ローマ書講解2 福音は人を救う神の力

ローマ書講解2

福音は人を救う神の力

ローマの信徒への手紙 1:8-17

8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 今日の本文は手紙の冒頭のあいさつの続きです。
 ここでパウロはこの手紙全体の主題とも言える言葉を語っています。
 キーワードは2つあります。それは信仰と福音です。

信仰

信仰の面で評価される教会

 まずパウロはローマの信徒たちについて神に感謝していると言います。
 彼らの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 こういう評価はうれしいですね。
 4月になって新生活を始め、新しい教会を探す人もいると思います。
 皆さんはどういう基準で教会を選びますか。
 礼拝の雰囲気とか、通いやすい場所にあるとか、色々な評価ができますね。ホームページやSNSで情報発信をしているかも大事。
 でも一番は人ではないでしょうか。
 会いたい人がいる。気の合う人がいる。
 ただ人に会いたいだけなら、どこかに遊びに行けばいいです。
 この教会に行きたいと思えるのは、この教会に信仰の模範になる人がいるからです。
 この人は世の中にいる人とは違う。この人のようになりたい。この人が信じている神様を私も知りたい。
 そのように信仰の面で評価される教会でありたいです。

信仰者のつながり

 パウロもローマの信徒たちの評判を聞き、祈りの度に彼らのことを思い起こし、ローマに行きたいと願ってきました。
 そして彼らに会い、霊の賜物を分け与えて力になりたい。互いの信仰によって励まし合いたいと願っていました。
 イエス・キリストを信じる人にはそれぞれ聖霊の賜物が与えられます。そして教会が一つのキリストの体となるように、全体の益のために働きます。
 パウロは自分がローマの人たちを励ますだけでなく、自分もローマの人たちの信仰によって励まされたいと願っています。

 同じ信仰を持つ人たちの間で生まれるつながりがあります。
 クリスチャンの集会や旅先などで違う教会に行ったとき、初めて行く教会なのになぜか安心できて、初めて出会う人なのに昔からの知り合いだったかのような感覚を持つことがあります。
 一つの神の家族、兄弟姉妹なのだなと感じます。

思った通りにならない時こそ信仰の出番

 パウロはまだ会ったことのないローマの信徒たちに対しても兄弟と呼び、何度もそちらに行こうとしたと言います。
 しかし妨げられ、実現しませんでした。
 後でパウロはローマに行くことができました。ただし囚人という形で。
 恐らくパウロが思い描いた形とは違っていたでしょうが、神の御心によって行く機会が与えられました。

 私たちの祈りが、自分の思い描いた通りに叶えられないことが多くあります。
 そういう時こそ、神の御心に従うチャンスです。

 もしパウロが、自分の願った通りにローマに行くことができていたらどうでしょう。
 この手紙を書く必要はありません。
 パウロはローマの人たちに会いたくても会えなかった。だから先に手紙を送り、信仰の基礎を伝えたいという情熱が生まれた。
 そしてこの素晴らしい手紙は後世に受け継がれ、新約聖書に含まれ、現代に生きる私たちにも信仰の基礎を伝えています。
 思った通りにならない時、そこから生まれるものに期待してください。
 信仰の出番です。

福音

すべての人に福音を伝える責任

 パウロはローマの信徒たちに会いたい理由をもう一つ語っています。それは福音を告げ知らせたいということです。
 福音というのは先週見たように、御子イエス・キリストが聖書の約束の通り、私たちの罪のために十字架で死なれ復活したことです。
 パウロは「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」と言い、福音を伝えることを自分の責任だと言っています。
 未開人(バルバロイ)とか知恵のない人とかちょっと気になる表現が使われていますが、ギリシア・ローマの人たちにとって異なる文化を持つ人はすべてバーバリアン(野蛮人)でした。
 要するにギリシア人にもそうでない人にも、すべての人に福音を伝える責任があるということです。

キリストの愛を受けたから

 責任を他の言葉で言い換えると、負債、または恩です。
 負債(借金)は返さなければなりません。
 ではパウロはなぜこの負債を負うことになったのか。
 それはイエス・キリストがパウロの罪を負って十字架で死なれたからです。
 教会を迫害するほど神に背いた自分を、神は赦してくれた。
 このキリストの愛を受けたパウロは、キリストに恩返しをしなければなりません。
 恩返しの方法はキリストの願うことをすること。
 それは復活の主が弟子たちに命じたように、全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えることです。
 だからパウロにはすべての人に福音を伝える責任があります。

 負債という訳だと、仕方なく福音を伝えなければならないという感じがあります。
 しかしパウロは福音を伝えることについて「そうせずにはいられないこと」「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」とも言っています。
 パウロはキリストの愛に駆り立てられて福音を伝えています。

福音を伝えたいという情熱

 私たちも同じキリストの愛を受けました。
 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。
 だから私たちもすべての人に福音を伝える責任があります。

 キリストの愛に駆り立てられていますか。キリストの愛に感動し、この愛を伝えたいという情熱がありますか。
 パウロのようにすべての人をターゲットにしなくてもいいです。
 だれか一人でも、ぜひ福音を告げ知らせたいと思える人を持ってください。
 もしそのような情熱がないなら、まだ自分の罪がわかっていないかもしれません。

福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力

 16節17節はこの手紙全体の主題とも言える言葉です。
 特に16節は覚えておいてほしいです。

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 イエス・キリストが私の罪のために十字架で死なれ復活した。
 この福音を信じる者は皆救われる。
 ユダヤ人は自分たちこそ選ばれた神の民だと信じていました。アブラハムの血筋によって救われるのだと。
 確かに神はアブラハムを選び、イスラエルは神の民であった。それはイスラエル人、ユダヤ人という特定の民族を祝福するためではありませんでした。彼らを通してすべての民族を祝福するためです。
 またユダヤ人は割礼など律法の行いによって救われると信じていました。
 いいえ、人を救うのは人の行いではありません。神の力です。イエスを主と信じる信仰によって救われるのです。
 私たちもこの福音を信じる信仰により、神の力で救われた。
 この喜びを隠すことはできません。恥じてなどいられません。
 私たちも告白します。私は福音を恥としない。福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

正しい者は信仰によって生きる

 パウロはここでハバクク書の預言を引用しています。

見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

ハバクク書2:4

 これはバビロンの脅威にさらされているとき、神からの答えを待ち望んでいるときに与えられた言葉です。
 ハバククは砦の上に立ち、見張りのように神からの答えを待ちます。しかしなかなか答えは見えません。そのような時に主の言葉が与えられました。
 それは必ず来るから待っていろ。人間の感覚では遅いと思うかもしれないが、神が遅れることはない。自分を頼るのではなく、神を信頼せよ。目の前に見える現実ではなく、神からのビジョンを受け取れ。救いの神によって喜び踊れ。
 そのような信仰の励ましです。

福音を伝えるため信仰の一歩を踏み出す

 信仰の父アブラハムは、父の家を離れてわたしが示す地に行けと神に言われました。
 それがどこかもわからず、神に言われるまま一歩を踏み出しました。
 その信仰の一歩が、大いなる国民の父、すべての民の祝福の源への大いなる一歩でした。
 私たちも信仰の一歩を踏み出しましょう。
 私たちはこの福音を誰に伝えるのですか。どこに行って伝えるのですか。
 目に見える現実は、福音を恥と思わせるかもしれません。信仰を持って生きることは社会のマイノリティで、福音を伝えることはタブーのように思われる。
 しかし信仰者は、目に見える現実を超えた神の約束の上を歩みます。
 「正しい者は信仰によって生きる」のです。
 神からのビジョンを受け取り、信仰の一歩を踏み出してください。
 私たちの信仰が全世界に言い伝えられる。
 それは大げさかもしれませんが、信仰での面で評価される教会でありたいです。