ローマ書講解23 約束による神の民

ローマ書講解23

約束による神の民

ローマの信徒への手紙 9:6-18

6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。9 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。11-12 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。13 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

神の国の価値観を上書きする

 昨日、浜松城公園でファミリースポーツフェスティバルを開催しました。
 子どもが子どもらしく自由に遊べるって大事ですよね。
 子どもの遊び場に行っても、自由がないことがあります。某こども館でも、うちの下の子が1人でいたら「親御さんがついていてください」と職員さんに叱られます。安全面を考えたら親が見ていた方がいいですよね。でも子ども2人連れているわけです。それぞれ行きたいところやりたいことがあります。私が下の子につきっきりになっていたら、上の子はほったらかしです。で、2人を一緒に見ようとしたら「勝手に動くな。言うこと聞け。」と親の言うことを聞かせなければならない。
 フェスティバルでは、子どもたちみんな勝手に遊びます。最低限のルールはありますが、自分のやりたいことに自由にチャレンジできます。親御さんは木陰やスタバで休んでいて大丈夫。
 そういう自由な雰囲気の中で、自分は愛されているんだということを体感してほしい。
 この世の中では愛されるために条件があると思い込まされるけれど、あなたは無条件にそのままで愛されているんだという神の国の価値観を上書きしていきたいのです。

約束によって生まれた神の民

 先週は救われた者には悲しみがあるという話をしました。
 救われた人には心から喜びがわき上がってくる。それを誰かと分かち合おうとするとき、親しい友だちや家族にも伝えられないという現実が見えてくる。それは悲しいですね。
 でもパウロは主を見上げ、賛美しました。

変わらない神と神の言葉に目を留める

 そうです。私たちはこの世の環境や状況にばかり目を向けていると、色々な問題が見えてきます。罪と悲惨に満ちたこの世界の中で、心に深い悲しみ、絶え間ない痛みを覚える。
 それでも主を見上げる。
 現実逃避ではありません。この世の現実はよく見なければならない。しかしこの世の現実を超えて確かな、神の約束の上を生きるのです。
 この世の現実は移り変わっていく。
 しかし神様と神様の言葉は変わりません。

神の言葉がむなしく地に落ちることはない

 パウロも同胞イスラエルの救いを考えるとき、神の言葉に目を向けます。
 神の言葉は効力を失っていない。
 生きていて力ある言葉が、むなしく地に落ちることはないのです。

10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

イザヤ書55:10-11

 神の約束は必ずその通り成し遂げられます。

神の民の祝福は約束の子に受け継がれてきた

 では神様は神の民イスラエルについて何と言っているのでしょう。
 そもそも神様が最初に選んだのはアブラハムでした。そしてアブラハムを大いなる国民の父とすると約束します。
 しかし85歳になってもアブラハムと妻サラの間に子どもは与えられませんでした。
 ここでサラは、神の約束が成し遂げられないのは自分のせいではないかと思ってしまいます。それで女奴隷ハガルと関係を持つことを夫に提案します。アブラハムもこれを了承してしまいます。そして念願の第一子イシュマエルが生まれます。
 しかしこの子は約束を疑って人間の計画で生まれた子です。

 神様はアブラハムが99歳の時、「わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に生むイサクと立てる。」と約束しました。
 この約束に従って100歳のアブラハムにイサクが与えられたのです。

 ちなみにアブラハムには何人の子がいたか知っていますか?
 実はサラが亡くなった後に再婚し、6人の子が与えられています。全部で8人。
 その中で神の民の祝福を受け継いだのは約束の子イサクただ1人です。

 このケースでは、正妻の子とそうでない子、嫡出子と非嫡出子の違いがありますね。正妻サラの独り子イサクが優先されるのは納得がいきます。
 ではイサクの子の場合はどうでしょうか。
 イサクはただ一人の妻リベカと添い遂げました。
 晩婚で不妊に悩みましたが、神様は祈りにこたえ双子ちゃんを与えてくださいました。
 妊娠中に神様はリベカに言います。
 「兄が弟に仕えるようになる。」
 そして先にエサウが生まれ、エサウの足首をつかんでヤコブが生まれました。

 リベカのお腹から出てきた順番で兄と弟が決められますが、二人ともイサクとリベカに神様が同時に与えてくださった子です。
 その中で神様はヤコブを選びました。
 生まれる前ですから、行いや性格の善し悪し、信仰の態度などは関係ありません。
 ただ神がそう選んだということです。
 神の民の祝福は、人間の行いとは全く関係なく、神様の一方的な選びによって受け継がれていきます。

イスラエルという名が与えられる

アレクサンドル・ルイ・ルロワール『天使とヤコブの闘い』

 創世記を見ると、神様の選びは失敗だったのではないかと思わされます。
 ヤコブは兄をだまして長子の権利を、父をだまして祝福を勝ち取りました。行いも性格も悪いです。女性関係も問題あり。そして兄と再会するときには、他の人を先に行かせ、自己保身に走りました。
 こんなずるくて卑怯なヤコブですが、ペヌエルで神様と格闘します。
 「祝福してくださるまでは離しません。」というヤコブに神様は、神と戦うという意味のイスラエルという名を与えます。神と人と戦って勝ったからです。
 問題だらけのヤコブですが、この祝福に対する貪欲さから、神様の選びの正しさが証明されました。
 そしてヤコブと12人の息子たちから、神の民イスラエルが形成されていきます。

無条件な神の選びによって神の民とされた

 神様の選びは無条件です。どのような生まれかは関係ありません。
 モーセは奴隷の子、ダビデは羊飼い。
 ヨセフとマリアは貧しく若く婚約したばかり。
 イエス様はベツレヘムの飼葉桶で生まれた。
 育ったナザレは、ナザレから何か良いものが出るだろうかと言われるほどの田舎。
 そしてイエス様が選んだ12人の弟子たちも問題だらけ。
 だから神様は、私たちが何者であるかに関係なく選ばれるのです。
 私たちも天地創造の前から神様に愛され、選ばれています。そしてイエス様を信じ、神の民に加えられました。
 私たちも約束による神の民です。
 どのような家庭環境で生まれ、どのような人生を歩んできたとしても、あなたは神様から無条件に愛されている。
 この神の約束を心に刻んでください。

恵みの機会を逃さない

 神の民イスラエルも確かに問題だらけ。見ていて悲痛な思いになる。
 それでも神様はイスラエルを愛しています。
 預言者マラキは、神様の愛をこう表現しました。

2 わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と。エサウはヤコブの兄ではないかと/主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛し 3 エサウを憎んだ。わたしは彼の山を荒廃させ/彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。

マラキ書1:2-3

 神はヤコブを愛しエサウを憎んだ。だからイスラエルは捕囚にあっても再建され、エドムは荒廃しているでしょうと。

 これで納得いきますか。
 ああ、確かに神様は愛だと思えますか。
 エサウかわいそう過ぎる。不公平じゃないですか。

神の主権的な選び

 そこでパウロは、モーセに対する神様の言葉を引用します。
 主の栄光を求めるモーセに、主なる神様は言いました。
 「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
 ここには神様の主権が語られています。
 誰に恵みを与え、誰を憐れむのか。それは神様が決めること。
 だから人間的に納得できなくても、神様の選びは確かです。

神の選びは確かである

 いやいや、それズルくないですか。神様だからで済ませたらもう何も言えませんよ。
 それでパウロは、神様がどのように憐れもうとする者を憐れむのか、ファラオの例を取り上げます。

 神様はエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を救うために、モーセを遣わします。
 しかしファラオは拒みました。
 そこで神様はエジプトに災いを起こします。ナイル川の水が血に変わり、カエルが大量発生し…。
 それでもファラオは心を頑なにし、民を去らせません。
 それで神様はこう言います。

しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。

出エジプト記9:16

 ファラオには、神の力を示し神の名が全地であがめられるための役割が与えられている。だから今まで生かされてきたのだ。そろそろ心を開いて神の民を去らせろよ。
 ファラオは神の民に敵対する立場になっていますが、それも神の選びの内。
 神様はファラオに何度も悔い改めの機会を与えています。
 しかしファラオは神様の愛の手を拒み続けました。
 それで神様ご自身が、ファラオの心を頑なにしました。
 それでエジプトを死の災いが襲い、ファラオとその軍隊は海に呑み込まれて死んでしまいます。

悔い改めの機会を逃さない

 神様はご自身の主権的な選びによって、ある人を憐れみ、ある人をかたくなにされます。
 それは全地で主の御名があがめられるようになるための役割分担です。
 最終的にすべての舌が「イエスは主である」と告白し、神を賛美します。
 その過程である人は神に敵対します。
 ファラオもそう。イスカリオテのユダ、ペトロ、パウロだってそうです。
 ファラオとユダはそのまま滅びの道を進みました。
 ペトロとパウロは復活のイエス様に出会い、変えられました。
 神様は悔い改めの機会を与えてくださっています。イエス様が愛の手を差し伸べてくださっています。
 しかしその恵みは永遠ではない。
 私たちが拒み続けるなら、恵みの機会は失われ、神様がその人の心を頑なにしてしまいます。

 神様の主権的な選び。それは神様が私たちを愛そうと決意されたということです。
 私たちが問題だらけで神様に背くことがあっても、神様は私たちを愛することをやめられない。
 この世で生きていく中で、自分は神に見捨てられたと思うことがあるかもしれない。
 しかし神を見上げ、その約束の言葉を握ってください。神は愛です。

 

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