ローマ書講解16 惨めな人間の叫び

ローマ書講解16

惨めな人間の叫び

ローマの信徒への手紙 7:13-25

13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

自ら魂を売り死を招く

 ドイツの文豪ゲーテの「ファウスト」。
 主人公のファウスト博士はあらゆる学問を究めた学者でした。しかし知識を得てもこれっぽっちも利口になっていないと嘆きます。そしてもっと様々な人生を体験したいと願います。
 そんなファウスト博士の書斎に、一匹の黒い犬が忍び込みました。その正体は悪魔メフィスト。
 メフィストは自分と契約を結べば、この世で生きている間は自分がファウストに奴隷のように使えるが、あの世ではファウストが自分に仕えてもらいたいと提案します。
 あの世に関心のないファウストは提案を受け入れ、メフィストに魂を売ります。
 まずメフィストはファウストを魔女の台所に連れて行き、若返りの薬を与えました。若返ったファウストはあらゆる欲望がわき、様々な楽しみにふけります。
 まず挑んだ楽しみは恋愛の情熱。彼は街で出会った素朴で敬虔な少女グレートヒェンに一目ぼれします。
 彼はメフィストの力を借りて彼女を口説き、一夜を共にします。
 しかしある夜、妹が男性と通じていると聞きつけたグレートヒェンの兄とファウストが鉢合わせます。決闘の末、ファウストはグレートヒェンの兄を殺してしまいます。
 気晴らしにメフィストはファウストをヴァルプルギスの夜に誘います。悪霊たちのパーティーです。
 そこでファウストは、首に赤い筋をつけたグレートヒェンの幻影を見ます。彼女に死刑の危機が迫っていたのです。
 実はグレートヒェンはファウストとの子を身ごもりましたが、ファウストがいない間に出産し、一人では育てられないと沼に沈めて殺してしまっていたのです。

 これらの悲劇はなぜ起きたのでしょう。悪魔メフィストがやったことでしょうか。
 いいえ、ファウスト自身が行ったことです。
 この世の欲に駆られ、死を招いています。
 ああ、人間はなんと惨めなのでしょう。

自分の中に住む罪との葛藤

キリストの花嫁になった

 まずは先週の復習。
 神の言葉である律法は聖なるものであり、正しく善いものです。
 照明をつけると部屋の汚さが明らかになるように、律法に照らされて私たちの罪が明らかにされました。
 罪は神の言葉さえも足掛かりにして私たちを攻撃してくる。そして律法は私たちを死に導く。
 それは善いものである律法が私たちに死をもたらすということではありません。
 私たちに死をもたらすのは罪です。
 律法によって罪の限りなく邪悪なその正体が明らかにされるのです。
 イエス・キリストを信じた私たちはキリストと共に死に、もう罪に支配されない。
 私たちは復活したキリストのもの、キリストの花嫁になりました。

自分は何も変わっていない

葛藤のイメージ

 ではクリスチャンは花婿であるキリストにふさわしいものになりましたか。心も生き方も変えられましたか。
 いいえ、まだ完全ではありません。日々変えられていきます。花婿が迎えに来るその日まで、私たちは変えられ続けます。
 そう信じています。
 しかし現在の自分自身を見るとき、キリストの花嫁らしい部分がありますか。
 花嫁らしくないどころか、罪の奴隷だった頃と変わっていない。
 愕然とします。
 パウロ自身もこの点で葛藤しています。

肉と霊の対立

 律法は霊的なもの。神の言葉だと理解しています。
 しかしパウロ自身は肉の人。物質的、この世的な存在です。
 だから霊的なものに従うことができません。
 相変わらず罪の奴隷であるかのように、罪に売り渡されていると言わざるを得ません。
 実際はもう罪の奴隷ではないのです。イエス・キリストの十字架の血によって買い取られ、神のものになりました。
 聖霊が内に住んでいます。聖霊の導きも感じます。
 神に従うこと、善を行うことを望んでいるのです。
 それなのに憎んでいること、神に背き悪を行ってしまいます。
 これはパウロだけでなく、私たち皆が経験する葛藤です。

肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

ガラテヤの信徒への手紙5:17

罪の前で無力な人間

 いつもは神のものでありキリストの花嫁なのだから、聖霊の導きに従う。でも時々は罪の奴隷だった頃を思い出し、肉の欲に従ってしまう。
 という感じではないですよね。
 実感としては、罪の奴隷だった頃と何も変わらない。クリスチャンになる前と同じことをしている。
 それでもイエス様を信じてはいる。
 ということは、一応律法を善いものと認めています。
 あえてその霊的な律法に反逆させようとする力が働いています。
 だから悪を行っているのは、もはや自分ではなく、自分の中に住んでいる悪なのだとパウロは言います。

 すごい責任逃れの言い訳!
 「私じゃありません。私の右の手が、いや、右の手に住むミギーが勝手に取ったんです。」

 パウロが言いたいのはそういうことではなく、罪の前で無力な人間の姿です。

6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

創世記4:6-7

 弟が正しかったので、カインは激しく怒り顔を伏せました。
 そのようなカインの心に罪が忍び寄ります。カインはそれを支配しなければなりません。
 しかしカインは罪に支配され、弟を殺しました。
 罪に支配されたとしても、それを招いたのはカイン自身。
 カインの責任は変わりません。

 私たちの心にも悪が住んでいます。その悪が私たちを神に背かせます。
 それでも責任は自分自身にあります。

人間は努力する限り迷うもの

 「ファウスト」のプロローグで、悪魔メフィストは主なる神様と賭けをします。主が「常に向上の努力を成す者」の代表として選んだファウストを、悪の道へ引きずり込めるかどうかという賭けです。
 主は「人間は努力する限り迷うもの」と答えて賭けに乗ります。

 迷うこと、悩むこと、葛藤することは人間が生きていく上で欠かせません。
 自分の中に住む罪との葛藤は私たちが生きている限り続きます。
 葛藤を感じなくなったら問題です。盗んでも、人を傷つけても、ウソをついても、何も感じない。その時は完全に悪に支配されています。
 皆さんは今、何に迷っていますか。
 どのような悩みを抱えていますか。
 自分の罪と葛藤するのはどのような時ですか。

嘆きの叫びから感謝の叫びへ

人間の意志では解決しない罪

 この罪との葛藤をどう乗り越えていったらよいのでしょうか。
 パウロは同じような表現を繰り返しながらこう嘆きます。
 「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」
 人間の意志ではどうしようもありません。
 人間の精神力で正しく生きられるようになるなら、精神を鍛える修行をしたらいいですね。
 心を無にするのです。

 無意識にしていた呼吸に意識を置いてください。
 考えや感情が心に浮かんだら、また呼吸に意識を戻してください。
 そして今ここにいるという感覚に集中するのです。
 そうして心頭滅却すれば火もまた涼し。エアコンがなくても大丈夫。

 いや、暑いわ!

 精神力でどうにかなるものではありません。
 罪との葛藤も、精神力では解決しないのです。

信仰があっても罪との葛藤は続く

 信仰で解決するものでもありません。
 パウロは「「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」と嘆きます。
 信仰が与えられ、聖霊が内に住んでいる。だから神の律法を喜んでいる。
 そういう心の法則があるけれど、自分の中にはもう一つの法則がある。
 自己中心に生きたい。この世の富や楽しみを得たい。この世の力で人を支配したい。
 こういう欲が湧いてきて、死を招く。
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
 惨めな人間の叫びです。
 あのパウロでさえ、このように嘆くのです。
 異邦人の使徒として宣教の旅に出て多くの教会を建て、それらの教会に手紙を送り励まし、その内のいくつかは新約聖書に取り入れられ今なお多くの人に影響を与え続けているパウロがです。
 クリスチャンになったって、罪との葛藤は続く。
 ああ、人間はなんと惨めなのでしょう。

感謝の声を上げる

 しかしパウロの叫びはこれで終わりではありません。
 直後に、神に感謝の声を上げます。

 救いは自分の内にはなかった。
 誰が私を救ってくれるのか。
 救いは外から来ます。
 人となられた神、イエス・キリストが律法の要求をすべて満たし、私たちの罪を負って死なれた。
 古い私もキリストと共に死に、復活の主と共に新しい命に生かされている。
 私たちはただ信仰によって救われ、義と認められている。
 キリストの血で買い取られ、もう罪の奴隷ではない。自由な神の子とされた。
 罪との葛藤は続くけれど、今この時の苦しみは将来の栄光に比べたら取るに足りない。
 万事は益となり、私たちは圧倒的な勝利者とされている。
 喜びの声を上げずにはいられません。
 『喜びの声上げて』という賛美でうたわれているように。

わたしの罪のため刺しとおされ
わたしの咎のためくだかれた
彼の十字架が平安をもたらし
彼の打ち傷でわたしは癒された

さあ今喜びの声上げて
心から主に叫ぼう
ハレルヤ感謝の限り尽くし
主イエスをほめたたえよう

 私たちは自分自身を見るとき、嘆かずにはいられません。
 罪に悩み、望まないことをしてしまっている。
 そういう葛藤は大事です。
 しかし自分ばかりを見ないでください。
 主を見上げるのです。
 イエス・キリストの救いがあります。
 義と認められ、子とされ、キリストに似た者に変えられていきます。
 自分の罪深さ、惨めさに悩む者ほど、救いの恵みの大きさを知ります。
 そして主に感謝の叫びを上げる者になるのです。

 

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