ベツレヘムへの旅路

クリスマス礼拝

ベツレヘムへの旅路

ルカによる福音書 2:1-7

1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

急遽オンライン礼拝になりました

 クリスマスおめでとうございます。
 今日の礼拝はクリスマス当日のクリスマス礼拝ということで楽しみにしておられた方も多いと思います。
 しかし残念ながら私が新型コロナウィルスに感染してしまったため、オンラインという形になりました。
 聖隷クリストファー高校吹奏楽部の方々には来て演奏していただく予定でしたが、映像で出演していただきました。ありがとうございました。
 プレゼント交換やクリスマスの食事会は中止になりました。
 それでも前に話したように、自分の計画通りにならない時こそ神の導きに従うチャンスです。今年最後の礼拝がこんな形になって最悪だと思うかもしれませんが、これも神様の最善へと導く旅の一場面です。
 私たちは旅人です。旅の途中に思いがけない出会いがあるのも楽しいです。
 私たちは思い通りにならないトラブルの連続だけれど、最終的には素晴らしいゴールが待っている珍道中を歩んでいます。

ヨセフとマリアの珍道中

 今日の本文はヨセフとマリアの珍道中。ベツレヘムへの旅路です。

ベツレヘムまで旅をさせられる

 ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフが、ユダヤのベツレヘムまで旅をします。
 そのきっかけは皇帝の命令でした。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが全領土の住民に住民登録を命じたのです。
 これは税金を取り立てるため各々の財産や収入を記録するものでした。家系に従って登録されるため、それぞれの本籍地に帰って登録をしなければなりませんでした。
 ヨセフはダビデの家系に属すので、ダビデの故郷ベツレヘムで登録することになります。
 ちなみにナザレからベツレヘムまで直線距離で110㎞。その途中には山あり谷あり、途中のサマリアを避けていくなら実質その倍くらいの距離を歩かなければならなかったでしょう。
 ここ浜松から直線距離で110㎞だと、東は静岡市を超えて沼津まで。西は名古屋を超えて各務原まで行きます。
 ヨセフにとってこの旅をさらに困難にさせていたのは、身ごもっていた婚約者のマリアを連れていかなければならなかったことです。マリアの体をいたわりながら、ゆっくりゆっくり休みながら旅をしたことでしょう。
 住民登録をオンラインでピッピッとできるわけでも、委任状で代わりに申請できるわけでもありません。ヨセフとマリアは仕方なく、ベツレヘムへの旅路を歩み出しました。

人類の歴史の中での出来事

アウグストゥス

 ちなみにアウグストゥスですが、尊厳ある者という意味の称号です。元の名はオクタウィアヌスと言います。
 オクタウィアヌスはユリウス・カエサルの養子になり、カエサル暗殺後は第2回三頭政治に加わります。アクティウムの海戦でライバルのアントニウスとプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ連合軍に勝利すると、帝政を始めます。BC27年のことです。
 今日の本文には出てきませんが、イエス・キリストの降誕の時期に関わる人物としては、ヘロデ大王がいます。ヘロデ大王が亡くなったのはBC4年です。
 ですからイエス・キリストの降誕はBC27年からBC4年ということになります。
 西暦はBC(Before Christ キリスト以前)とAD(Anno Domini 主の年)に分けられますから、西暦はイエス・キリストの降誕が基準です。
 しかしAD元年にイエス・キリストがこの世に生まれたわけではありません。少し計算ミスがあったようです。
 クリスマスの日付も聖書には書かれていません。
 何年何月何日か正確にわからなくても、ルカは歴史的な背景を記録しながらイエス・キリストが確かに来られたことを伝えています。

家畜小屋での出産

 ベツレヘムに着いてからも安心はできません。なんとマリアのお腹の子が生まれそうだと言うのです。
 ヨセフは急いで宿を探します。しかし住民登録で世界中から人が集まっています。宿はどこもいっぱいでした。
 ネットで予約しておけばよかった、なんて言っても仕方ありません。
 代わりにと案内された家畜小屋に入ります。
 そこでマリアは出産します。イエス様です。
 赤ちゃんイエス様は布にくるまれ飼葉桶に寝かされました。
 病院の清潔なベッドではなく、家畜のよだれがついた干草のベッドです。

 仕方なく旅に出て、苦労してたどり着いたと思ったらまともな宿もない。
 生まれたばかりの赤ちゃんを清潔とは言えないところに寝かせなければならない。
 最悪の旅ではありませんか。

人生の旅を楽しむ

 聖書の中には旅がよく出てきます。

人は故郷を離れ旅をしている

 アブラハムは「父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」と神様から無茶な命令をされて目的地も知らずに旅に出ます。
 モーセはエジプトを出て約束の地カナンまで40年間旅をします。
 そしてユダの民はバビロン捕囚にあってエルサレムから捕え移され、70年後に帰って行きます。
 これらは住み慣れた地を離れ、神が示す約束の地に向かう旅でした。

 その始まりはエデンの園からの追放です。

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

創世記3:23
ベンジャミン・ウエスト「アダムとイブの楽園からの追放」

 人は罪を犯したために、エデンの園から追放されました。
 この旅はまだ終わっていません。まだ私たち人間は故郷に帰ることができていません。
 人は今もなお故郷を離れ旅をしている状態にあります。

トラブルによって想定外の出会いが起こる

 旅の中でトラブルにあった経験は皆さんもあると思います。そのような旅の方が印象に残ります。
 予定していたルートから外れて回り道をしたところで、思いがけず素敵なお店や美しい景色に出会うということがあります。
 トラブルによって、旅がより豊かなものになることもあるのです。

 ヨセフとマリアのトラブルだらけの珍道中も、最悪の旅のままでは終わりません。
 この旅で一番苦しんだのは間違いなくマリアです。家畜小屋で迎えた初めての出産。受胎告知からここまでの約10ヶ月、肉体的にも精神的にも様々な苦しみがありました。
 そのような苦しみを経て、生まれたばかりの赤ちゃんの顔を見たとき、マリアはどう思ったでしょうか。
 つらい苦しいという思いより、喜びが湧いてくる。これまでの苦しい旅路は忘れ去られたのではないでしょうか。
 ヨセフにとっても、聖霊によって身ごもったと知らされたその日から想定していなかった旅を歩まされてきた。
 しかし赤ちゃんの顔を見たとき、それまでの恐れや不安のすべても消え去ったのではないかと思います。

 この旅はヨセフとマリアにとって思いがけない旅でしたが、1つ1つの出来事は偶然起こったのではありません。
 ベツレヘムで生まれることは預言者ミカの預言の成就でした。
 神の約束の成就として彼らはベツレヘムで出産しました。
 だからこのトラブルだらけの珍道中も、神の最善の計画の一部として起こったことです。

 イエス様はユダヤ人の王として生まれたのに、立派な王宮でもなく清潔な病院でもなく、誰か人の家でもなく、家畜小屋で生まれました。最悪の場所のように思えます。
 しかし家畜小屋だったからこそ羊飼いたちも入れました。町の中にも入ることができなかった彼らですが、家畜小屋だったから生まれたばかりの救い主に出会うことができました。

 最悪のように見える出来事も神様の最善に向かっています。
 この旅には神様が共にいました。もちろん1つ1つの出来事には苦労がありました。
 それでも神様が共にいるので、この旅を楽しむことができます。

過程にある今を楽しむ

 神様は今も私たちと共にいて人生の旅を歩んでいます。だから私たちは今を楽しむことができます。

 写真家の小松由佳さんという方がいます。シリア難民などを取材し彼らの生活を写真に収めています。
 彼女はシリアである遊牧民の家族に出会いました。彼らと親しくなり「うちに来てコーヒーを飲まないか」と誘われました。
 彼女はコーヒーを飲みに行きます。
 彼らのテントに着いて色々おしゃべりをします。コーヒーはまだ出ていません。
 10分経ってもコーヒーは出てきません。
 彼女はコーヒーを飲みに来ました。「コーヒーを飲まないか」と誘われたのだから。
 しかし30分待っても1時間待ってもコーヒーは出てきません。
 とうとう彼女は「コーヒーはいつ出るんですか」と聞きました。
 そこでシリア人の家族は「ああそうだ、コーヒーだったね」と思い出したように準備を始めました。
 どこから準備するかと言うと、町に行って豆を買うところからです。
 豆を買ってきたら焙煎し、粉にし、コーヒーを入れました。
 コーヒーを飲みに行って2~3時間後にようやくコーヒーを飲めました。
 小松さんは気づきました。彼らにとって大事なのはコーヒーを飲むという計画を達成することではなく、その過程にある今を楽しむことなのだと。

神が共にいるので今を楽しめる

 私たちの中には目標を立て、その目標を達成することばかりを優先する人が多いと思います。コーヒーを飲むのであれば、コーヒーを飲むことが大事。
 そうすると目標を達成するまでの余計な過程が無駄に思えます。回り道などせずトラブルを回避し、いかに効率よくコーヒーを飲めるか。
 そうではない生き方もあります。途中の回り道、寄り道、思いがけないトラブルの1つ1つを楽しむ生き方です。
 思い通りにならなくていいです。計画通りに進まなくていいです。
 トラブルにあっても、それを楽しむ自由があります。
 神様が共にいます。すべてが神様の最善の計画の中で起こっていることです。

キリストを見上げて歩み続ける

レンブラント・ファン・レイン「東方三博士の礼拝」

 新約聖書の中に、もう1組旅をした人たちが出てきます。東方の博士たちです。
 彼らは遠い東の国から星を見て旅をしてきました。おそらく2000㎞以上の旅です。
 ベツレヘムに輝くあの星を目指して歩み続ける旅路でした。
 彼らの旅にもトラブルがありました。まず行ったエルサレムでは全く歓迎されません。
 それでも彼らは星を見上げてベツレヘムへの旅を続け、ついにイエス様に出会います。

 私たちの人生も闇夜に輝く星を見上げて歩むベツレヘムへの旅路です。イエス様を見上げて歩み続けます。
 パウロは目標を目指して歩み続けることを教えます。

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

フィリピの信徒への手紙3:20

 クリスマスに私たちのところに来られたイエス・キリストが、私たちの人生を最善に導きます。
 私たち人間は罪を犯したために神様の元から追放されさまよい続ける旅人です。
 私たちの本国は天にあります。そこに帰るための唯一の道、真理、命がイエス様です。
 いつかイエス様は再び来て、私たちを迎えに来ます。
 イエス様の顔をこの目で見る時、これまでの苦しい旅路は忘れ去られます。

 私たちの人生には思いがけないことがたくさんあります。
 このクリスマス礼拝も想定外のトラブルでオンラインになってしまいました。
 これもまたトラブルだらけの珍道中。
 神様と共にある今を楽しみつつ、イエス・キリストを見上げて歩み続けていきましょう。

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