ローマ書講解10 神は約束を実現する

ローマ書講解10

神は約束を実現する

ローマの信徒への手紙 4:13-25

13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。17 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

約束されたものは信仰で受け取れる

 じゃんけんをします。
 私に勝った人にはアメちゃんをあげます。
 私はパーを出します。

 じゃんけんぽん。

 チョキの人、おめでとうございます。

 私は今、「勝った人にはアメちゃんをあげる」「私はパーを出す」という約束をしました。
 その約束を信じてチョキを出した人は約束のアメちゃんをもらいました。

 アメちゃんをもらわなかった人は何なんですか。
 そもそも約束に期待せず「アメなんかいらねーよ」「じゃんけんなんてやってられっか」という人もいたでしょう。
 私の約束を疑い「パーを出すと言って相手がチョキを出すように誘導してグーを出す作戦か?それならパーだ」とあいこになった人はいませんか?裏を読みすぎです。
 約束は、信じた人だけが受け取れます。

世界を受け継ぐとの約束

 先週に続いてアブラハムの話です。
 割礼以前に信仰で義と認められたアブラハムは私たちにとっても信仰の父です。
 彼は星空を見上げ、「あなたの子孫はこのようになる」という神の約束を信じました。

アブラハムへの神の約束

 神の約束は子孫を与えることだけではありません。

2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

創世記12:2-3

7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」

創世記12:7a

 ここには3つの約束があります。

  1. 子孫を与えること。
  2. 子孫がすべての民の祝福の源になること。
  3. 子孫に土地を与えること。

 これらの約束は、信じた人だけが受け取れます。
 神はこれらの素晴らしい約束を実現させる力を持っていると信じるのです。

 神を信頼せず自分の力で勝ち取ろうとすれば間違えます。
 アブラハムもしもべに跡を継がせようとしたり、妻でない女性と関係を持ったりしてしまいました。
 後にエジプトを脱出した子孫たちが約束の地に入ろうとした時、その地の住民を恐れて入れませんでした。約束の地が素晴らしい土地で、神がそこを与えてくださると信じなかったからです。
 だから律法のような行いの原理で祝福を勝ち取ろうとするなら、約束は無意味になります。
 行いで祝福を勝ち取れる人などいません。ただ罪の自覚を生じさせ神の怒りを招くだけです。
 信仰によってこそ、神の約束を受け取れるのです。

神の約束は私たちにも与えられている

 アブラハムに与えられた約束は子孫に関するものですから、子孫にも約束は受け継がれます。
 その子孫というのは、約束によって生まれる子どもです。信仰によって与えられた子どもですね。
 それはイサクであり、ヤコブです。
 そして神の民イスラエル、ユダヤ民族へと受け継がれていきます。
 しかしユダヤ民族だけがアブラハムの子孫ではありません。
 アブラハムはユダヤ人だけでなく「わたしたちすべての父です」。
 だから神を信じる私たちも共に神の民、アブラハムの子孫とされています。
 アブラハムに与えられた約束は、私たちにも受け継がれているのです。

神の国がこの地に来る

 パウロはアブラハムに与えられた約束を「世界を受け継」ぐと表現しています。
 これはもちろんローマ帝国を倒して教会が世界を支配するとかいう話ではありません。
 しかし新しい国の話ではあります。
 それは神の国です。
 神に従う人がいるところに神の国が来ています。
 アブラハムに約束したように、新たな神の民が起こされます。
 彼らが祝福の源になり、世界は祝福されます。
 そして神の国は地の果てまで広がっていきます。

 これは神様の描く壮大なビジョンでもあります。
 神様は初めから人に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と世界の相続者としての祝福を与えていました。
 人は罪を犯し堕落してしまいますが、神はアブラハムを選び、その子孫によって世界を祝福しようとします。
 ダビデの時代にイスラエルは国を築きます。
 神はダビデの子孫に永遠の王座を与えると約束しました。
 しかしその民は神を信頼せず、イスラエル王国は滅亡します。
 ユダヤ人はダビデの子として来るメシアがイスラエルの国を建て直すことを待ち望んでいました。

 メシアについてはこのようにも約束されています。

その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

イザヤ書11:10

 エッサイはダビデの父。ダビデの子であるメシアのもとに世界の国々が集います。

 そしてダビデの子孫としてイエス・キリストが来られ「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言しました。
 ユダヤ人の王として十字架で死なれたキリストは復活し、王の王、主の主となりました。
 イエスを信じる人は神の民とされ、聖霊を受け、神の国を建て上げる者になります。
 やがてすべての舌が「イエスは主である」と告白する日が来ます。

信仰者によって世界は祝福されていく

 私たちは世界の相続者です。
 私たちから次の世代の信仰者が生まれます。家族が救われ、友だちが救われていきます。
 私たちを通して世界は祝福されます。私たちの使う道具も仕事も祝福され、入るところも出るところも祝福されます。
 私たちがいるところに神の国が来ます。私たちが生活の現場でイエス様に従うなら、そこが神の国になります。私たちの家庭に、職場に、学校に、この町に、神様の御心が行われていきます。

 この神の約束は信仰によって受け取れます。
 だから自分の力で成し遂げようとすると間違えます。
 次の世代に信仰を継承しようと子どもたちに信仰生活を強要すれば、反発します。子ども自身の自由な選択を尊重しつつ、神様に祈ってください。
 土地を与えるという約束を人間の力で実現しようと、侵略戦争を起こした人たちもいます。今も力によって土地を支配しようとする人たちがいますが、それは神の民がすることではありません。
 私たちの王はロバの子に乗って来られた柔和な王。
 柔和な人々は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
 神の約束を期待し、神は約束を実現すると待ち望む人たちによって、世界は祝福されるのです。

命を与える神を信じる

 17節に「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」とあります。これはアブラハムと名乗りなさいと神に言われた時の言葉です。
 アブラハムという名前に、多くの父という意味があります。
 この時99歳で、子どもはいません。土地も持っていません。子どもが一人もいないのに多くの国民の父になるなんてあり得ない話です。
 しかも神から、アブラハムと名乗りなさいと言われた。
 これから出会った人に「初めまして、私アブラハムと申します。」と自己紹介したら「アブラハムさんですか。多くの父、いい名ですね。お子さんは何人いらっしゃるんですか?」と聞かれるでしょう。
 「まだいません。これからです。」
 「これから?おじいさん年いくつ?」
 恥ずかしくて名乗れませんよ、アブラハムなんて。

主に不可能なことがあろうか

 そんな時に、アブラハムのテントの前を3人の旅人が通りがかりました。
 「やべっ、初対面の人だ。自己紹介したくねえな。知らんぷりしよ。」
 とは思いません。
 アブラハムはすぐに走り出てひれ伏し、旅人を客として丁重に迎えました。
 すると3人の内の1人が言います。「わたしは来年の今ごろ、必ずまたここに来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」
 サラもテントの入口で聞いていました。「来年て、彼は100歳、私は90歳よ。更年期はとっくに過ぎたわ。」とひそかに笑いました。
 すると主はアブラハムに言います。「なぜサラは笑ったのか。主に不可能なことがあろうか。」

シャガール「アブラハムと3人の天使」

 ここでいきなり主が出てきます。3人の内の1人は、実は人の姿で現れた主なる神様だったのです。
 そして主は約束の実現の時を、来年の今ごろと具体的に示してくださいました。
 最初に約束が与えられてから25年間待ち続けました。その間には不信仰に陥って神の約束を疑ったこともありました。
 しかし星空を見上げて「あなたの子孫はこのようになる」と言われてからはもう疑わない。
 この数えきれない星を創られた神の前にただひれ伏すしかない。
 無から有を創造し、死んだも同然の者にも命を与える神がいる。
 それなら100歳の自分が父になり、90歳のサラが母になることも不可能ではない。

 「主に不可能なことがあろうか。」
 いいえ、ありません。神には約束したことを実現させる力があります。
 神に不可能があるとすれば、それは約束を破ることです。
 期待通りにならないことはあります。神は人間の期待を遥かに超えて偉大なことをします。
 遅いと感じることはあります。しかしいつか神の時が来て、約束は実現します。何十年かかっても、数世代に渡っても、神のなさることはすべて時にかなって美しい。
 ハレルヤ。
 神を賛美するしかありません。

レンブラント「イサクの犠牲」

神は人を死者の中から生き返らせることもできる

 その後アブラハムとサラの間に、約束の子イサクが与えられました。
 ところがイサクが少年になった頃、神は愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物にしろと言います。
 愛の神とか正義の神とか言いますけど、100歳で与えられた念願の子どもをささげろと?鬼ですか。
 それでもアブラハムは従います。
 死んだも同然の自分に命を与えてくださった神を信頼していたから、信仰の一歩を踏み出しました。

アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

ヘブライ人への手紙11:19

イエスの十字架の死と復活を信じる

 神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる。
 その信仰は私たちも持っているではありませんか。
 私たちもイエス・キリストが十字架で死んで復活したと信じています。
 先週も言いましたが、アブラハムの信仰が素晴らしいのではありません。疑いだらけ、間違いだらけだったんです。
 ただ神だけが素晴らしい。
 その神の前にひれ伏し、神を信頼しました。
 その足りないままで、神はただ信仰で義と認めてくださいました。

 私たちも疑いだらけ、間違いだらけでした。むしろ神を無視し、背を向けて生きてきました。
 私たちは自分勝手な道を行く失われた羊だったのです。その行き着く先はただ滅びです。
 この死んだも同然の私たちを探して救い出し、豊かな命を与えるためにまことの羊飼いイエスが来てくださいました。
 そして私たちのために十字架で死なれました。
 それは私たちの背きのため、咎のため。
 彼の受けた懲らしめによって私たちは神との間に平和を得、彼の受けた傷によって私たちの壊れた神のかたちは回復に向かっています。
 復活のキリストに結ばれ、私たちは新しく創造された者になったのです。

私たちを通して世界はより良くなる

 私たちもイエスを主と信じる信仰によって義と認められました。
 アブラハムへの神の約束は私たちに与えられています。私たちも世界を受け継ぐ者です。私たちを通して世界は祝福されていきます。
 私たちは地の塩、世の光です。私たちを通して世界はより良く変えられていきます。
 神の約束を期待してください。
 神を信頼し、行動を起こしてください。
 「主に不可能なことがあろうか。」
 神には約束したことを実現させる力があります。

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