アホであれ
マルコによる福音書 14:3-9
3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
臨時収入が入ったらどうする
「私の遺産の中から300万円を受け取ってください」
このようなメールは詐欺です。すぐゴミ箱に入れてください。
300万円もの大金を見ず知らずの他人にあげるアホはいません。
しかし夢を見るのは自由です。もし本当に300万円をもらったらどうしますか?想像してみてください。
5タラントンを10タラントンに増やした忠実なしもべのように、事業の資金にしてさらに稼ぐのもいいでしょう。投資するという手もあります。
より堅実に、将来のために貯蓄しておくのもいいでしょう。結婚資金や子どもの学費、老後の生活にもお金が必要になります。
ローンの返済に使うのもいいでしょう。
世界の助けが必要な人々のため慈善事業に寄付するというのもいいですね。
せっかくだから遊びに使って放蕩するのも自由です。
私の場合、10%は献金として神様にささげます。欲しかったNintendo Switchなどを買います。いくつかの団体に寄付します。教会の車が壊れたので、購入資金として教会にささげます。
そのように使えば、教会の必要も満たせるし、自分の欲しいものも手に入るし、困っている人の助けにもなるし、経済も回せます。なんて賢い使い方でしょう。
もし300万円すべてを神様にささげるという人がいたらアホです。せめて慈善事業に寄付するとか、社会に還元した方がいいのに。
しかしイエス様はそんなアホを愛されます。
理解できないものを拒む
今日の本文は300万円を無駄遣いしたアホな人の話です。
イエス様はエルサレムに近いべタニアという村に滞在していました。ここにシモンという人が住んでおり、イエス様を食事に招きました。
高価な香油を惜しまず注ぐ
するとそこに一人の女性が来てイエス様の横に立ちました。手には香油の入った壺を持っています。
彼女はその壺を壊すと、中の香油をドバドバとイエス様の頭に注ぎます。家中に香油の香りが満ちあふれます。
この香油はナルドの香油というブランド品です。おそらく300万円以上の価値があります。
イエス様の髪に塗るなら、少しの量で充分です。
しかし彼女は壺を壊してしまった。もうフタはできません。
なんてもったいないことをしたんだ。香油ってこういう使い方をするものじゃない。アホじゃないか。そこに居合わせた人たちはだんだん腹が立って来ました。
そして互いに言います。「全部使うなんて無駄遣いだ。少しだけ使って残りを売っても300万円以上になる。それで貧しい人にパンを買ってあげた方がいいじゃないか。」
限りある富と時間をよく用いるべき
私たちは自分の理解できないものを見聞きしたとき、拒みます。なぜこんなことをするのか。お金の無駄だ。時間の無駄だ。
お金も時間も私たちの人生にとって大切なものです。限りある富と時間をいかに有効に使うのか。
聖書にも「時をよく用いなさい」とあります。だから賢く使わなければならない。
無駄遣いする人を見たら、アホじゃないかと思います。
そしてもっと有効に使うべきだと非難したくなります。
せっかく見つけたお金を浪費する
聖書にはもう1人アホな女性の話が出てきます。ルカによる福音書15:8-10です。
彼女は10枚の銀貨を持っていましたが、そのうちの1枚を家のどこかに落としてしまいました。
だいたい1万円くらいの価値があります。なくしたら使えません。
彼女は家中を探し、ようやく見つけました。
そして喜んで友だちや近所の人たちを呼んでパーティーをします。
は?
皆さんも1万円札を入れた封筒をどこかに落としたと考えてみてください。必死に探しますね。ここまでは理解できる。
そしてついに見つけた。
そしたら友だちに電話で「なくした1万円見つけたから一緒に喜んでください」
とは言いませんね。
絶対に言わない。
だって1万円見つけたことを知られたら「いいね!パーティーしようぜ。お前のおごりな。」と言われるに決まっています。
そしてせっかく見つけた1万円は一晩のパーティーで消えます。むしろ1万円以上かかって赤字になるかもしれません。
はっきり言ってアホです。
神様のすることは間違っていると思う
このルカによる福音書15章は、神様が罪人の救いを喜ぶ様子をたとえ話で説明しています。
このたとえ話のアホな女性は神様のことをたとえているわけです。
神様はアホなんです。
それまでさんざん罪深い生き方をしてきた人間。なくなった銀貨のように無価値な人生を生きてきた。それなのにただイエス様を信じるだけで救われるなんて理解できません。
悪人を救い罪人の友になるなんて、神様はアホだ。
旧約時代にもそう考える人たちがいました。彼らは「主の道は正しくない」神様は間違っていると非難しました。
そこで神様は預言者エゼキエルを通して言います。
それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
エゼキエル書18:25
私たちは自分の正しさの基準で判断します。だから自分の理解の外にあることは正しくないと思ってしまいます。
神様についても、自分の理解を超えた神は間違っていると非難してしまいます。
誰の死をも喜ばず立ち返って生きることを願う神の愛は、人間の理解を超えています。
人間の目から見たら神様のなさることは、アホに見えます。
イエスを拒み十字架につける
人々はイエス様をメシアとして期待していました。力強い救い主としてイスラエルを解放してくれると。
それなのにイエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入った。
ロバ?バーロー、ここは馬だろ。アホか。
弟子の足を洗う?それは奴隷の仕事や。あほんだら。
人の理解を超えたイエス様の姿。
人はイエス様を裏切り、見捨て、十字架につけて殺します。
そんなイエス様をアホだと思う賢い人間に、神様は言います。
これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。
ヨブ記38:2
経綸とは計画のような意味の言葉です。
自分の理解のできる範囲で神様を裁いてはいけません。神様の計画が見えなくなり、神様のなさることがわからなくなります。
他人を裁いてもいけません。
神様のアホさを間違いだと裁く人間の高慢さが、イエス様を十字架で殺しました。
純粋でアホな人間も神は愛する
話を今日の本文に戻しましょう。
今日の本文でアホなことをしたのは、人間です。神様ではありません。
正真正銘のアホだと言えます。
アホな行いをほめる
イエス様にアホなことをしたこの女性について、イエス様はこう言います。
「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」
イエス様は彼女のアホな行いを認めました。
しかも彼女がしたのは良いことだとほめています。
何がよかったかと言うと、埋葬の準備としてできるかぎりのことをしたと言います。
埋葬する遺体に香料を塗る習慣がありました。
これを聞いた人たちはイエス様もアホなことを言ってるなと思ったでしょう。
私たちはこれが後にイエス様が十字架で死んで墓に葬られるときのことだと理解できます。
では彼女はこれからイエス様が十字架で死んで墓に葬られると理解していたのでしょうか。
もしそうだとしたら、彼女もイエス様を殺そうとした人たちの仲間だったことになります。
イエス様を愛する人は誰もイエス様が死ぬなどと考えていませんでした。誰一人、イエス様の十字架の死を理解してなどいません。イエス様の死を見て「ああ、やっぱり死んだ。思った通り。」と思った人はいませんでした。
純粋な愛や信仰から出るアホな行動
彼女は何か計画して香油を注いだわけではありません。彼女自身も自分のしたことがイエス様の埋葬の準備とは思っていません。
ただ純粋な愛の動機でやってしまったのでしょう。
彼女にとってナルドの香油は大切な宝物だったはずです。それをイエス様の頭にドバドバ注ぐのは大変なことです。
彼女自身、壺を割った時に「やばい、もう後戻りできない」と香油と一緒に変な汗がドバドバ出たかもしれません。
そんなアホな行動を、イエス様は受け取り、ほめます。
神様は私たちの心を知っています。どんなにアホに思える行動でも、それが愛から生じたものなら神様は喜んで受け取り、祝福してくれます。
イエス様の弟子の中で一番のアホはペトロです。
彼はイエス様が湖の上を歩くのを見て、私もそちらに行かせてくださいと言いました。
そしてイエス様が「来なさい」と言うと、彼も水の上を歩きます。
水の上を歩くなんて、アホでしょ。イエス様もアホだし、自分も行けると思ったペトロもアホです。
そのアホなペトロはイエス様の招きを真に受けて舟から足を踏み出します。
素直すぎるでしょ。
その子どものような純粋な信仰で、ペトロもイエス様と一緒にアホなことをします。
後で冷静になったペトロは、自分が水の上に立つというアホな状況であることに気が付きます。
イエス様はペトロに手を伸ばし「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いますが、その顔は「アホやな」と笑っていたのではないか。そして2人が舟に乗り込んだ後、ほっとしたら皆でお腹を抱えて笑いあったのではないかと思うのです。
人生のすべてを神に賭ける
アホでいいです。
むしろアホであれ。
パスカルというとても賢い人が、パスカルの賭けというアホなことを言っています。
「神様に人生のすべてを賭けないなら理性なんて捨ててしまえ」と。
神様に賭けたら無限のもうけが得られるからです。
有限のものを失っても無に等しい。
だから300万円すべてを神様にささげても無駄ではありません。
神は人と一緒にアホなことをする
教会でもアホなことをしましょう。
ふつう教会はこんなことしない。社会でこのような時間の使い方はしない。
そのように笑われたとしても、私たちが純粋に神様を愛してぶっとんだことをするなら、神様は喜んで祝福してくれます。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一1:25
神が人になるなんてありえないアイデアだ。救い主が十字架で死ぬなんて無力じゃないか。そんなキリストは神の知恵であり力です。
このキリストを伝えるために、神は人を用いて宣教するという手段を選びました。
神様は私たちとアホなことをしています。
Stay foolish
Appleの創業者の一人スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式でスピーチをしました。
彼はこのときすい臓がんを経験し、死を強く意識させられていました。
次の世代を担う卒業生たちに、限りある時間を無駄にしてはいけないと伝えます。
そしてスピーチの最後にこの言葉を贈りました。
「Stay hungry, Stay foolish.(ハングリーであれ、アホであれ)」
限りある人生だから、他人に左右されてはいけない。自分の人生を生きなさい。
スティーブ・ジョブズは自分の内なる声に聞き従うように言います。
クリスチャンの場合は、イエス様の声に聞き従いたいものです。
私たちの内側から聖霊も語りかけてきます。
「この舟から出て水の上に踏み出せ」
「あなたの大切な香油を惜しまずささげよ」
そんなアホなと思える声に聞き従って、アホなことをやってみてください。
私たちは自由な神の子。
キリストに結ばれているなら、私たちのアホな行動も何一つ無駄になりません。