ローマ書講解22 救われた者の悲しみ

ローマ書講解22

救われた者の悲しみ

ローマの信徒への手紙 9:1-5

1 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

長く生きることの喜びと悲しみ

 明日は敬老の日ですね。今日の午後にはまなハウスに行って、おじいちゃんおばあちゃんに歌のプレゼントを届けます。おじいちゃんおばあちゃんがいつまでもお元気で幸せに過ごせるようにと願います。
 私も長生きすることにあこがれた時期がありました。誕生日は無条件にうれしかった。
 でもだんだん、年を重ねることに喜びとは別の感情がわいてくるようになりました。
 年を取るのがイヤというわけではありません。それなりに長く生きていくと、色々な別れを経験します。私の誕生を祝ってくれた祖父母はもういない。子どもの頃に遊んでくれたおじさんの中にも亡くなった方がいる。同級生の中にも、一緒に年を重ねられないやつもいる。これから更に多くの別れが待っています。
 自分が長く生きられることは喜び。しかし周りに目を向けるとき、同時に悲しみがわいてきます。

救われた者の喜びと悲しみ

 ローマ書8章いかがでしたか。ヤバいでしょ。
 苦難の中でも万事が益となるように、神が共に働く。神様は私たちを見捨てない。どんな力もキリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできない!
 福音に生きる喜びが最高潮を迎えました。
 ミュージカルだったら周りの通行人も一緒に踊りだすレベル。

喜びの頂点から深い悲しみへ

 で、9章「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。」
 何の前置きもなくこれです。
 音楽が一番盛り上がったところで急に止まり、舞台も暗転。主人公にだけスポットライトが当たっているような状態。
 そしてこのセリフ。
 「わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」
 深い悲しみ、絶え間ない痛み。
 いや、さっきまで喜びにあふれていたじゃん。感情の落差がすごい。
 パウロさん大丈夫ですか?

パウロの悲しみ

 パウロの精神状態は心配いりません。
 ここでパウロが言うことは「キリストに結ばれた者としての真実」また「聖霊によって」良心が証ししていること。
 だからクリスチャンとして聖霊が心に与えた思いです。
 パウロがフィリピの信徒への手紙で「喜びなさい」と言っているように、救われた者には喜びがわき上がってきます。
 それと同時に、救われた者には悲しみもあるのです。

 それはどのような悲しみか。
 「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
 自分の同胞、つまりユダヤ人に関する悲しみです。
 ユダヤ人が福音を受け入れず、神に背いているからです。
 パウロは異邦人の使徒として神が選んだ器です。しかし最初は各地のユダヤ人に対して宣教をしていました。コリントでの騒動がきっかけで異邦人宣教の方向性を明確にしますが、ユダヤ人を見放したわけではありません。たとえユダヤ人から迫害されても。
 福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
 福音によって救われるべきは、まずユダヤ人なのです。

 パウロの悲しみはどれほどでしょう。
 同胞の救いのためならば、「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」とまで言っています。
 そんなことは不可能です。この直前で、どのような力もキリストから引き離すことはできないと、神から見捨てられることはないと、高らかに宣言したばかりです。
 しかしその不可能がこの身に起こってもいいと願うほどに、同胞の救いを願っているのです。同胞の救いのためならば、この身がどうなってもいい。
 パウロの切実な思いが伝わってきます。

救われた者の喜びを共有できない悲しみ

 人によって程度の差はありますが、このような悲しみが救われた人たちの心にわき上がってきます。
 最初は喜びがわき上がってきます。このような罪人の私が救われた。ハレルヤ!
 この喜びは心からあふれ流れていきます。
 そこで私たちの目は外に向かいます。この喜びを誰と分かち合おう。
 教会の中には、この喜びを共有できる人がいます。
 しかし周りの友だちは共感してくれない。
 家族にも伝えられない。
 伝えようとすれば激しい反対にあうかもしれない。変な人だと思われるかもしれない。
 なぜならこの国の99%の人はイエス・キリストの福音を知らないからです。
 1%未満の小さなコミュニティの中だけで留めておくような小さい喜びではありません。福音は隠れてコソコソ語るようなものではありません。
 それなのに福音に生きる喜びを共有できないことは悲しいです。
 救われたばかりの頃は自分しか見えなくて、ただうれしい。
 しかし周りが見えてくると悲しみがわいてきます。

救いのための切実な思い

 イエス様はそのような人たちのためにも十字架で死なれました。
 そもそも神がすべての栄光を捨てて人になったというのは、あり得ない話です。
 また命の源である神ご自身が死ぬということは、あってはならないことです。
 イエス・キリストはそのような不可能を可能にしてまで、私たちの救いを成し遂げてくださったのです。
 それなら私たちは周りの人の救いのために何をしますか。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

ヨハネの手紙一3:16

 ヨハネ3:16は大事なので覚えておいてほしいですが、Ⅰヨハネ3:16も大事ですね。
 イエス様は罪人の私たちを救うために十字架で死なれた。復活のイエス様の手には十字架の傷跡が残っている。その永遠の愛が刻まれた手が差し伸べられている。
 この神の愛を周りの人に伝えたいですね。何とかしてこの福音を伝えたいと切実に思います。
 皆さんは誰に福音を伝えたいですか。

キリストを見上げ賛美する

 パウロは9章から11章にかけて、このユダヤ人の問題を扱います。
 それはユダヤ人が単なる民族の一つではないからです。

神に選ばれた民

 彼らは神の選ばれた民、イスラエル。
 神様はイスラエルの民を「わたしの子」と呼んでいます。
 イスラエルの民が荒野にいたとき、臨在の幕屋に神が臨在し、神の栄光が満ちあふれました。
 神様はイスラエルの民と契約を結び、律法を与えました。
 そしてイスラエルの民は神の前に呼び集められ、礼拝をささげます。
 神様はイスラエルの民との約束を守り、多くの国民となり、約束の地へ導き、世界の祝福の源にしようとしました。
 アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてダビデといった先祖たちがいました。
 イスラエル王国が滅亡してイスラエルの民はバラバラになりましたが、ユダ族は約束の地に戻り、ユダヤ人として生き残っています。
 神様はこの民を通してご自身を現され、聖書を記録させました。
 そしてイエス様も、このユダヤ人の中で人として生まれました。

 ユダヤ人が特別に素晴らしい民族というわけではありません。他の民族と同じ。問題だらけ。
 現代のユダヤ人やイスラエルと呼ばれる国家を見ても問題だらけですね。
 それでも神が特別に選ばれた民です。神様の救いの大きな計画の中で、特別な役割があると思います。

キリストを見上げ賛美する

 パウロはユダヤ人から激しい迫害にあい、死にかけたこともあります。
 それでも同胞のことを諦めてはいません。
 私たちも自分の周りの人のことを考えれば、心に深い悲しみや絶え間ない痛みを覚えるかもしれません。
 それでも主を見上げるのです。
 パウロは主を見上げて賛美します。
 「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」

同胞と共に主を賛美する日が来る

 受肉、神の死という不可能を可能にして救いを成し遂げたイエス・キリストは、もう一つ不可能を可能にしました。
 死んで復活したのです。

9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

フィリピの信徒への手紙2:9-11

 すべての舌が「イエスは主である」と告白し神を賛美する。
 私たちの周りの人たちも、そして神の民を自称しながら神に背き続ける人々も、共に喜び賛美する日が来ます。

 皆さんは誰と福音の喜びを分かち合いたいと願いますか。
 その人にどのように愛を伝えていきたいですか。 

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