ローマ書講解12 アダムとキリスト

ローマ書講解12

アダムとキリスト

ローマの信徒への手紙 5:12-21

12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

代表

 今年はオリンピックイヤー。世界各国の代表者が集い競技します。
 私自身は、神のかたちに造られた人間の可能性への挑戦がオリンピックの本質にあると思っています。
 だから日本代表が金メダルを何個取ったかということに全く興味がありません。
 しかし日本代表が活躍すると日本中が元気になりますね。だから日本代表には活躍を期待します。
 ただし負けても責めない。ミスした選手がいても責めないようにしましょう。
 ONE FOR ALL, ALL FOR ONE. 1人はみんなのために、みんなは1人のためにです。

 というわけで今日は国の代表ではなく、人類全体の代表の話をします。

キリストを知るためにアダムを知る

支離滅裂な文章

 今日の本文はまず「このようなわけで」という言葉から始まります。
 国語の復習。こういうわけはどういうわけか。それは直前の段落に書いてあります。
 つまり、私たちは十字架で示された神の愛を受けて変えられたということです。
 そのイエス・キリストの十字架の死によって、私たちは神と和解させていただいた。
 このようなわけで「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」

 …わかります?

 国語が苦手な私には、この文章のつながりがよくわかりません。
 この一人の人って誰?
 さっきまでイエス・キリストの話をしていたのに、一人の人によって罪が入ったって。
 これは誰のこと?
 この世界に罪と悲惨をもたらした張本人。そう、アダムの話です。
 イエス・キリストの話からいつの間にかアダムの話になっている。支離滅裂に感じられます。

キリストを語るためにアダムを語らずにいられない

 この謎は12節と18節をつなげると解消されます。
 「このようなわけで、一人の罪によって死が入り込んだように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」
 こうすると、イエス・キリストの十字架の死が他の人の救いにつながるということを説明するために、アダムを引き合いに出したのだとわかります。
 でもパウロさん、熱くなっちゃったんですね。アダムの話を出したらそこに引っ張られて脱線しちゃった。それで支離滅裂な文章になってしまいました。
 しかしこのアダムの話を理解することで、イエス・キリストのことがわかりやすくなります。
 やはり聖書。神の霊の導きの下に書かれています。脱線さえも益になる。

人類の代表者アダム

ミケランジェロ「アダムの創造」

 創世記によると、神は土の塵で人を形づくりました。そして鼻に命の息を吹き込み、人は生きるものになりました。
 この人という単語はヘブライ語でアダム。アダムは一般的に人と訳されます。
 そして最初に造られた人の固有名詞としてもアダムが使われます。
 アダムはまさしくザ・人間、人間の代表者でした。

死ぬ≡罪の状態にある

 神はそのアダムにこう命じます。

ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

創世記2:17

 「善悪の知識の実を食べてはならない」という神の命令に背くと、必ず死ぬ。
 しかしアダムは神の命令に背き、善悪の知識の実を食べてしまいました。
 その結果、世界は呪われ死が入り込みました。
 死は罪の結果です。
 罪を犯す前、エデンの園で神と共に生きていた時、そこに死は一切描かれていません。
 肉や皮を取るために動物を殺す必要もありませんでした。
 だから死ぬことと罪の状態にあることは同じだと言えます。

すべての人は罪の状態にある

 しかし罪とは何ですか。
 罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは神の律法に背くことです。
 律法が基準。
 だから律法がなければ罪を罪と認めることができません。
 ではモーセの律法が与えられる前の人に罪はなかったのですか。

 選挙ポスターを取り締まる法律がないからと言って好き勝手する輩がいますが、本当にアホだと思います。
 そういうアホのせいでアホなルールができます。
 ダメなことはルールに書かれていなくても当然ダメ。

 律法がなくても罪は罪です。
 実際モーセの律法が与えられる前にも人は皆死にました。
 すべての人は死にます。
 死ぬことと罪の状態にあることは同じ。
 よってすべての人は罪の状態にあります。
 それはアダム一人の罪が人類全体に及んだということです。

アダムの不従順によりすべての人が生きる

 私たちが善悪の知識の実を食べたわけではありません。
 しかし人類の代表者であるアダムの不従順によって、同じチーム人類に属する私たちもその影響を受けた。
 ALL FOR ONE.
 いわゆる連帯責任です。
 なんちゅうことをしてくれたんじゃ!

 まあ、落ち着いて。
 この代表者の行為の結果が全体に及ぶというのは、イエス・キリストの救いを前もって表しています。

まことの人イエス・キリスト

 アダムとイエス・キリストには共通点があります。
 まず、普通の人間の生まれ方ではありません。
 アダムは土の塵で形づくられ、命の息が吹き入れられました。
 イエス様の体はマリアのお腹の中で形づくられましたが、聖霊によって身ごもりました。
 アダムに吹き入れられた息も、霊と訳すことができます。神の息吹です。

 またアダムもイエス様も罪がありませんでした。
 しかしアダムは不完全で、罪を犯してしまいます。
 それに対しイエス様は完全なお方。神のかたちどころか、神ご自身。罪と何の関りもない。
 イエス様こそ完全な人間、人類の代表です。
 不完全な代表の行為の結果が人類全体に及んだのなら、完全な代表の行為の結果が人類全体に及ぶのは当然です。
 「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」

イエスの従順により与えられる新しい命

 しかもイエス・キリストがしたことはアダムがしたことの対極にあります。
 アダムは神の命令に背き、すべての人が罪の状態、死ぬべき存在になりました。
 イエス・キリストは神の命令に徹底的に従いました。何一つ罪を犯さなかった。
 だから人を罪から救い、生かすことができます。
 これが恵みの賜物、新しい命です。

 私たちが律法を守ったわけではありません。私たちは生まれながらに罪の状態にあり、正しく生きられない罪人。
 しかしチーム人類を罪から救うために、人類の代表者であるイエス・キリストが十字架の死に至るまで従順を示しました。
 ONE FOR ALL.
 私たちは行いがなくても義と認められます。

イエスを主と信じる人に与えられる

 ただしこの恵みは自動的にすべての人に適用されるわけではありません。
 イエス・キリストを自分たちの代表者だと認める人だけが受けられます。
 イエスを主と信じる信仰によって、イエスとつながり、義と認められるのです。

アダムとキリストによって深められた愛の交わり

ピンチによってチームの結束が強まる

 イエス様すごいな。イエス様のおかげでチーム人類は大逆転勝利。
 でも待てよ。そもそも序盤にアダムがあんなミスをしていなければ…。
 やっぱアダム許せん!

 まぁ、落ち着いて。
 ピンチを経験してチームの結束が強まることがあります。
 アダムの罪、そしてイエス・キリストの救いを通して神との愛の交わりが深められました。

神と共に生きながら神の愛がわからなかった

 アダムが罪を犯す前、神と人はエデンの園で共に暮らしていました。
 しかしアダムは自らの意思で善悪を知る木の実を食べます。神に背くことを選び取ったのです。
 そして神の目を恐れて隠れました。
 ここに愛の交わりがありましたか。

 もちろん神はアダムを愛し、アダムの最善を願い、必要なものを十分与えていました。
 アダムが神に背き逃げ隠れていることを知っていながら「どこにいるのか」と優しく問いかけます。温かい目で見守りながら悔い改めのチャンスを与えているようです。
 しかし人はこの神の愛を知りませんでした。
 神と共に生きていながら、神の愛がわからなかったのです。

自分の罪深さを知るほど神を愛する

 ファリサイ派の人たちは律法を忠実に守ろうとし、自分たちこそ神に従っている正しい者だと思っていました。
 そんなファリサイ派の一人にシモンという人がいました。彼はイエスの噂を聞き、食事に招きます。
 町や村を巡って神の国の福音とやらを宣べ伝え、病気を癒したり悪霊を追い出したりしている。ナインでは死んだ若者を生き返らせたと聞く。「大預言者が我々の間に現れた」と言う者もいるが、どれほどのものか見てやろう。そんな態度だったかもしれません。
 シモンは足を洗う水も出さず挨拶の接吻もせずイエス様の頭にオリーブ油を塗ることもしません。

Love of a sinner

 その食事の席に、罪深い女とさげすまれていた女性が入ってきました。
 彼女はイエス様の足を涙で濡らし自分の髪の毛でぬぐい、足に口づけし香油を塗りました。
 シモンは思いました。「この男が預言者なら、この女がどんな女かわかるはずだ。こんな罪深い女に触られて平気なのか。」

 イエス様はシモンに一つのたとえを話します。
 「500万円の借金をしている人と50万円の借金をしている人がいた。二人とも返せなかったので、金貸しは帳消しにしてやった。この金貸しをより愛するのはどちらだろうか。」
 シモンは「額の多い方だ」と答えます。
 イエス様はシモンと女性の態度を比較しながらこう言います。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

ルカによる福音書7:47

 女性は自分の罪深さを知っていたので、イエス様による罪の赦し、神の愛を受け取りました。
 そしてイエス様に愛を表しました。
 ファリサイ派のシモンは、自分は正しい者だと思って生きていました。赦される必要を感じていません。
 だから神の愛がわかりません。イエス様への態度にも愛がありません。
 自分の罪を知ることで神の愛を受け、愛の交わりに生きる者になります。

愛の交わりの中で生きる

 アダムの不従順によって罪が世に入り、私たちは死ぬべき存在になりました。
 モーセの律法に照らし合わせると、自分の罪深さがよくわかります。
 罪深さを知れば知るほど、神の恵みは満ちあふれます。
 こんな私のためにイエス・キリストが十字架で死なれたのだ。

 罪は赦されました。
 死ぬことと罪の状態にあることは同じだと言いました。
 罪赦されたのなら、私たちはもう死に支配されません。
 この肉体はいつか死んで塵にかえりますが、霊は神と共に生き続けます。
 イエス様も死に支配されず、死の力を打ち破り復活しました。
 私たちも復活の主と共に永遠の命に生かされているのです。

 アダムも神と共に生きていましたが、神の愛がわかっていませんでした。
 自分の罪を知った私たちは神の愛を受けました。
 だから私たちは愛の交わりに生きる者に変えられます。
 アダムさんのおかげです。
 チーム人類として神と共に歩み、この世界で愛に生きていきましょう。

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