歴代誌講解27
ゴスペル
歴代誌上 25:1-8
1 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。この奉仕を職務とする者の数は次のとおりである。2 アサフの子らについては、ザクル、ヨセフ、ネタンヤ、アサルエラ。アサフの子らは王の指示に従って預言したアサフの指示に従った。3 エドトンについては、その子らゲダルヤ、ツェリ、エシャヤ、シムイ、ハシャブヤ、マティトヤの六人。竪琴を奏でながら8預言して主に感謝し、賛美をささげた父エドトンの指示に彼らは従った。4 ヘマンについては、その子らブキヤ、マタンヤ、ウジエル、シェブエル、エリモト、ハナンヤ、ハナニ、エリアタ、ギダルティ、ロマムティ・エゼル、ヨシュベカシャ、マロティ、ホティル、マハジオト。5 彼らは皆、角を高く上げる神の言葉をもった王の先見者ヘマンの子らである。ヘマンは十四人の息子と三人の娘を神から授けられた。6 彼らは皆、父の指示に従って主の神殿でシンバル、琴、竪琴を奏で、歌をうたって神殿の奉仕に従事し、王と、アサフ、エドトン、ヘマンの指示に従った。7 主に向かって歌をうたうための訓練を受け、皆が熟練した者であったその兄弟たちも含め、彼らの数は二百八十八人であった。8 彼らは年少者も年長者も、熟練した者も初心者も区別なく、くじによって務めの順番を決めた。
Gospel is God’s spell
ゴスペルは音楽の1つのジャンルとして知られています。
浜松市内にもいくつかのゴスペルグループがあり、ゴスペル教室も開かれています。大学のサークルにもゴスペルサークルがありますね。
ゴスペラーズというグループの影響かアカペラと混同されやすいですが、別のものです。
ゴスペルはプロテスタントの宗教音楽の1つのジャンルで、アフリカ系アメリカ人の教会で歌われるようになったものがルーツになっています。
日本では、映画「天使にラブソングを2」で歌われた「Oh, Happy Day」がゴスペルブームの発端になったと言われています。
「Oh, Happy Day」の歌詞を見ればわかりますが、ゴスペルの特徴はその歌詞です。
Oh happy day. When Jesus washed. He washed my sins away. と、イエス・キリストに罪を洗われ、喜んで生きることを教えられたことを歌っています。
ゴスペルという英語はそもそも、福音書を意味する言葉でした。
その語源は古い英語のgod-spellです。よい知らせという意味です。
そのよい知らせとは、キリストの福音です。
ゴスペルはGod’s spell 神の言葉を歌ったものだと言うことができます。
賛美によって神を伝える
今日の本文はレビ人の中で賛美リーダーたちについて記されています。
6章で見たように、レビ人のゲルション、ケハト、メラリの3氏族それぞれに、アサフ、ヘマン、エタンという賛美リーダーがいました。エタンはエドトンと呼ばれるようになります。
アサフには4人、エドトンには6人、ヘマンには14人の息子がいたそうです。合わせて24人です。
祭司を24組に分けたように、賛美する人たちもくじ引きで24組に分けることにしました。
神殿では毎日朝と夕方に賛美がささげられていたので、そのときに竪琴、琴、シンバルを奏でるなどしたのでしょう。
賛美リーダーでありながら預言する者
1節を見ると、楽器を演奏するだけではなく、預言したとあります。アサフとエドトンについても「預言した」と語られていますし、ヘマンは先見者だったと書かれています。先見者とは預言者のことです。彼らは賛美リーダーでありながら、預言もしていました。
預言とは、神様の言葉を伝えることです。
狭い意味で言うと、エリヤやイザヤのように神様から新しく示されたことを伝えることが預言です。確かにヨシャファト王の時代、アサフの子孫の中にそのような預言をする者がいたことが記録されています。
しかし広い意味で言うと、既に示されている神の言葉を伝えることも預言です。
パウロは預言の賜物について語っていますが、聖書にはない新しい神の言葉が与えられるということはありません。聖書は既に完成しており、言葉をつけ加えることも取り除くこともできないからです。
もし聖書にはない真理を教えましょうみたいに言う人がいたら、近づいてはいけません。
広い意味での預言とは、既に示されている神の言葉を伝えること。
今日の本文でいう預言とは、そのような意味かもしれません。
楽器を奏でながら、神の言葉をメロディーに乗せて歌ったのではないでしょうか。
イエス様と出会い賛美があふれる
イエス様と弟子たちはたびたび、賛美の歌を歌いました。
エルサレムに入るときには群衆がホサナと歌いました。これは詩編118編に基づく歌です。
最後の晩餐の後には賛美を歌ってからオリーブ山に行きました。どのような賛美だったかはわかりませんが、これもおそらく詩編に基づく歌だったでしょう。
イエス様は十字架上でも「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という詩編22編の言葉を引用します。
そして息を引き取り、墓に葬られました。
3日目に復活したイエス様は40日間にわたって弟子たちの間に現れた後、天に上げられます。そのとき弟子たちは賛美しました。
52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書24:52-53
このとき弟子たちはどういう思いで賛美したのでしょうか。自分たちがイエス様と出会ったことの喜びを乗せて歌ったのではないでしょうか。
弟子たちの生活にはいつも賛美があふれていました。その歌詞の内容は詩編からの引用が多くありました。そして弟子たちは、神の言葉に、自分自身が神様と出会ったことの喜びを込めました。
その賛美はまさに預言とも言える、生きていて力あるものだったことでしょう。
出会ったイエス様を賛美で表現する
私たちも賛美をします。その歌詞の内容は、聖書からそのまま取られたものもありますし、作詞者自身が出会ったイエス様を詩にしたものもあります。
「Oh Happy Day」や「Amazing Grace」のように、イエス・キリストによって自分の罪が赦されたという驚くばかりの恵み、救われた喜びを詩にしています。
そして私たち自身もイエス様に出会うとき、心からその賛美を歌うことができます。
ただ楽譜に合わせて音を出す、声を出すというのではなく、喜びをもって歌えます。
自分なりの賛美を作るのもいいでしょう。賜物があれば、自分が出会ったイエス様を歌や詩で表現するのです。
世界が主の御名を賛美する
ヘマンの息子たちの名前を見ると、ギダルティ、ロマムティ・エゼル、ヨシュベカシャなど難しい名前が出てきます。聖書の他の個所には出てこないような名前です。
彼らの名前はヘブライ語で見ても、名前らしくない名前です。
実はヘマンの息子たちの中でハナンヤからマハジオトまでの9人の名前は、詩のようになっています。
私を憐れんでください。
ああ主よ、私を憐れんでください。
あなたは私の神です。
私はあなたの助けをほめたたえています。
私が苦難の中に座っていたとき、私は言いました。
『豊かな幻をください。』
最後のマハジオトは幻という意味の名前です。豊かな幻をください。
幻は預言と言い換えることもできます。豊かな預言をください。
神の言葉を求める祈りのような名前です。先見者であったヘマンが願いを込めて息子たちの名前をつけたのかもしれません。
ヘマンの家は息子たちの名前を呼ぶたびに、御言葉を語ってくださる神をほほたたえていたことでしょう。
イエス、その名は救い
イエスという名前は「主は救い」という意味が込められています。
ヨセフは天使ガブリエルに告げられた通り、婚約者のマリアが産んだ子をイエスと名付けました。
ヨセフとマリアがイエスの名を呼ぶたびに、「自分の民を罪から救う」という神の約束をほめたたえることになりました。
そしてイエスは十字架で救いを成し遂げました。
御名をあがめる
やがて全世界はイエスの名を高く掲げます。
9 このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。10 それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ 11 すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。
フィリピの信徒への手紙2:9-11
私たちが出会ったイエス様をほめたたえるとき、世界がその御名をあがめることになります。
熟練した礼拝者
7節を見ると、主に向かって歌をうたうための訓練を受け熟練した賛美リーダーたちがいました。
賛美リーダーの中には年少者から年長者がおり、初心者もいたわけですが、訓練を受けて熟練した者もいたわけです。
この場にいる全員が賛美リーダーではありませんから、賛美のための訓練を受ける必要はありません。
しかし賛美リーダーであるなら、主に向かって歌うための訓練を受けて熟練した者になってほしいです。
賛美に限らず自分が任されているものに対して、しっかり練習をし、学ぶのです。
熟練したものによって神の栄光が現わされる
ダビデは、羊飼いだった頃には羊飼いの道に熟練していました。
石投げのテクニックに関しては一流でした。たとえライオンや熊が迫って来ても、お父さんの羊には指一本触れさせない。石投げによって猛獣を打ち倒しました。
巨人ゴリアテに対しても、借り物の剣や鎧ではなく、いつもの石投げと神への信頼をもって立ち向かいました。
自分が任されているものに熟練するときに、神の栄光が現わされます。
準備を怠らない
礼拝の奉仕には賛美、祈り、説教など色々あります。中には、子どもの頃から何十年、何百回と奉仕をしてきて経験豊富な年長者たちもいます。それでも学び続けること、新しい知識や技術を吸収し続けることは大事です。
私は既にこの道に熟練したと、思い上がってはいけません。常に謙遜になり、準備を怠らないようにしてください。
奉仕の当番になったなら、日曜日の朝に慌てて準備をするのではなく、その前の一週間をかけて準備をしてください。
特に奉仕がない人も、日曜日をどう備えるかが大事です。平日の間、御言葉と祈りで神様と出会う時間を持ってください。
神様を無視して一週間を過ごしても、また日曜日が来て礼拝することはできます。
しかしそのような礼拝と、一週間神様と過ごしてささげる礼拝は、全然違います。
今週から神様と過ごす一週間を試してみてください。
知識や経験があっても神の言葉に真剣に向き合う
地域の牧師先生の前で御言葉の奉仕をさせていただく機会があります。
自分の父親より年上の牧師たちの前で、若造が御言葉を語る。それでも先輩の先生方は、御言葉に真剣に耳を傾けます。
その姿を見て、神の言葉に対する真剣さに心を打たれます。まさに熟練した牧師の姿です。
皆さんの人生を通してイエス様に出会いその御名を賛美し続ける礼拝者になるとき、私たちがささげる礼拝は力強いものになります。