ローマ書講解18
アバ父よ
ローマの信徒への手紙 8:12-17
12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
霊に従う義務
イエス・キリストを信じた私たちの内に聖霊が住んでいます。そして私たちは聖霊の支配下にある。
キリストの霊は死ぬべき私たちの体をも生かしてくださる。
もう罪と死の法則に支配されず、キリストを見上げて命と平和を流す人生に変わるんだよ!という話を前回しました。
喜びの知らせですよね。福音です。
でもこれで終わりではありません。
パウロ先生、ここから福音に生きる喜びを爆発させていきます。
心に刻んでおきたい大事な御言葉がたくさん出てきますから覚悟しておいてください。
ローマ書8章、ヤバいです。
聖霊に従うことを選び取る
そんな今日の本文にまず出てくる言葉は、「義務」。
聞きたくない言葉!
勤労、納税、教育を受けさせる。国民の三大義務。
よい知らせだと思わせておいて義務を持ち出すなんて、ローマ書8章ヤバいな。
まあ、まずよく読んでください。
パウロは、私たちには一つの義務があると言います。
それはどのような義務か。
もちろん、肉に従う義務ではありません。この世の価値観や律法に縛られた生き方をしろと言っているのではありません。その行き着く先は死ですから。
そうではなく、霊に従う義務です。
私たちの内で肉と霊が対立しているという話をしました。
私たちはそこで自らの意思をもって、聖霊に従うことを選び取るのです。
そうして肉の欲を退けるなら、私たちは生きます。
肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた
しかしどうすれば私たちは自ら聖霊に従うことを選択できるのでしょうか。
相変わらず私たちの内には肉の欲があります。この世の富や力、快楽、人を支配したい。
怠惰という誘惑もありますね。暑い、何もしたくない。このまま溶けてしまいたい。
弱い私たちはすぐに流され、負けてしまう。
自分の意思なんてすぐ折れる。
それでもキリストを見上げるのです。
十字架で死んで復活されたキリストを見上げてください。
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
ガラテヤの信徒への手紙5:24
そうだった。古い私は死んだんだ。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きている。
もう私は罪と死の法則に支配されない。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則の下にいる。
だから聖霊に従うことを選び取る。
こうしてキリストを見上げ、神に立ち帰り、聖霊に従う義務が私たちにあります。
神の子
神の霊によって導かれる者は皆、神の子
私たちは聖霊に従う義務があります。
言い換えると、私たちクリスチャンは聖霊に従う者。神の霊に導かれる者です。
パウロは言います。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
そうです。私たちは神の子。
私たちに与えられた聖霊は、私たちを神の子にしてくださいました。
人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではないのです。
人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない
皆さんは神様を思い浮かべるときにどのような印象を受けますか。
自分の罪や過ちを指摘し、罰を与える恐ろしい神でしょうか。
もしこのような恐れを感じるなら、まだ神様との関係が深まっていません。
神の子でないとか、悪霊に支配されているということではありません。
神の子とされているけれど、まだよその子という感じです。
この「神の子とする」という言葉は、養子にするという意味の言葉が使われています。
かつて私たちは罪の奴隷だった。そこからキリストの血で買い取られ、途中から神様の家に連れて来られ神様の子どもになったわけですね。
だから奴隷だった頃の主人のイメージと重なってしまうのは無理ありません。
しかし神様との関係が深まってくると、恐れはなくなります。
そして「アッバ、父よ」と呼べるようになります。
アッバというのは子どもが父親を呼ぶような表現です。だから「父ちゃん」とか「パパ」「アッパ」みたいな感じですね。
主なる神を父と呼ぶ恵み
神様をお父さんと呼ぶことのすごさ、わかりますか?
長年クリスチャンやっていると、祈りの度に「愛する天のお父様」と言いますよね。それが口癖のようになってしまう。すると神様をお父さんと呼ぶことがどういうことなのかわからなくなります。
かつてユダヤでは神様の名前を呼ぶことを非常に恐れました。十戒の第三戒で「主の名をみだりに唱えるな」と言われていたからです。それで神様の名前の読み方さえ忘れてしまいました。
そのような中で、イエス様は「父よ」と祈り、「私と父とは一つである」とまで言いました。
ユダヤ人ブチ切れです。
イエス様はなぜ命の危険がありながら、神様を父と呼んだのでしょう。
神の子だからです。
そして神様ご自身も、「わたしを呼べ」と名を呼ばれることを求めているからです。
そこには名を呼び呼ばれる愛の関係があります。親子のような交わり。
そう、私たちはイエス・キリストがしたように、主なる神様を父と呼べる霊を受けている。
三位一体の愛の交わりの中で、アバ父よと呼ぶのです。
畏れをもって父と呼ぶ
神様を呼ぶときに気をつけないといけないことを、第三戒の解説の時に話しました。
神の名を自分の利益のために使おうとしてはいけません。
軽々しい冗談で使ったり何でも神にしたりしてはいけません。
「神がこう言った」など自分の主張を通すために利用してはいけません。
それから、畏れをもって呼ばなければなりません。
神は恐ろしい方ではないと言いましたが、神は畏れるべきお方です。
自分の罪や過ちを指摘し、罰を与えるのではないかという恐れではなく、神様の素晴らしさに触れて畏れます。
これも神様との人格的な交わりが深まっていく中で、感じられるものです。
父なる神との関係を深める
ではどのようにして神様との関係を深めていけばいいのでしょうか。
それは礼拝であったり、祈りや聖書を通して神様と対話するのです。
という優等生の回答がありますが、私は神様とぶつかります。おススメはできませんが。
私たちには神様の言うこと、神様のすることが信じられない時がありますね。
その時、「いやです!従いたくありません」「神様、何でこんなことするんですか!」とぶつかってみてください。
「主はいつも良いお方。感謝します。」なんていい子ちゃんぶらなくていいです。
思春期に父親とつかみ合いのケンカをしたことがありますか。
女性はやらないでください。男性でも父親とそういう関わりを持てない家庭環境だったという人もいますから、絶対必要というわけではありませんが、私にとって父親とぶつかった経験は大きな出来事でした。
私の父は単身赴任で一緒に暮らせない時期がありました。
単身赴任が終わり同居できるようになったある日、父はぽろっとこう言いました。「もっとちゃんと育ててあげられたら良かったな」
中学生だった私はそれを聞いて「今まではちゃんと育てなかったってことかよ!」と父とつかみ合いのケンカをしました。
今になって思えば、単身赴任で子どもと関われなかった父親の反省の言葉だと分かります。
中学生になって体はそこそこ大きくなってきていました。
それでも父には適いません。父は私を窓際に追いやり、両手でぎゅっと締め付け身動きを封じました。
私の負け。
でもあの時、父の両腕に抱かれた時の温かさは忘れられません。
こんなどうしようもない息子を体を張って受け止めてくれる父の偉大さ、懐の大きさを体感しました。
その後クリスチャンになり、神様をアバ父よと呼ぶ恵みを知ったときにまた思い出しました。
神様はこんな不信仰な私を愛し、受け止めてくれる。
神様に文句を言うガキだけれど、その度に天のお父さんは言ってくれる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
何かができるからとか何かをしないからとかではなく、ただ神が愛して子としてくださった。
神にぶつかるとき、神の愛の広さ長さ高さ深さを思い知ります。
他にも色々な方法で、神様との愛の関係を深めていってください。
神の相続人
必要は十分に満たされる
私たちは神様の養子になりました。
養子になったということは、財産を受け継ぐ権利があるということでもあります。
神の相続人。天にあるあらゆる祝福を受け継ぐことができます。
だから欲しいものがあったら天のお父さんに頼めばいいです。必要なものは十分与えられます。
お前にはまだ早いとか、ダメだとか言われることもあります。思っていたものと違うものが与えられることもあります。
それでも主はよいお方。子の最善を願う父のように、最も良いタイミングで最も良いものを与えてくれます。
独り子をさえ与えてくださった神様が、私たちの必要に応えてくださらないはずがありません。
兄の模範に従う
私は神の子。そして天の銀行には莫大な財産がある。
そう考えたら王族にでもなったような気分です。
そう、私たちは神の国の王子や姫。
王族には王族らしい生き方があります。
天皇家の方々の笑顔、手の振り方がありますね。
同様に、神の子には神の子らしい生き方があります。
その模範はイエス・キリスト。
御子イエス・キリストは私たちのお兄ちゃん。
このお兄ちゃんに従うことで、神の子らしく生きることができます。
キリストの歩みに従う歩みとは、十字架の道。愛に生きる道。
誰かを本当に愛そうと思えば痛みが伴います。親子も夫婦もそう。
互いにぶつかり痛みを経験しながらも愛し合うことで、絆が深まります。
私たちはキリストと共同の相続人。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けます。
神の子として歩む先にある栄光の将来を、天の父は約束しています。
私たちは神の子。キリストを見上げ、聖霊の導きに従うことを選び取ってください。
神の子として、神様との関係を深めていきましょう。
そして天の父にこう祈ります。
アバ父よ、私たちはまだ未熟です。こんな私たちがキリストお兄ちゃんに従って歩めるよう守り導いて下さい。