自分のことを紹介しています。
神様はあなたの名前を呼んでいる
それと、やはり名前は呼んでもらいたいから教えた、ということがあると思います。
「320番さん」とか「次の方」ではなく、自分の名前で呼んでもらえたらうれしいでしょう。
神様も名前を呼ばれたいのです。
神様もあなたの名前を呼んでいます。
ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書43:1
「あなた」のところに自分の名前を入れてみてください。
神様からの挨拶です。あなたに宛てて送られた神様からの年賀状です。受け取りましたか?
返事をしましょう。神様に宛てて返事を書きましょう。
三位一体の神様の愛の交わりに、私たちは招かれています。
神を信頼し祈れ
神様を呼ぶとはどういうことでしょうか。
それは神がどのようなお方かを認めるということでもあります。
私は深川康志という人であり夫であり、父であり、牧師です。色々な呼ばれ方をします。深川さんと呼ばれることもあれば、パパと呼ばれることもあるし、先生と呼ばれることもあります。
それは、自分が相手からどう見られているか、自分は相手にとってどういう存在かを反映しています。
私のことを誰かの父親だと扱うなら、私のことをパパとかお父さんとか呼びます。自分の息子たちや、保育園の先生がそうです。教会の中では先生と呼ばれます。それは牧師として扱われているからです。
神様を「創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方」として認めると、私たちは神様をどのように扱うでしょうか。
信頼するでしょう。
宗教儀式の対象としてではなく、生きておられる方として人格的に扱うようになります。神様の声を聞き、神様に呼びかけるコミュニケーションが生まれます。
それが祈りです。
「わたしを呼べ」とは、神を信頼し祈れ、という招きでもあります。
祈りの中で私たちは「隠された大いなること」を知ることになります。
はっきりとはわからないかもしれません。しかし神の導きを信頼して、水の上にも足を踏み出せます。
自分の思い通りにならなくても、自分の思いをはるかに超えて素晴らしい神様の計画を信頼できます。
そして人知を超えた神の平安の中で喜ぶことができます。
神を父と呼ぶ特権
名前の呼び方には注意も必要です。失礼な呼び方もあります。
当然ですが、天皇にも名前があります。でも名前で呼ぶ人はいません。それは天皇という身分があるからです。
親を名前で呼ぶ人もあまりいないでしょう。親子の関係にふさわしくないと思えるからです。
ふさわしくない名前の使い方をするのは失礼です。
十戒の第三戒にも、「主の名をみだりに唱えるな」とあります。神様の名前の、ふさわしい呼び方があります。「わたしはあるという方~」とか「ヤハウェさん」とか呼ぶ人はたぶんいないでしょう。
ユダヤ人は神様の名前の呼び方には特に気をつけていました。それで聖書の中でヤハウェという文字YHWHが出てくると、わざわざこれをアドナイ(主)と読み替えていました。それを何世代も続けたので、ついにYHWHの正しい読み方も忘れてしまったほどです。
だから神様のことを「主よ~」と呼ぶのはふさわしいことです。
そんな神様との関係を一変させたのがイエス様です。
イエス様は神様のことを父と呼びました。
そして自分について「わたしは~である」と紹介しています。新約聖書で「エゴエイミ」というギリシア語が使われていますが、これは「わたしはある」という神様の名前をギリシア語に訳したものと同じです。
さらにイエス様は「わたしと父とは一つである」とも言いました。
イエス様は三位一体の神ご自身であり、神の子なので、何も間違ったことは言っていません。
しかしユダヤ人には耐えられない神への冒涜に聞こえました。それでイエス様は十字架で殺されてしまいます。
神様はイエス様を復活させ、その正しさを証明しました。
イエス様を信じるとき、私たちも神の子となる資格が与えられます。
聖霊によって私たちも、神様を父と呼ぶことができます。
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
ガラテヤの信徒への手紙4:6
神様を父と呼べる。神の家族とされた私たちの特権です。
特権は使わなければもったいないです。祈りましょう。今年は祈りに力を入れる年にしたいです。
イエス様はこう言っています。
13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
ヨハネによる福音書14:13-14
イエス様も「わたしを呼べ」と呼びかけています。
どんなことでも、聖霊様の助けでイエス様の名前によって天のお父さんに祈る。そのような一年にしていきましょう。