エゼキエル書講解33
オホリバの杯
エゼキエル書 23:32-35
32 主なる神はこう言われる。姉の杯を、お前は飲まねばならぬ/深くて大きい杯を。お前は嘲られ、侮られる。杯は満ち溢れている。33 お前は酔いと悲しみで満たされる。恐れと滅びの杯/お前の姉サマリアの杯 34 お前はそれを飲み干して/杯のかけらまでかまねばならない。そして自分の乳房をかき裂く。わたしがこれを語ったからだと/主なる神が言われる。35 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前はわたしを忘れ、わたしを後ろに投げ捨てたのだから、不貞と淫行の責めを自分で負わねばならぬ。
オホラとオホリバ
エゼキエル書23章にはオホラとオホリバの話が出てきます。
姉のオホラちゃんと妹のオホリバちゃんはエジプトで奴隷の生活を送っていました。彼女たちはそこでみだらな生活をしていました。
そこに主が来ます。主は彼女たちを憐れみ、買い取って自分のところに招きます。
彼女たちは主のもとでいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
という話にはなりません。
オホラちゃんは主のもとにいながら、アッシリア人に心を向けました。そしてアッシリア人とみだらなことをしました。エジプトでしていた悪い生活をくりかえしてしまいました。
そこで主はオホラちゃんを手放し、アッシリア人の好きなようにしました。
アッシリア人はオホラちゃんを裸にして、殺してしまったのです。なんと残酷なことでしょうか。
妹のオホリバちゃんはその一部始終を見ていました。このような残酷なことを見たら、ひどいことをしたアッシリア人に憎しみを抱いたり、姉のような過ちを繰り返さないようにしようと思うのではないでしょうか。
ところがオホリバちゃんはオホラちゃんと同じようにアッシリア人とみだらなことをしてしまいました。
さらにオホリバちゃんは、壁に彫られたバビロン人に目を留めました。それでわざわざバビロンに使者を送ってバビロン人を呼び、みだらなことをしました。
そこで主は、オホリバちゃんもオホラちゃんと同じようにバビロン人に手渡すことにしました。
オホリバちゃんは自分の選択の責任を問われました。救われた者として主のもとでいつまでも幸せに暮らしましたというハッピーエンドの道があったのに、自分で滅びの道を選んだのです。
オホリバちゃんは神を捨てたので、苦難の杯を飲み干さなければなりませんでした。
神を捨てた人の末路
今日の本文は主がエルサレムへの裁きを告げる場面です。
オホラとオホリバの話は、サマリアとエルサレムを象徴しています。
エルサレムは主がその名を置くと言われた都でした。ところが自ら神を捨ててしまいました。
そこでサマリアがアッシリアによって滅ぼされたように、エルサレムはバビロンによって滅ぼされようとしています。
これが神様を捨てた人の結末です。神の救いが提供されていながら自ら滅びを選択した人の人生です。
イエスの飲んだ杯
まずイエス・キリストが飲んだ杯は私たちへの愛の表現でした。
救い主が飲むべき杯
聖書の中で杯というとまず何を思い浮かべるでしょうか。
イエス・キリストがゲツセマネの園で祈った祈りを思い出す人も多いと思います。
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マルコによる福音書14:36
イエス・キリストはその杯を飲みたくありませんでした。しかしあくまで父の御心通りになることを祈りました。
イエス・キリストがこのように自身の悩みや悲しみを込めて語ったり祈ったりする場面はとても珍しいです。
船が嵐で沈みそうな状況でも、キリストの平安は変わりませんでした。嵐の中でも平然と寝ていたほどです。
ゲツセマネの園に向かう前にも、これから弟子たちに裏切られるとわかっていながら、「私の平安をあなたがたに与える」と約束しました。
どのような環境もどのような敵も奪うことのできないキリストの平安が、この祈りの中では失われています。
この杯というのは、それほど恐ろしいものなのです。できることなら避けたい。
しかし救い主としてイエス・キリストはこの杯を飲まなければなりませんでした。
十字架
この杯が十字架を意味したものであることは福音書を見ればわかります。
十字架というのは死刑の方法でした。肉体的にも精神的にも苦しみの極みに達する、恐ろしい刑罰です。
イエス・キリストは群衆から嘲られ、鞭打たれ、罪人の頭として十字架に釘付けにされます。
イエス・キリストはその恥も痛みも耐え忍びました。
十字架上で赦しを祈り、強盗の救いを宣言し、母マリアをヨハネに委ねる配慮を示しました。
ところがそのイエスが、悲痛な叫びを上げます。
「エリ エリ レマ サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」
いつも主のことをアバ父と呼んでいたイエスが、神と呼んでいます。
これこそイエス・キリストが杯を恐れた理由でした。
イエス・キリストは罪人の頭として、神から引き離されなければならなかったのです。
完全な一致の中にあった三位一体の神が、全宇宙の全歴史の中で、ただこの瞬間だけ引き離されています。
こうしてイエス・キリストは杯を飲みました。
罪なき神の独り子を手放す愛
イエス・キリストはなぜこれほどまでに苦しまなければならなかったのでしょうか。
イエス・キリスト自身は何の罪もありませんでした。罪なき神の独り子です。
それなのに神はイエス・キリストを見捨てたのか。子が大変なのときに手を差し伸べないなんて、神の愛を疑ってしまいたくなります。
しかし実は子を手放すとき、父の愛が現れます。
ウィリアム・ポール・ヤングの小説「神の小屋」の中で主人公のマックはパパに出会います。
パパは父なる神を象徴した存在です。
マックは愛する娘ミッシーを殺人犯に殺されていました。このことはマックを深く悲しませました。
ミッシーは神様が大好きでした。それなのになぜ神はミッシーを助けてくれなかったのか。神から見捨てられたような思いがありました。
パパは神の小屋の中でマックと対話しながら、イエス・キリストが十字架で死んだときに私たちは共にいたと語ります。本当でしょうか。
そのときマックの心の中にあった混乱が口から出てしまいます。「どうしてそんなことが言えるんですか?僕を見捨てたのと同じように、あなたはあのとき、彼を見捨てたじゃないですか!」
そのときマックは、パパの手首に傷があるのを見ました。
父は愛するからこそ子を手放します。かわいい子には旅をさせよという言葉もあります。
父親から鍛錬されない子がいるとしたら、本当に子どもなのか疑わしくなってしまいます。
では父が子を旅に出すとき、鞭打つとき、どう感じているのでしょうか。
当然悲しいです。だけれど愛するからこそ父は子を手放すのです。
この父の愛によって子は本当に自由になり、自立していきます。
ですから父なる神がイエス・キリストに杯を飲ませたとき、全宇宙の全歴史の中で最大の愛が示されたと言えます。
イエス・キリストが飲んだ杯は、三位一体の神の愛の表現でした。
人が飲むべき杯
次に今日の本文の32節から34節に『32 主なる神はこう言われる。姉の杯を、お前は飲まねばならぬ/深くて大きい杯を。お前は嘲られ、侮られる。杯は満ち溢れている。33 お前は酔いと悲しみで満たされる。恐れと滅びの杯/お前の姉サマリアの杯 34 お前はそれを飲み干して/杯のかけらまでかまねばならない。そして自分の乳房をかき裂く。わたしがこれを語ったからだと/主なる神が言われる。』 とあります。
私たち人はオホリバの杯を飲まなければならない存在でした。
主を捨てた人が飲む
ではこの杯は誰のための杯だったのでしょうか。
罪なき神の独り子であるイエスが、罪人の頭として杯を飲みました。
これは罪人のための杯です。オホラやオホリバのように神を捨てた者が飲むべき杯です。
神の怒りの杯
酒とはどのようなものでしょうか。
酒自体が悪ではありません。聖書の中にはお酒を肯定的に描いている箇所も少なくありません。カナの婚礼の場面でイエス・キリストは水をぶどう酒に変えました。宴会の話も多く出ています。
酒というと喜びの象徴ですね。
またパウロはテモテに、健康のために少しはお酒を飲みなさいと勧めています。当時は衛生上の問題から生の水やジュースがあまり飲めなかったので、お酒を飲む必要がありました。現代ではコーラという素晴らしい飲み物があります。パーティーのときも、元気が欲しいときもコーラさえあれば大丈夫です。
確かにお酒には肯定的な面もありますが、副作用があるので注意が必要です。
お酒にはアルコールという成分が入っています。これが気分を良くしてくれたり、病原菌を殺したり、体を温めてくれたりします。
ところがこのアルコールを取りすぎると脳が麻痺して記憶に障害を起こしたり、暴力を引き起こしたりします。
またアルコールが体の中で分解されるとき、アルデヒドというものに変わります。アルデヒドには毒があり、吐き気を起こしたり二日酔いを起こしたりします。
それで酔いからさめたとき、空しさばかりが残ることになります。悲しいことです。
酒に酔って人生が壊れてしまった人もいます。酒のせいで死んでしまう人もいます。
私も学生時代はよくお酒を飲んでいました。
夏休みのある日、近所の友だちの家でお酒を飲みながら語り合っていました。とても気持ちよく語り合いました。
真夜中に解散してそれぞれの家に帰りました。
自分が住んでいたアパートはその友だちの家から茶畑を挟んだところにあります。近かったので、すぐ帰りつき、眠りました。
しばらくして、誰かが肩をたたいているのに気づきました。独り暮らしのはずなのに、誰だろう。
その人は肩をたたきながら何か言っています。
「お兄さん、お兄さん、死ぬよ、こんなところで寝たら死ぬよ!」
驚いて目を覚ますと、茶畑の端でした。
道路と茶畑の間で寝ていたのです。
もう少し寒い時期や、もう少し道路に近い方で寝ていたら本当に死んでいたかもしれません。
このようにお酒には恐ろしい面もあります。お酒に酔いしれてはいけませんよ。
神の怒りの杯は、人を滅びへ向かわせる恐ろしい杯です。
オホリバはこの深くて大きな杯に満ち溢れる神の怒りを飲み干さなければなりません。
オホリバは飲むだけでは満足できず、杯のかけらまでかみます。さらにそのかけらで自らを傷付けるのです。
イエスが飲まれた
神を捨てた罪人である私たちは皆、この怒りの杯を飲むべき存在でした。
ところが私たちが飲むべき杯は、イエス・キリストが代わりに飲み干しました。
死ぬべき私たちのために、イエス・キリストが十字架で血を流し死なれたのです。
私たちの杯は空になっています。罪の償いは完了しました。
だからもう私たちは神の怒りの杯を飲まなくていいのです。
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。』
ペトロの手紙一2:24
イエス・キリストの受けた傷によって、私たちは癒されました。
私たちはどう生きるか
最後に今日の本文の35節に『それゆえ、主なる神はこう言われる。お前はわたしを忘れ、わたしを後ろに投げ捨てたのだから、不貞と淫行の責めを自分で負わねばならぬ。』 とあります。
選択と責任
だとすれば私たちはどう生きるべきでしょうか。
人には選択の自由と責任があります。
神様は強制的に何かをさせるということを好みません。自由の中で愛の交わりをすることを願っています。
ですから私たちが何をするかというのはそれほど重要な問題ではありません。
どこに就職するのか、誰と結婚するのか悩みます。どんな言葉を語るのか。イベントに参加するのか。選択することは多くあります。
自立した人であれば、自分の頭で考えて選択できます。
そしてその選択の責任を取ります。
後になって会社や結婚相手に文句を言っても、自分がそれを選んだわけです。
自分から行動を起こさなければ問題は解決しません。話した言葉についての責任も取らなければなりません。
恵みの機会を逃してから、やっぱり参加すればよかったと思っても、後で取り返すことはできません。
人が罪を犯すのは誰のせいでしょうか。隣にいる女のせいでしょうか。サタンが誘惑するからでしょうか。それとも神が造ったこの世界が悪いのでしょうか。
他人のせいでも環境のせいでもありません。
人は自分で罪を選択します。神を忘れ、後ろに投げ捨てることを選択します。
人はその選択の責任を取らなければなりません。
恵みを受けた
オホラとオホリバはエジプトでみだらな生活をしていた時、主に救い出されました。
それなのにオホラは昔の生活をくり返し、オホリバは姉よりさらにみだらなことをしました。
そのため、滅びの杯が準備されています。
私たちは救われました。罪の奴隷であった私たちをイエス・キリストは贖いました。
主なる神様といつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。となる道が備えられています。
しかし私たちはオホラやオホリバのように、再び主を捨てるのです。
私たちが自分の力、考えに頼っている限り、同じことのくり返しです。
私たちには本当の自由があります。それはキリストと共に生きる自由です。聖霊の導きに従う自由があります。
主に全てを委ねた人生とは、自分の責任を放棄した無責任な生き方ではありません。
創造主の御手に戻り、本当に人間らしく生きる生き方です。
主に従って歩むとき、私たちは人間として本当に責任ある人生を生きることができます。
命の道と死の道
私たちの前には祝福と呪いがあります。
19 わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、20 あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。』
申命記30:19-20
神と共に生きる命の道か、自分の力で生きる死の道です。私たちはそのどちらかを選びます。
命の道を選びなさいと主は命じています。
イエス・キリストが私たちのために杯を飲まれました。その裂かれた体と血潮を忘れてはいけません。
贖われた者としての尊い人生、命の道を選び取る私たちになることを願います。