ローマ書講解11 信仰者の誇り

ローマ書講解11

信仰者の誇り

ローマの信徒への手紙 5:1-11

1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

胸を張って生きる

 教会が18歳の誕生日を迎えました。18歳と言えばもう成人する年。大人です。
 私は子どもの時、大人はみんな立派で、一人前の人間だと胸を張って生きていると思っていました。
 しかし自分が二十歳で成人を迎えた時、まだまだ未熟で無力で、胸を張って大人になったなど言えませんでした。
 今年でその2倍の年を重ねますが、未だに立派な大人とは言い難いです。
 実は私の信仰歴も18周年です。クリスチャンとして新しく生まれてから18回目の誕生日を迎えます。
 信仰面でも成熟したいですね。
 私たちが信仰者として誇りを持てるとしたらどのような点でしょうか。
 パウロは信仰者の誇りについて語っています。

信仰で救われた人はどう生きるか

 今日は初めての方や久しぶりの方もいますので、できるだけわかりやすく聖書の話をしたいと思います。
 中学生にもわかりやすいと評価をいただいています。
 そもそも私は国語が苦手で難しい話ができないだけですが。そういう点でも立派な大人とは言えませんね。

 で、わかりやすい話をしようと思ったのに早速問題があります。
 今日の本文は「こういうわけで」から始まります。
 こういうわけってどういうわけ?
 国語が苦手な私でも、こういうわけはその前に書いてあるということくらいわかります。
 ではこの前の部分に何が書いてあったのか。
 1章から4章までの内容は、すべての人は罪の状態にあるが、ただキリスト・イエスの十字架の死と復活を信じる信仰で救われるということです。
 こういうわけでただ信仰で救われた人たちはどう生きるか、という話が5章から8章まで続きます。

変えられた姿が誇り

 まず信仰者は、神との間に平和を得、恵みに入れられ、栄光の希望を誇りとしています。

かつての神との関係が変わった

 かつて私たちは罪人でした。神の敵とも言える状態でした。神の怒りを受ける対象です。
 その時は、神様の目が恐かった。すべてを知っている神様が、正しい行いをしているかどうか見張っている。少しでも間違いを犯せば滅ぼされる。
 しかしイエス・キリストを信じた人は、イエスの十字架によってすでに罪の償いが完了しています。
 そして復活のキリストと共に生き、あなたは私の愛する子という父なる神に呼ばれる存在になりました。
 すべてを知っている神様が、愛の眼差しで見守っています。

今は恵みの上に立たせていただいている

 私たちにそのような資格はありませんでした。
 ふさわしくない者に与えられた恵みです。
 定められた時にキリストが十字架で死んで復活したことによって、恵みの時代が到来しました。
 私たちはそこに自分の行いで入ったのではなく、信仰で導き入れられました。
 私たちは今、その恵みの上に立っています。

栄光の姿に変えられていく希望

 そして私たちには栄光の希望があります。
 ただ信仰で救われても、自分を見れば罪人であったときと何も変わっていない。胸を張って私はクリスチャンだなんて言えない。私は神に愛されている子どもなわけがない。
 しかし信仰者は目の前の現実を超えた神の約束の上を生きます。
 神は「私の目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言いました。
 そして聖書はキリストを見上げるとき、栄光から栄光へとキリストに似た者に造り変えられていくと約束しています。
 そのような栄光の希望です。
 いい響きですね、栄光の希望。長男の名前を考えていた時、漢字はここから取りました。

 かつての神との関係が変わり、現在は恵みの上に立ち、栄光の未来に向けて変えられていきます。
 そのような過去、現在、未来における変えられた姿が信仰者の誇りです。

苦難さえも誇り

 どれほど変えられたかというと、苦難をも誇りとするほどです。
 この誇りと訳された言葉は、喜びとも訳すことができます。別の聖書の訳では「苦難さえも喜んでいます」となっています。
 変えられた人というか、変人じゃないですか。
 これはもちろん、イジメられて気持ちいいと感じるみたいな話ではありません。

大人は子どもを愛するからこそ試練を与える

 私たちは神に愛されている子どもになりました。
 かわいい子には旅をさせろと言いますね。大人は子どもを愛するからこそ試練を与えます。
 だから苦難にあってもこの試練を通して成長するのだと喜ぶことができます。

 ここでどなたかに労働という試練を与えたいと思います。
 このコーヒー豆をミルで粉にしてください。報酬はありません。ただ働きです。

苦難は苦難で終わらない

 苦難がやってきた時、それをすぐに喜ぶことは難しいです。
 苦しみは苦しい。なぜこんなことをしなければならないのか。
 しかしただ苦しいだけでは終わりません。
 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生みます。
 苦しい状況でも神を信頼し耐え忍ぶ。
 そうするとこれまで握りしめていたものが何の役にも立たないと気づかされます。
 余計なものを手放すと、品性が磨かれていきます。
 そして不純物が取り除かれた金よりも尊い者として精錬される希望が持てます。

苦難を通して香りを放ち大人の味わいになるコーヒー

 コーヒー豆は、コーヒーチェリーという実から取れます。
 その実を削り取って種を取り、種のカラを破ってコーヒー豆が取れます。
 乾燥したコーヒー豆は火であぶられ、粉々に砕かれ、熱湯を注がれます。

 豆の気持ちになってみてください。
 チェリーみたいなカワイ子ちゃんだったのが、削られ、破られ、火あぶりにされ、砕かれ、熱湯を注がれる。五重の苦しみ!
 そうするとコーヒー豆の持つよい香りが引き出され、大人の味わいのコーヒーになるわけです。
 このように苦難は成熟した信仰者になるために欠かせません。

空しい慰めではない

 これは苦しみにあった人への空しい慰めではありません。
 「わたしたちは知っているのです」とパウロは言います。
 パウロ自身もローマの信徒たちも、苦しみを通して成熟するということを体験していました。

 さらにこの希望は失望に終わらないと言います。
 なぜなら「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」からです。
 注がれているという表現はいいですね。
 上からドバドバっと押し寄せてきます。逆らうことはできず、器に満ちあふれていきます。
 そのように神の愛が心に迫ってくるのです。
 この世には苦難があります。しかし「わたしは既に世に勝っている」とイエスは言います。
 弁護者である聖霊が共にいて、神の愛をドバドバと注いでくれる。
 すると私たちはキリストの香りを放つ成熟した信仰者になる。
 この希望は失望に終わらない。
 だから信仰者は、苦難をも誇りとします。

どんなときも神が誇り

十字架で表された神の愛

 その神の愛とはどのようなものでしょうか。
 それは十字架で表された愛です。
 イエス・キリストはかつて私たちが罪人で、何のよい行いもできない無力な存在で、むしろ不信心で神に背き、敵でさえあったときに十字架で死にました。

 誰かのために命をささげられますか。
 愛する人のためなら命をかけられるという人はいるでしょう。
 たとえば自分の子どもが命の危険にあったら、自分の血でも内臓でも命でもあげるから子どもに生きてほしいと願います。親にとって、自分の命よりも大切なのが愛する子どもの命です。
 また忠誠を誓った主君みたいな善い人のために命を惜しまない人もいるかもしれません。

 私たちはそのような善い人ではありませんでした。
 罪人だったのです。むしろ神の敵。
 愛される資格などない存在でした。
 それにも関わらず神は、独り子イエス・キリストを与えてくださり、十字架の死で救いを成し遂げてくださいました。
 親にとって自分の命より大事な子どもの命。
 父なる神は、何物にも代えがたい独り子の命をささげ、私たちを救ってくださった。
 あなたを救ってくださった。
 ここに愛があります。
 無条件の愛です。
 私たちが何者であるかに関わらず、天地創造の前から私たちを愛すると決意してくださった。
 独り子の命の代価で買い戻すほどに、あなたは尊い存在なのだと言ってくださった。

誇る者は主を誇れ

 だから私たちは神と和解し、神に愛されている子どもとして生きることができる。
 愛の眼差しに見守られ、自由に生きられる。
 そして復活の主と共に新しい命に生かされます。
 聖霊の力により、私たちを通して神の御心がこの地で行われていきます。

 目の前に見える状況がどうであれ、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
 他の訳では、神を喜ぶ。
 信仰によって私たちは神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶ人生を歩めます。
 これこそ私たちの人生の喜び、誇りです。
 知恵や富などこの世の力は空しい。

むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

エレミヤ書9:23

 誇る者は主を誇れ。

主を見上げ神に愛されている子どもとして生きる

 私たちは自分を見ると胸を張って生きられません。うつむくしかない。
 主を見上げてください。
 変えられた自分が見えます。
 苦難も喜びに変わります。
 私たちの状況や環境に関係なく、神の愛がドバドバ注がれ、神を喜ぶ。
 胸を張って神に愛されている子どもとして生きていけます。

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