ローマ書講解17 命をもたらす霊の法則

ローマ書講解17

命をもたらす霊の法則

ローマの信徒への手紙 8:1-11

1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

よい理想で始めたことも醜い争いに使われる

ピエール・ド・クーベルタン男爵

 フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵は「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という理想を掲げ、近代オリンピックの開催を提唱しました。
 参考にしたのは古代ギリシアのオリンピアで開催されたスポーツ大会でした。
 古代オリンピックは4年に一度開催され、大会の始まる7日前から終わった7日後まで休戦が命じられました。選手や観客が安全に移動するためです。
 この理想は現在のオリンピックにも受け継がれ、夏と冬のオリンピックの度に国連総会でオリンピック休戦が決議されます。
 このようなスポーツを通した世界平和の理想を掲げるオリンピックですが、理想と現実は違います。
 オリンピック休戦が守られたことはありません。
 今回のパリオリンピックでもオリンピックが始まる7日前からパラリンピックが終わる7日後までの休戦が国連総会で決議されました。しかし戦争は続いています。
 過去には世界大戦によってオリンピックが中止されたこともありました。
 金メダルを取れば国旗が掲げられ国歌が流れる。国ごとにメダルを何個獲得したかという競争の舞台にもなります。
 出場する選手たちは純粋に高みを目指すというより、国の代表という重圧を背負わされて戦います。

 よい理想で始められたことも、人間は醜い争いに利用してしまいます。
 罪に支配された人間の惨めさを感じます。
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」というパウロの嘆きを思い出します。
 罪と死の法則に支配され、死刑執行を待つ死刑囚のような状態です。
 しかしパウロは主を見上げ、感謝の声を上げましたね。

イエスこそ唯一の救い主

 パウロは「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」と言います。
 この従っては6章7章全体を踏まえています。特に7章6節につながっています。
 つまり、古い自分はキリストと共に死んで、復活の主と共に新しい命に生かされている。だからもう罪に支配されず、聖霊に従う新しい生き方をするということです。
 かつては罪と死の法則に支配されていました。
 しかし今は神のものとされ、新しい法則の下に置かれた。
 それはキリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則です。
 罪と死の法則に支配されていた時、私たちは神の言葉をよいものとして認めながらも、それに反逆する力に流されていました。
 霊の法則の下では、聖霊の力で強められ、神の言葉に従う人生を歩みます。

人となられた神

 それは、元々は人の責任でした。戸口で待ち伏せる罪を支配しなければならなかった。「むさぼるな」という神の言葉を足掛かりに攻撃してきても、神の言葉に聞き従うことを選び取らなければならなかった。
 しかし人間は弱いので、罪を罪として処断することができませんでした。
 むしろ律法の行いによって罪の自覚を生じさせるばかりでした。
 誰かが律法の要求を満たし、罪をその足下に屈服させなければならない。
 しかしアダム以来すべての人は堕落してしまったので、正しい人は一人もいません。
 正しい方は神しかいません。だからと言って神が代わることはできません。

 それで神は律法の中で、罪の赦しのプロセスとして血を流すことを命じました。血を流すことなしに罪の赦しはあり得ません。
 しかし人が血を流せば、死ぬ。その人はその人自身の罪のために死ぬだけです。他の人の罪を贖うことはできない。
 だから罪のない人間が血を流さなければ、罪を罪として処断できません。

 そう、だから人を罪から救うことができるのは御子イエス・キリストしかいません。
 全く罪と関わりのない神ご自身が、罪深い肉と同じ姿で人となってこの世に来られました。
 そして律法の要求をすべて満たし、神の子羊として血を流し死なれたのです。

 このイエス・キリストを信じるとき、聖霊は私たちをキリストに結び合わせます。
 神は私たちを見るとき、罪赦された者として見ます。
 もう罪と死の法則に支配された死刑囚ではありません。無罪が宣告されました。
 主を見上げたパウロが感謝の声を上げ、喜びの叫びを上げた理由がわかりますね。
 人となられた神、イエス・キリストこそ唯一の救い主です。

キリストを見上げて歩む人生

この世のものを追い求める人生と神を追い求める人生

 イエス・キリストを見上げるなら、人生の方向性が変わります。
 パウロは「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え」ると言います。
 ここで言う肉とは、この世のもの、物質的なものを意味します。
 考えるとは、ただの思考ではなく、人生の方向性のような意味です。
 だからこの世に目を留めて生きる人は、この世のものを追い求める人生になるということです。
 富であったり快楽であったり、この世の力など。
 それはもう方向性がズレているので、神に敵対してしまいます。
 神に喜ばれるはずがありません。
 その行き着く先は死です。

 それに対し「霊に従って歩む者は、霊に属することを考え」ると言われています。
 神を見上げて歩む人は、神を追い求める人生になります。
 そこには命と平和があります。
 そして神に喜ばれる人生になります。

金メダルより上にある栄光

 オリンピックは競技会ですから、勝利を目指して戦うのは当然です。
 しかしメダルを獲得すること、国の威信を高めることなどが目的になってしまってはいけません。
 そのようなこの世の価値を追い求めれば、共に戦うライバルへの敬意を失い野蛮になり、負けた選手やミスをした選手に平気で石を投げるようになります。

 スケートボードのブラジル代表ライッサ・レアウ選手は、前回の東京オリンピックに13歳で出場し、銀メダルを獲得しました。
 今回のパリオリンピックには16歳で出場。
 自分より年下の日本人選手2人に敗れ、銅メダルを獲得しました。

 16歳という年代は一般的に、自分が世界の中心です。自分が成功することに価値がある。1つでも下の子に負けることは許せません。
 オリンピックという競争の場で前回以上の色のメダルを他の国に奪われるというのは、祖国のメディアから批判を浴びることにもなりかねません。
 しかし彼女はそんなことは気にしない。
 表彰台で年下の日本人選手と並び、笑顔で自撮りをしました。
 国籍とか、メダルの色とか、人からの評価とか、どうでもいいのです。
 ただ純粋にスケートボードを楽しむ。
 そして彼女は金メダルの栄光より上にある栄光を見上げていました。
 それは神様です。
 オリンピック開幕前、彼女はこう言いました。
 「神様、大好きなことをする機会を与えてくださってありがとうございます!」
 彼女の生き方から、命と平和があふれ流れてきます。
 これが命をもたらす霊の法則、キリストを見上げて歩む人生です。

聖霊を内に宿し聖霊の支配下に置かれる

 イエス・キリストを信じた私たちの内には神の霊、キリストの霊が宿っています。
 そしてその人は霊の支配下にいます。
 この関係性がわかりますか。
 聖霊は神の霊と呼ばれ、キリストの霊とも呼ばれています。聖霊は神から送られ、御子からも送られます。
 三位一体の神が、私たちの内に住むのです。
 そして内に住むだけでなく、私たちを支配下に置く。私たち自身が三位一体の神の内に置かれます。
 私たちは三位一体の神の愛の交わりの中に入れられているのです。
 それはイエス様の祈りの実現です。

22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

ヨハネによる福音書17:22-23

 イエス様は十字架につけられる前の夜に祈りました。三位一体の神が一つであるように、私たちも一つであるように。
 イエス様のこの願いは、私たちの内に聖霊が住むときに実現します。
 私たちが三位一体の神の愛の交わりの中に生きる時、イエスが主であること、そして神の愛が証しされます。
 そうして神の栄光を表す人生こそ、私たちが目指すべき生き方です。

 私たちには肉の弱さがあります。相変わらず罪を犯します。罪の奴隷であったときと何も変わっていないと思うことがあるでしょう。
 そうして体は罪によって死んでいると感じても、キリストが内に住んでいるので、私たちの霊は命になっています。
 そして復活の主は、私たちの死ぬはずの体をも生かしてくださる。
 パウロの「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」という嘆きに対する答えは、イエス・キリストこそ唯一の救いということです。
 もう自分を見て嘆くのはやめましょう。
 この世のものに目を向ける人生を送ってはいけません。
 イエス・キリストを見上げるのです。
 そのとき私たちは命をもたらす霊の法則に支配され、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶ人生を送ります。

 

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