ビジョンと使命7
キリストの弟子になる
マタイによる福音書 28:18-20
18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
人類に影響を与えた最期の言葉
17世紀のフランスにピエール・ド・フェルマーという裁判官がいました。
彼は趣味で数学の研究もしていました。本業はあくまで裁判官ですが、数学の研究も趣味のレベルを完全に超えていました。
同じ時代、フランスにはパスカルやデカルトといった数学者がいましたが、彼らと共同で研究を行うほどです。
特に数論という分野では、数論の父とも呼ばれています。
フェルマーは古代ギリシアの数学者ディオファントスの「算術」という本を読み、その余白に気づいたことを書き込んでいました。そのコメントの数は全部で48ありました。
フェルマーが亡くなった後、長男がそのコメント入りの算術を再出版しました。こうしてフェルマーが書き残した48の問題が世に知られることになりました。
その内の47の問題については証明や反証が与えられました。
しかし最後に1つの問題だけは証明も反証もできませんでした。
それはこういうコメントです。
「立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。」
$ x^2+y^2=z^2 $ は有名な三平方の定理(ピタゴラスの定理)ですね。
この右肩にある数字が2より大きな自然数になると、式が成り立たないというのです。
$$ 3以上の自然数nについて、x^n+y^n=z^nとなる自然数の組(x,y,z)は存在しない. $$
これがフェルマーの最終定理と呼ばれる問題です。
言っていることは中学生でも理解できます。そしてフェルマー自身、驚くべき証明を見つけたと言っています。
でも余白が足りない…。証明の問題で困ったときに使える最高の言い訳です。
そこで多くの人がこの定理を証明しようと挑戦しました。しかしその挑戦はことごとく失敗に終わっていきます。
この1つの問題は、世代を超えて数学の世界を動かす原動力の1つであり続けました。
そして1995年、ついにアンドリュー・ワイルズが証明を終わらせます。
フェルマーがコメントを書いてから、360年かかりました。
最期の言葉が、世代を超えて人々を動かす原動力になることがあります。
今日は教会のビジョンと使命の7つ目「世界に福音を宣べ伝え、主の弟子を立てる。」です。ついに最後の使命まで来ました。
これまで一致することとかそれぞれの生活を大事にすることとか、次世代を育てるといった使命を分かち合ってきました。それぞれの使命がとても大事なものなのですが、これらの使命も究極的にはこの7つ目の使命に向かっていきます。
この使命は、イエス様が弟子たちに伝えた最後の命令、至上命令に基づいているからです。
キリストの弟子とは
十字架で死んで3日目に復活したイエス様は、40日間に渡って弟子たちの間に現れました。
イエス様は弟子たちに、ガリラヤで会うと約束していました。それで弟子たちがガリラヤのある山に集まりました。
復活のイエス様を目の前にしても半信半疑な弟子たちの方に、イエス様は近寄ってきて、最後の命令を与えます。
「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と。
キリストの弟子を立てなさいと命じられています。
弟子とは何でしょう。
元々の言葉には、「学ぶ者」や「教えを受ける者」といった意味があります。
キリストの弟子は、キリストの教えを学ぶ者ということになります。
マタイはキリストの教えをまとめて記録しています。特にマタイによる福音書の5章から7章は山上の説教として知られています。その中には「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」とか「求めよ、さらば与えられん」とか有名な教えもあります。
キリストの弟子を立てるために、山上の説教の言葉を教えればいいでしょうか。山上の説教を暗記したらキリストの弟子になるのでしょうか。
ではキリストの弟子になるために、まず山上の説教の最後の言葉を覚えましょう。
24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
マタイによる福音書7:24-27
あら、聞くだけで行わない人は愚かな人で、聞いて行う人が賢い人だと言われています。
どうやらキリストの教えを暗記してもキリストの弟子にはなれないようです。
聞いて行うことが求められています。
キリストの言葉に聞き従う人がキリストの弟子です。
理解できなくても従った弟子たち
キリストの弟子たちは確かにキリストの言葉に聞き従ってきました。
夜通し漁をしても魚がとれなかったペトロに、イエス様は沖に漕ぎ出して漁をしなさいと言いました。ペトロはそれに従いました。
何が起こるか理解も期待もしていなかったでしょう。半信半疑というか、疑いの方が強かったでしょう。
それでも言われた通りにしたら、網が破れそうになるほどの魚がとれました。
イエス様は十字架の死と復活を3回予告していました。しかし弟子たちには理解できませんでした。イエス様が逮捕されると逃げ出しました。
復活の話を聞いても疑いました。目の前に現れても、まだ疑う者がいます。
キリストの至上命令を受けても、弟子たちはその言葉の意味がわかっていませんでした。
すべての民を弟子にしなさい。ユダヤ人だけでなく、異邦人もキリストの弟子になるということです。
教会がこのことを理解するまで長い時間がかかりました。
理解できなくても、フィリポ執事はサマリアへ行き、エチオピアの宦官に洗礼を授け、ペトロもコルネリウスに洗礼を授けました。こうして異邦人もキリストの弟子になっていきました。
私たちもキリストの弟子になるよう招かれている
キリストの弟子になるように招かれているのは、すべての人です。
すべての人が、キリストの言葉に聞き従うように求められています。その中には、私たちも含まれています。
ですから私たちも至上命令に従うことが求められているのです。
まずは私たち自身がキリストの弟子になりましょう。
理解できなくてもいいです。半信半疑でもいいです。暗記できなくてもいいです。聞いて、従うのです。
聖書を読んだり、祈ったり、メッセージを聞いたりする中でイエス様はあなたに語りかけます。それを生活の中で実践するのです。
神の言葉は鋭くあなたの心を突き刺してきます。自分の罪深さ、醜さを指摘してきます。そして神様のところに帰って来なさい、ここを変えなさいと語りかけてきます。そうしたら悔い改めるのです。
また神の言葉は隣人への愛へと私たちを駆り立てるでしょう。赦すことや弱い人を助けることを求められるかもしれません。自分の持っているものを分かち合うこと、ささげることを求められるかもしれません。そうしたら愛を実践するのです。
上手くいかなくてもいいです。実践してみることが大事です。
春の鳥にウグイスという鳥がいます。
ホーホケキョとさえずります。
ホーホケキョに上手いと下手があるそうです。若いのはまだ下手なんですね。
それでも鳴きます。恥ずかしがらずに発表します。
そうしたら段々上手くなるんだそうです。
何でもそうですよね。語学や音楽なども知識だけ増えても上達しません。実践する中で上手くなっていきます。
私の説教も未熟なまま語らせていただいていますので、ぜひご意見ご感想を聞かせていただいて、神の言葉をまっすぐに届けてまいりたい所存であります。
キリストの言葉に聞き従う弟子になっていきましょう。
弟子の生き方
イエス様はここで、弟子たちに4つの行動をするように求めています。行くこと、弟子にすること、洗礼を授けること、教えることです。
教会はエクレシア、人の集まりだと前にも話しました。確かに集まることは大事です。
そして集められた私たちは神様の祝福を受けて送り出されていきます。職場へ、学校へ、家庭へ、この町へ、それぞれの生活の現場に、キリストの弟子として送り出されていきます。
そしてその生活の現場で、キリストの弟子を立てていきます。
弟子とするために、洗礼を授け、教えるのです。
洗礼はイエス様が行うように命じた礼典の1つで、教会は大切に守ってきました。
洗礼者を生み出すことを願っていますか。
1年で1人でも、洗礼を受ける人が起こされるように求めてください。
1人が救われるとき、天には大きな喜びがあります。その喜びを共に味わっていきましょう。
洗礼を受けさせることが目的ではありません。イエス様を信じさせて終わりでもありません。キリストの弟子を立てるのです。
洗礼者の数を増やすために、教会に人を連れて来てすぐに洗礼を授ける教会もありますが、私たちはそうしません。学びの期間を持ちます。
もちろん洗礼を受ける条件は、イエスを主と信じることだけです。知識や行いは必要ではありません。
しかし洗礼を受けてからも、信仰生活は続きます。洗礼は1つのスタートラインに過ぎません。
とりあえず洗礼は受けたけど、キリストの弟子になるのは嫌だからやっぱりやめます、というのでは本当にあなたはイエスを主と認めているのかと疑問に思ってしまいます。
だから教理を学んで信仰告白を明確にしてもらい、キリストの弟子として歩んでいけるように教える必要があるのです。
特にキリストの弟子として歩んでいく上で重要な教えが1つあります。
34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ヨハネによる福音書13:34-35
互いに愛し合うことです。その姿を見て、私たちがキリストの弟子だとわかると言います。
キリストの弟子になるために従うべき教えは、この1つに集約できると言ってもいいです。
私たちは互いに愛し合うために呼び集められ、愛を実践するために生活の現場へ遣わされていきます。そして私たちを通して愛を受け取った人たちがまた愛する者へと変えられていくのです。
この愛とは、罪人である私たちのために神の独り子イエスが十字架で死に、復活したことによって示された神の愛です。
この人は家族だから愛するとか、自分と気が合うから愛するみたいな条件付きの愛ではありません。
他人であるにも関わらず、全然気が合わないにも関わらず、愛そうとする意志です。
今年、あなたの生活の現場で1人の洗礼者が起こされることを願ってください。
ターゲットは、こいつを愛するんだという意志が必要な人です。
最も愛するのが難しそうな人を愛そうと決断するのです。
それがキリストの弟子の生き方です。
弟子を呼んだ方の約束
そうは言っても、そんなの無理。自分にはできないと思われる方がいると思います。
愛することの難しさは、愛を実践しようとした人ならわかります。
「いや、私は愛のある人間だ」という人は、本当の意味で愛したことのない人です。
キリストの弟子として生きるのは、私たちの力では無理なのです。
そこでイエス様の命令の前後の約束に注意してください。
イエス様は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、」と言っています。
この命令をする前提として、命令を出した主人には全ての権能があります。
だから命令を実践する力も、命令を成し遂げるための保証も、イエス様が責任を持って与えてくださいます。
それが聖霊です。
私たちはキリストの弟子になることを自分で選んだわけではありませんね。イエス様が私たちを弟子として呼んでくださいました。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
ヨハネによる福音書15:16
私たちが行って実を結ぶように、イエス様が私たちを選びました。私たちはイエス様につながって、その恵みを受け取ればいいです。
神を見失いそうになるときこそキリストの愛を実践する
イエス様につながっていますか?
このスマートフォンとプロジェクターは無線でつながっています。つながっているとき、スマートフォンの画面にアイコンが表示されます。
イエス様とのつながりもアイコンで表示されたらいいですね。つながりが弱くなったら、強くつながれるところに行くとか対策ができます。
どこに行けばイエス様と強くつながれるのでしょう。
このコロナ禍の中、イエス様はどこにいるのだろう。仕事をしているとき、イエス様はどこにいるのだろう。病気で苦しむとき、人間関係で悩むとき、イエス様は一体どこに行ってしまったのか。
イエス様の最後の約束を思い出してください。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
灯台下暗しという言葉があります。暗闇の中で灯台の光を探していますか。目を上げてください。実は灯台のすぐ下にいるかもしれません。
神様を見失いそうな苦難のときこそ、イエス様は近くにいます。
誰もが人と距離を取ろうとする今こそ、愛を実践する時です。
キリストの弟子になるのは、今です。