イエス様が必要なところへ

使徒言行録講解67

イエス様が必要なところへ

使徒言行録25:10-12

10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。

華やかな世界にも福音が必要

 今年は著名な人が亡くなったというニュースをよく聞きました。俳優やスポーツ選手、コメディアン、拉致被害者のお父様も亡くなりました。年を取って亡くなった方、病気、事故、それから今年はコロナウイルスで亡くなった方もいました。
 特に社会に衝撃を与えたのは、コロナウイルスで亡くなった方たちと、若くして自ら命を絶った方たちです。
 自死は日本社会の大きな問題です。自殺者数は働き盛りの世代で特に多くなっています。30代以下の若い世代では、自死が死因の1位になっています。仕事や人間関係の悩みなどが、自死へと追いつめているのかもしれません。
 日本俳優連合が俳優さんや声優さんなどを対象に行ったアンケートで、「仕事が原因で死にたいと思ったことがあるか」という質問に、約3割が「ある」と回答したそうです。
 俳優さんやスポーツ選手などは常に人からの評価にさらされています。見た目やパフォーマンスを維持しなければならない。スポーツ選手なら常に勝つことを求められる。
 大きなストレスを抱え、それがお酒や不倫などの問題行動に出てしまうこともあります。違法な薬物に手を出してしまう人もいます。
 華やかな世界ですが、ここにも福音は必要なのだと感じます。

皇帝に上訴する

 今日の本文はパウロがカイサリアで監禁されて2年後のことです。
 ユダヤの総督はフェリクスからポルキウス・フェストゥスに代わりました。
 ユダヤ人の指導者たちはフェストゥスに、パウロをエルサレムに連れて来て裁判をしてほしいと頼みました。来る途中でパウロを殺すためです。
 フェストゥスはそれを断り、カイサリアで裁判を開きました。エルサレムから来たユダヤ人たちはパウロを訴えようとしました。しかし2年前と同じく、証拠がありません。
 ここでフェストゥスはユダヤ人に気に入られようと思って、「エルサレムでも裁判を受けたいか?」とパウロに聞きました。
 そこでパウロは「皇帝に上訴します」と答えます。

自由になれる道がある

 この裁判の結果はもう明らかでしょう。証拠がないのです。
 ユダヤ人は2年もあったのに、まともな証拠を1つも出すことができませんでした。疑わしきは罰せず。嫌疑不十分で釈放です。
 だからパウロが「もう裁判は受けたくない」と言えば、この裁判は終わってパウロは自由になったのではないかと思います。仮にエルサレムで裁判を受けたとしても、結果は同じです。
 ユダヤ人たちのパウロ暗殺計画も上手くいくはずがありません。2年前、パウロを移動させるために470名の兵隊が動員されたのです。パウロのために勝ち目のない戦争まではしないでしょう。
 だからパウロが安全に自由になる機会が目の前にあるのです。

 もしかするとパウロには1つの心配があったかもしれません。
 パウロは2年間、総督の政治的な道具として監禁されていました。この新しい総督も、ユダヤ人に気に入られたいがために監禁し続けるかもしれない。
 しかしその心配は必要なさそうです。数日後にフェストゥスがヘロデ・アグリッパ2世に書いた手紙の中で、「パウロが訴えられていることや主張を確かめている方法がわからない」と書いています。フェストゥスにはもうお手上げです。
 また、ヘロデ・アグリッパ2世の前で「死罪に相当することは何もしていないとわかった」と言っています。
 フェストゥスもユダヤ人の気に入られたいと思っていましたが、そのためにパウロを放置しておくことはしないでしょう。
 だからカイサリアに留まっていたとしても、近いうちに釈放されたはずです。

イエス様を伝える道を選ぶ

 ところがパウロは別の道を選択します。
 「皇帝に上訴する」と言ったのです。
 これはローマ市民に保証された権利でした。地方での裁判に不満がある場合、ローマで裁判を受けることができます。
 確かにパウロはカイサリアやエルサレムでの無駄な裁判に不満があったでしょう。ローマで公正な裁判を受けることができれば、無罪はすぐに明らかになりそうです。
 しかしパウロが「皇帝に上訴する」と言ったのは、まともな裁判を受けるためだけではなかったと思います。
 パウロはカイサリアに移される前、主の言葉を聞きました。
 主は言います。
「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」
 以前からパウロはローマに行きたいと願っていました。今は被告人という立場ではありますが、上訴すればローマに連れて行ってもらえます。
 そしてローマで、イエス様を証ししようとしているのです。
 なぜローマに行きたいのか。なぜ皇帝に上訴するのか。
 その一番の目的は、イエス様を伝えることでした。
 パウロは、自分が自由になる道よりも、イエス様を伝える道を選びました。

Quo vadis

ローマ皇帝ネロ

 時のローマ皇帝はネロです。暴君として知られています。
 AD64年にローマで大火事がありました。原因はわかりません。
 民衆はネロが放火を命じたと疑い始めました。
 そこでネロは、この火事の責任を普段から気に入らなかった敵に押し付けました。それがキリスト教徒です。
 ネロはキリスト教徒を捕らえさせ、猛獣の餌食にしたり、夜中に松明の代わりに焼き殺したりしました。

ローマに赴くキリストと邂逅するペトロ

 この時代を描いた有名な小説に、「Quo vadis」があります。映画化もされています。
 ネロによるキリスト教徒の迫害が激しくなり、多くのクリスチャンがローマから逃げ出しました。
 ローマ教会にいたペトロは最後までローマに留まろうとしますが、周りから説得されてローマを離れることにしました。
 夜中にアッピア街道を歩いていたペトロは、夜明けの光の中に、こちらに向かってくるイエス・キリストを見ます。
 ペトロはひざまずいてイエスに尋ねました。
「Quo vadis, Domine?(主よ、どこへ行かれるのですか)」
 イエスは言います。
「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかろう」。
 ペトロはしばらく気を失っていましたが、起き上がるとすぐに来た道を引き返しました。そして十字架に逆さまにつけられ、殉教します。
 ペトロは、自分が自由になる道よりも、イエス様が愛する民のところに行きました。

イエス様が行くところとは

 「Quo vadis, Domine?(主よ、どこへ行かれるのですか)」
 これは聖書の中で実際にペトロが語った言葉です。それは最後の晩餐の時でした。(ヨハネによる福音書13章)
 イエス様は「わたしが行くところにあなたたちは来ることができない」と言いました。
 それに対しペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねました。
 イエス様は「わたしの行くところに、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と答えました。
 イエス様が行くところとは、どこだったのでしょうか。
 それは十字架の道でした。私たちを救うために、イエス様は十字架の道を行き、死なれました。

 救いのための犠牲はイエス様お一人で完了しています。私たちはただ十字架で死なれ復活されたイエス様を信じることで救われます。
 しかし信仰によってイエス様につながった私たちは、イエス様と共に歩むことが求められています。
 イエス様の目が向かうところに目を向け、イエス様が耳を傾ける声に耳を傾け、イエス様が手を差し伸べるところに手を差し伸べ、イエス様が行こうとするところに行くのです。
 別にローマにまで行く必要はありません。私たちの周りにもイエス様が必要とされているところはあります。気づいていますか?

人生の中で繰り返し尋ねるべき問い

 「Quo vadis, Domine?(主よ、どこへ行かれるのですか)」
 これは私たちの人生の中で、繰り返し尋ねるべき問いです。
 私たちはただ自分のしたいこと、行きたいところ、自分が利益を得ることばかりを求めていたのではないでしょうか。
 イエス様が必要とされているところに、福音を携えて行こうとしていたでしょうか。
 私たちが歩む道の途中で、イエス様とすれ違うことのないようにしたいです。

十字架に敵対して歩んでいないか

 パウロは後にローマで監禁中に書いた手紙の中で、こう書いています。

18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

フィリピの信徒への手紙3:18-19

 500年以上前、教会が十字架に敵対して歩んでいた時代がありました。そこで起こったのが宗教改革です。
 今を生きる私たちも、お腹を神として、自分の欲を満たすこと、この世の富、この世の権力に忖度することを追い求めるなら、それはイエス様に従っていると言えるでしょうか。滅びの道を行き、十字架に敵対して歩んでいるかもしれません。
 宗教改革は過去に終わった出来事ではなく、日々私たちにも改革が必要です。
 日々「Quo vadis, Domine?(主よ、どこへ行かれるのですか)」と尋ね、イエス様が必要なところへ福音を携えて出ていきましょう。

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