ローマ書講解13
罪に死に新しく生きる
ローマの信徒への手紙 6:1-11
1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7 死んだ者は、罪から解放されています。8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
もう罪の中には生きられない
先週はアダムとキリストの話をしました。ONE FOR ALL, ALL FOR ONE. チーム人類の代表の話です。
アダム一人の不従順で人類全体が罪の状態に陥り、死ぬべき存在になりました。
しかしイエス一人の従順で人類全体が義とされ、命を得ました。
私たちは自分の罪を知れば知るほど、神の恵みの大きさを知ることになります。そして神の愛を知り、愛の交わりの中に生きるようになります。
こう言うとある人は言います。
「だったら罪の中に留まってもっと罪を犯せば、より大きな恵みを体験できるんじゃない?」
決してそんなことはない。
「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」
パウロは、私たちはもう死んだのだと言います。
え!?私はもう死んでいる…。
シックスセンスのような衝撃の事実!
ネタバレしてすみません。
罪に対し死んだ
衝撃を受けている私たちにパウロは言います。
「え、知らなかったの?洗礼で経験したでしょ。」
洗礼においてキリストと共に死んだ
洗礼はイエス・キリストが命じた礼典の一つです。
イエスを主と信じる人が父と子と聖霊の名による水の洗いの儀式を受けます。
聖霊によってキリストにつながり、神の民とされたことを味わいます。
だから洗礼はキリストとつながることです。
何秒間も水に沈めて死を味わわせる必要はありません。
しかし方法はどうであれ、洗礼によって私たちは死にます。
キリストにつながり、キリストと共に十字架につけられ、葬られたからです。
罪の中にいた古い私たちは、あの十字架でキリストと共に死んだのです。
死んだ者は罪から解放される
定められた運命というものがもしあるとしても、死んだら逃れられます。
生まれながら奴隷の身分にあっても、死ねばもう奴隷ではありません。
イエス様のたとえ話の中でも、貧困と皮膚病で苦しんだラザロが死んだ後アブラハムのすぐそばでパーティーに参加する話が出てきます。
だから私たちを苦しめているどのような問題も、死ねば終わりです。
罪の支配も終わり、罪の奴隷ではなくなります。
死んだ者は罪から解放されるのです。
死んだとの神の約束
じゃあ不都合な現実から逃れるために、死んでこの苦しみを終わりにしようか。
しかしリセットボタンをポチっと押すように人生をやり直すことはできません。
神から与えられた命を人が捨ててはいけない。
神は私たちと愛の交わりをもって生きることを願っています。
どんなに苦しくても生きていかなければなりません。
シェイク・スピアの悲劇「ロミオとジュリエット」で、ジュリエットは仮死状態になって墓に葬られ、定められた結婚から逃れました。
そうか、本当に死ななくても、死んだことにすればいいんだ。
ところがロミオはジュリエットが本当に死んでしまったと思って自ら命を絶ちます。
またネタバレすみません。
死んだことにしても悲劇は終わらないし、さらなる悲劇を招いてしまいます。
悲劇を終わらせるためには死ぬしかない。
だから聖書は言います。わたしたちは「罪に対して死んだ」と。
死んだことにするのではなく、死んだのです。古い自分はキリストと共に死にました。
洗礼によって私たちは死に、罪の支配から解放されています。
この神の約束を信仰で受け取ってください。
新しい命に生かされる
復活の主と共に生きる
いや、でも確かに生きていますよ。手も足もあるし、痛みも感じる。そう、ぼくらはみんな生きている。
しかしこの命は、かつて罪人であったときの命とは違います。新しい命です。
洗礼を受けてキリストにつながった私たちはキリストと共に死に、キリストと共に生きています。
復活の主と共に新しい命に生かされています。
私たちの体はイエス様を信じる前と何も変わっていません。しかし私たちは新しくされました。
イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。
私たちはイエス様につながっている枝。
私たちの内には、幹であるキリストの命が流れています。
このことについてパウロはこうも言っています。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2:20
生きているのはもはや私ではない。
神の子イエス・キリストが私を愛し、私のために十字架で死なれた。
その信仰によって、古い自分も共に死んだ。
そしてキリストは復活した。
信仰によってキリストに結ばれた私も新しい命に生かされている。
キリストが私の内に生きているのです。
土に埋められ新しい命が芽生える
この新しい命、イメージがわきますか。
何かの実があるとします。果物でも野菜でも何でもいいです。
たとえばトマト。赤く熟したトマト、おいしいですね。
でもこのトマトに生命力は感じられません。放っておくと腐ってしまいます。
しかしこのトマトから種を取り出し、地面にまくと、芽が出ます。
トマトはトマトです。
しかし一度土の中に埋められ葬られることで、生命力に満ちあふれた新しい命が出てきます。
このトマトはやがて花を咲かせ、実を結びます。
もう古い生き方には戻れない
もう一つのたとえとして「はらぺこあおむし」という絵本を紹介します。
葉っぱの上の卵から、ちっぽけなあおむしが生まれました。
あおむしはお腹がぺっこぺこ。食べるものを探します。
りんごや梨を見つけて食べていきます。
そしてケーキやソーセージなど、おいしいものをむさぼるように食べていきます。その晩あおむしはお腹が痛くて泣きました。
次の日、自分の生まれた場所に帰って来たあおむしは、緑の葉っぱを食べました。とてもおいしい葉っぱでした。お腹の具合もすっかりよくなりました。
そうして成長したあおむしはサナギになり、何日も眠ります。
そして…
「あっ、ちょうちょ!」
あおむしが、きれいなチョウになりました。
おっと、またネタバレしてしまった。
自分勝手にむさぼるような生き方を悔い改めたあおむしはサナギになり、チョウになる。
サナギになった時点で、あおむしの古い生き方は終わりです。もう自分勝手にむさぼるような生き方はできません。
風に乗って優雅に舞うチョウとしての新しい命に生きます。
古い自分は死にました。
生きているのはもはや私ではありません。
キリストが私の内に生きています。
神の約束を認める
死はもはやキリストを支配しない
9節に「死は、もはやキリストを支配しません。」とあります。
この表現は、かつて死がキリストを支配したことがあったことを暗示しています。
罪と何の関りもなかったイエス・キリストは、死に支配されていませんでした。
しかし永遠の過去から永遠の未来に至るまでの間のほんの一瞬、死ぬことのない神が死に支配されました。
それは十字架の時です。
死に支配された私たちを救うために、イエス・キリストは罪人の頭として十字架で死なれました。
イエス・キリストの支払った犠牲の大きさがわかりますか。
死というのは一回限りの出来事です。
だから死は、もはやキリストを支配しません。
キリストは今も生きています。
自分がどう感じるかではなく神の約束は何か
このキリストに結ばれた私たちももう死にました。そしてキリストと共に生きています。
もう古い生き方はできません。ぶどうの木であるキリストにつながり、その命を受け、実を結ぶだけです。
とは言っても相変わらず古い生き方や考え方から抜けられない現実がありますね。
パウロ自身も自分の望む善は行わず、望まない悪を行っていると葛藤しています。
死は一回限りの出来事だけれど、生きるというのは継続的な変化です。徐々に変えられていきます。
変わっていない自分を見て諦めないでください。
大事なのは変化を実感できるかどうかではありません。神の約束です。
「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
この「考えなさい」と訳された言葉は見積もるとか結論付けるとも訳せます。
どう感じるかは別として、こういうことだと認めるということです。
罪の奴隷としての古い自分はもう死んでおり、神の民としての新しい命がもう始まっていると認めてください。
古いものは過ぎ去り新しいものが生じた
あなたの古い生き方は何でしたか。
自己中心的で自分さえよければいいと思っていた。他人に対して無関心で、愛がなかった。人を人と思わず、他人を利用し支配していた。そのように隣人への愛がなかった。
また自分のことも愛せなかった。誰かに対する怒りや憎しみが手放せなかった。どうせ無理、お前はダメだという偽りの声に流され、夢や希望を諦めてきた。
神などいないと思い、自分の力で何とかしようともがいていた。お金や物質、この世の力を頼って生きてきた。
そんな古い自分はもうキリストと共に死んで葬られました。
今は新しい命に生かされています。
洗礼を受けてキリストにつながったのでしょう。
繰り返し自分に言い聞かせてください。
私は洗礼を受けた。キリストにつながった。古い私は死んだ。新しい命に生かされているのだと。
神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する新しい人生が始まっています。
もう古い生き方はできません。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
コリントの信徒への手紙二5:17
この神の約束を認めてください。