キリストの教会
マタイによる福音書 16:16-19
16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
建学の精神
私が私立高校の先生になってすぐの頃、県内の私立高校の新任教師を対象にした研修がありました。そこで聖隷学園理事長の長谷川了先生が話をしてくださいました。
ミッションスクールの理事長なので善きサマリア人のたとえなど聖書の話もされたように思いますが忘れました。
しかし長谷川了先生が語られた1つの言葉は強く印象に残り、今も忘れられません。
それは「建学の精神」という話です。
私立学校には建てられた背景があります。誰かが「ここにこのような学校が必要だ」と明確な目的を持ち、その目的に賛同する人々が集まり協力し私立学校が誕生します。
その目的は短いスローガンとして掲げられ、建学の精神として次世代に受け継がれ、その学校ならではのユニークな教育が行われます。
たとえば聖隷クリストファー大学であれば「生命の尊厳と隣人愛」。隣人愛の実践の中から生まれた聖隷らしいスローガンです。
常葉大学は「より高きを目指して」。常に青々とした葉を茂らせ成長を続ける木のような、生命力にあふれたスローガンです。
ちなみに日本体育大学の建学の精神は「體育富強之基」です。豊かな社会を実現するために心身ともに健康でスポーツを普及発展させる人材が必要だという、筋肉が考えたかのようなスローガンです。
本当にユニークです。
この建学の精神を見失うと、その学校は何のために存在するかを見失います。
私立学校に限らず目的は大事です。
人生の目的を見失っていませんか。
ウェストミンスター小教理問答も第1問で「人の主な目的はなんですか」と目的を問うことから始まっています。
その答えは「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」。そこから人が神について何を信じなければならないか、神は人に何を求めているかという次の問いに進んでいきます。
教会にも目的が必要です。
なぜここに教会が建てられたのか。私たちはなぜここに呼び集められたのか。
その目的を見失ってはいけません。
教会の設立者はキリスト
私立学校には設立した人や団体があります。
教会は誰が設立したのでしょうか。
私たちプロテスタント教会は腐敗したローマ・カトリック教会への抵抗の中から生まれました。
ローマ・カトリック教会はペトロが初代の教皇であるとしています。
そのペトロも教会の設立者と言うにはふさわしくありません。
今日の本文でイエス様がこう言っています。
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」
ここで、新約聖書の中で最初に教会という言葉が使われています。
教会を建てたのは誰か。イエス・キリストが「わたしの教会を建てる」と宣言しました。
教会の設立者はキリストです。
ペトロでもルターでも宣教師でもなく、キリストの教会です。
教会は何のために建てられたのか
イエス様はどのような目的を持って教会を建てたのでしょうか。それはイエス様に聞いてみなければわかりません。
それぞれの教会にはそれぞれの教会が置かれた地域や時代によって異なる目的があるでしょう。この教会の目的は何かということは、神様に問いながら探し求めなければなりません。
ここではイエス様の言葉から、原則的な部分を見ていきます。
イエスは主と告白する人たちを集めるため
まず教会の土台は信仰告白です。
イエス様は「この岩の上に」わたしの教会を建てると言われました。
この岩とは何でしょう。
岩はギリシア語でペトラです。だからこの岩とはペトロのことではないかと解釈する人たちもいます。しかしペトロ個人が教会の土台ではないでしょう。
むしろペトロの言った言葉が土台だと見ることができます。「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白です。
これは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対してペトロが初めて「イエスは主」と告白した場面になります。
この「イエスは主」という信仰告白をきっかけにイエス様は教会の設立を宣言し、十字架の死と復活を予告します。
だから「イエスは主」という信仰告白を土台とする集まり、それが教会です。
教会のギリシア語エクレシアは人の集まりです。教会がただの人の集まりと違うのは、「イエスは主」と告白する人たちの集まりだということです。
パウロは世界各地の教会を指して「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めている」人々と表現しています。それぞれの教会は「イエスは主」と告白する人たちが集まって形成されています。
そしてすべての舌が「イエスは主」と告白するようになると言います。
教会は「イエスは主」という信仰告白をケリュグマとして受け継いできました。
教会のメンバーに加わるために「イエスは主」と告白し洗礼を受けます。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマの信徒への手紙10:9
「イエスは主」と告白する人が集まり、また新たに「イエスは主」と告白し救われる人を生み出していきます。
教会は「イエスは主」と告白する人たちの集まりとして建てられました。
キリストを頭とした一つの体とするため
次に教会はキリストを頭とします。
キリストが「わたしの教会」を建てると言いました。教会はキリストのものです。私たちはその管理を委ねられています。
もし管理を委ねた相手が主人の財産を勝手に使ったらどうなりますか。
人類史上最速の人、ウサイン・ボルトさんの口座から1270万ドル(約16億円)がなくなっているとニュースになりました。投資会社に預けていたところ、その会社の従業員が勝手に使ってしまった疑いが持たれています。
ウサイン・ボルトさんの口座から消えた16億円、当局が投資会社を捜査 ジャマイカ
他人の被害であってもそのようなニュースを聞くと、とんでもない詐欺行為だと怒りが湧きます。
では神様のものを委ねられた人間がそれを自分たちのために勝手に使ったらどうですか。同じように怒りが湧きますか。
イエス様は神殿を商売の場にしていた人たちを追い出しました。縄でムチを作り、怒りをあらわにしました。すべての人の祈りの家を強盗の巣にしていると怒ったのです。
もし教会が自分たちの利益のために活動するなら、それはドロボウと同じです。
人を利用し、搾取し、政治家と関係を深め、自分たちの影響力を強めようとする教会があるとすれば、怒るべきです。
人は誰も神と富に仕えることはできません。
イエスを主としているか、富などこの世の力に支配されていないか、立ち止まって点検してみてください。
「イエスは主」と告白する教会がこの世の力に支配されることがあってはいけません。頭がキリストでなくなったら、教会は教会でなくなります。
22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソの信徒への手紙1:22-23
教会はキリストを頭とする一つの体。
この世のものはすべてその足元に従わせられているに過ぎません。
教会はキリストの体としてその福音を現わしていきます。
教会はキリストのものとして建てられました。陰府の力もこれに対抗できません。
神様の御心をこの地で行うため
最後に教会には天と地をつなぐ鍵が委ねられています。
イエス様は主の祈りの中で、こう祈りなさいと言います。
御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
マタイによる福音書6:10
神様の御心が天で行われているように、地上で行われるようにしてください。
天では天使たちによって御心が行われます。
地上では誰が行うのですか。
天と地をつなぐ鍵を持つ教会がそれを行います。
神様の御心を行うことは人間にはできません。人は日ごとに思いと言葉と行いで罪を犯してしまいます。
ただ聖霊の働きによって、御心が成し遂げられていきます。
イエスを主と告白し聖霊の働きでキリストの十字架の死と復活の恵みを受け取った人たちによって天と地が一つにつなげられます。
この罪と悲惨の世界の中に神様の支配するところが臨みます。
ヤコブは天と地をつなぐ階段の夢を見ました。
そして主が共にいて守り、ヤコブの子孫によってすべての人を祝福するという約束を聞きました。
現実の問題で恐れを感じていたヤコブですが、そこでも神様が共にいるという恵みを受け取りました。
そしてその地をベテル(神の家)と名付けます。
神様が共におられるところで神様の御心が行われ、すべての人が祝福されていきます。
聖隷事業団は長谷川保さんたち浜松の青年クリスチャンが結核患者のためにつくった療養所が始まりです。
その療養所の名はベテルホームと言います。
この地で神の御心を行う。「行ってあなたも同じようにしなさい」というイエス様の言葉に押し出され、隣人愛を実践していく。
その精神は「生命の尊厳と隣人愛」という聖隷学園の建学の精神にも受け継がれています。
この地で神の御心を行い、すべての人を祝福する。
教会にこそその役割が委ねられています。
教会は神様の御心をこの地で行うために建てられました。
教会はイエスを主とする人の集まりであり、キリストを頭とする一つの体としてその御心をこの地で行うために建てられました。
その目的から外れてはいけません。