ローマ書講解24 神の手にある土の器

ローマ書講解24

神の手にある土の器

ローマの信徒への手紙 9:19-29

19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」 

神の怒りと憐みの器

 先週は神様の主権的な選びについて学びました。神はご自分が憐れみたい者を憐れみ、頑なにしたい者を頑なにする。アブラハムやモーセのように神に憐れまれ、神に用いられた人もいる。一方でファラオやイスカリオテのユダのように頑なで神に敵対した者もいます。それは神様がなさったことです。
 それなら、神に背く人を神様が責めるのはおかしくないですか?
 神様がご自分の御心によってある人を神に敵対させたなら、それに逆らうことなどできません。
 神に敵対し滅びに定められた人生があるとしたら、悲惨です。そのような人は生まれてこなかった方がよかったとさえ思えます。
 実際イエス様も「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言っています。
 神様がそう選んだのでしょう。イエス様はユダがどのような人か知っていて選んだのでしょう。
 それなのにその人が悪いと責めるのですか?

 と神に口答えをしてしまいます。そんな私をパウロ先生は「調子に乗るな」とたしなめます。

どのような器を造るかは造り主次第

 コップとして作られた器がマグカップのように取っ手がないからといって、陶器師に「何しよんのか。お前の作った物に取っ手がないやんけ。」と言えますか。
 むしろ取っ手があったら重ねられなくてとっても邪魔です。
 聖書は私たち人間が土の塵から造られたと言います。それで神を陶器師、人間を土の器にたとえる場面がいくつかあります。
 どのような器を作るかは陶器師次第。ある器は食器や花瓶になり、ある器はバケツになる。便器になるものもあります。
 だから私たちをどのように造るかは創造主なる神様次第です。
 ある人が神の民のリーダーとして用いられて、ある人が神に敵対する役割になったとしても文句は言えません。

神は人を滅ぼすこともできる

 主なる神様は預言者エレミヤを陶器師の家に行かせました。
 エレミヤが見ていると、陶器師は粘土をろくろの上で回しながら器にしていきます。
 気に入らなければ自らの手で壊し、作り直します。

 そこで神は、イスラエルの民もこの粘土のように神の手の中にあると言います。
 もし気に入らなければ壊すこともできるのだと。
 なるほど、神は人を滅ぼすこともできる方。こわっ。

滅ぼされるべき民に示された神の憐れみ

 そうなんです。神に背く者は、神に滅ぼされる怒りの器であって当然です。
 エレミヤはこの神様の警告を繰り返し語りました。しかし南ユダ王国の民は神様の言葉に背き続けました。そこで南ユダ王国は滅亡するのです。
 ああ、神様は怒りを示し、その力を知らせてくださった。

 ところが神様はユダヤ人をバビロンに捕え移し、生かしておきました。
 あれ?滅ぼさないの?
 しかもユダの王ヨヤキンは釈放され、バビロンの王と食卓を共にするようになりました。
 何という憐み。

 神様に背いた民は怒りの器として滅ぼされるはずでした。
 しかし神は寛大な心で忍耐された。
 それによって神の憐れみが際立ち、神の栄光が表されています。

呪いの象徴から救いの象徴へ

アンジェラ・エルウェル ハント 著, 辻 紀子 訳「3本の木」(いのちのことば社)

 「3本の木」という物語があります。
 ある山のてっぺんに生えていた3本の木には、将来の夢がありました。
 3番目の木の夢は、神様を指し示すような高い木になること。

 ところが木こりに切られ、材木置き場で放置されました。

 長い年月が経って、3番目の木はやっと運び出されました。
 そして嘲り罵る人々の間を運ばれ、ある人の手が釘で打ち付けられました。
 3番目の木は自分が醜く残酷なものに思えました。

 しかし3日目の朝、木の足下で大地が喜びに震えています。
 神の愛ですべてが変えられました。
 残酷さの象徴であった木が、神の救いの象徴に変えられたのです。

神の手で造り直される

 陶器師である神様は私たちを自由に造り変えることができます。
 怒りの器としての役割が与えられていたとしても、神はそれを憐みの器に造り変えることができます。
 大切なのは、神の手にあるかどうかです。
 ただの十字架は呪いの象徴です。しかしイエス様が釘付けられたことで、あの十字架は救いの象徴に変えられました。
 ファラオやイスカリオテのユダは最後まで神に背き続け、帰って来ることがありませんでした。彼らは伸ばされた神の手を拒み、自ら滅びの道を選択したのです。
 そのような人の罪を、神は責めます。
 しかし神に立ち帰るなら、滅びの道から救い出してくださる。
 陶器師は気に入らない器を壊して終わりではなく、作り直します。
 神の手で私たちは、神がデザインした本当の自分に造り変えられます。

滅びるために造られた器などない

神に背き続けた民が神の民とされた

 イエス様に出会い救われた私たちは憐みの器とされています。
 神の民であるべきユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召し出されました。
 このことは預言者たちが語っていたことの成就です。
 ホセアはこのように預言しました。

わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。

ホセア書2:25

 神に背き続けて来た民を、神はご自分の民としてくださいます。
 ホセアはそのことを人生を通して証ししてきました。
 神がホセアと結び合わせた女性は不倫をしました。律法によれば石打ちで死刑です。
 ところが神はその女性を受け入れよとホセアに命じるのです。
 神ご自身がイスラエルの民にそうしてきたからです。
 神はご自分の造られた一人一人を愛している。
 それなのに人は神の愛を拒んだ。
 本来は死ぬべき罪を神は赦し、神の民として受け入れてくださっています。

神の憐れみによって生かされている

 預言者イザヤも言います。
 「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
 「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」
 イスラエルの民は神に背いた。
 天からの火で滅んだソドムとゴモラのようになってもおかしくなかった。
 ただ神の憐れみにより残され、生かされてきた。

神は滅びを望んでなどいない

ジョン・マーティン「ソドムとゴモラの破壊」

 天からの火で滅ぼすとか、こわっ。
 救われた私たちは結果としては憐みの器とされた。
 では滅ぼされた人たちは仕方なかったのでしょうか。滅びに定められた人もいるのでしょうか。
 イエス様が言うように、生まれなかった方がよかった人もいるのでしょうか。
 いいえ、聖書をよく読めば、神様はソドムとゴモラを滅ぼす前に十分猶予を与えていることがわかります。
 誰を滅ぼすかは神の主権なのに、わざわざアブラハムと相談しています。そして正しい人が10人いれば滅ぼさないと約束しました。
 それなのにソドムの住民は罪を犯し続け、滅びから救い出されることがありませんでした。
 このやり取りから、神様がソドムとゴモラの滅びを望んでいなかったことがわかります。

 イエス様は生まれなかった方がよかった人がいると言っているのではありません。
 最終的に滅びに向かってしまうのであれば、生まれなかった方がその者のためによかった。だから神に立ち帰れということです。

自分の存在価値は神にしかわからない

 すべての人は神に造られました。それぞれ異なるデザインがあります。そこには創造主なる神様の意図があります。
 誰も自分で自分の存在価値を決めつけてはいけません。
 私は憐れまれぬ者、怒りの器だ。私はただ滅びるだけの存在だ。私のような人間は生まれなかった方がよかった。
 そこまで思いつめなくても、どうせ私はこの程度の人間だ。私には幸せになる資格などない。
 AB型だから私は変人だ。
 そういう決めつけ、私は大嫌いです。という私はやはりAB型。

 あなたの本当の存在価値は、神様にしかわかりません。
 「土の塵から造られた人間の価値なんてなんぼのもんじゃい」と思わないでください。
 この土の器に過ぎない私たちを救うために、神が人になったのですよ。
 世界を創造した神の言葉が、肉となって私たちの間に住まわれたのですよ。
 そして私たちの命の代価として、神は独り子を与えました。
 今この土の器に、神の霊が宿っています。

父なる神の慈しみの目が注がれている

 神は私たちを滅ぼすことができる恐ろしい方。
 しかしその神は、私たちに慈しみの目を注いでいます。

29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

マタイによる福音書10:29-31

 2羽で1アサリオンのスズメ。1羽のスズメの価値なんてこの社会では大したことありません。
 しかしその一羽のスズメにも父なる神様は目を注いでいる。
 それならなおさら、神のかたちに造られた私たちを父なる神が見捨てることはありません。
 私たちは神の目に高価で尊い存在です。

 私たちは神の背くことがあります。
 そのような間違った人生を歩む私たちを、神様は造り直してくださいます。
 自分の人生を神の手に委ね、神様がデザインした本当の自分の人生を生きていきたいと願います。 

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