ローマ書講解26 神に遣わされた者たち

ローマ書講解26

神に遣わされた者たち

ローマの信徒への手紙 10:14-21

14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。20 イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

良い知らせを伝えるという美しく尊い働き

 「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
 イエスを主と呼ぶ。そうすれば「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」
 すべての人に救いの道が開かれました。
 人を何とかして救いたい神様の心を感じます。

福音を伝えるために遣わされた人たちがいる

 しかしまずは信仰が必要ですね。イエス様のことを信じていないのに「イエスは主です」と告白することはできません。
 だから信じたことのない方を呼び求めることはできません。

 そして信じるためには、相手の情報が必要です。
 イエス様のことを聞いたこともないのにイエス様を信じることはできません。

 また情報が何もない状態から聞くには、誰かが伝えてくれなければいけません。
 シェルピンスキーガスケットを知っていますか。
 聞いたこともなければ調べようとも思いませんね。
 イエス・キリストについても、まず誰かが伝えてくれなければ聞くことはできません。

 さて、私たちが誰かに情報を伝えるのはなぜでしょう。
 「これを伝えなさい」と誰かに命じられたからかもしれません。
 「このことを伝えたい!」という思いが内から湧き出して来たからかもしれません。
 あるいは、たまたま口から出た言葉や書き残しておいたメモが誰かの耳や目に届いただけかもしれません。
 私たちは「福音を宣べ伝えなさい」とイエス・キリストから命じられています。
 そして聖霊は私たちをキリストの証人にします。福音を伝えずにはいられなくなります。
 私たちの意図しないかたちで、私たちの人生から福音がしみ出していることもあります。
 いずれにしても福音という情報を伝えるために、私たちの外から内から働きかける方がいます。
 神がイエス・キリストの福音を伝えるために、私たちを遣わすのです。
 その目的は、人を救うこと。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることです。

働き者のきれいな足

 福音を伝えるということは、神が私たちに任せてくださった尊い使命。
 イザヤ書52章に「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」とあるとおりです。
 この良い知らせはギリシア語でユーアンゲリオン。戦いの勝利や王の即位など重大ニュースを伝えるときにも使われた言葉。
 イザヤ書でも、主なる神が王となってシオンに凱旋する。そして地の果てまですべての人が神の救いを仰ぐというよい知らせが預言されています。
 この預言の通りイエス・キリストは十字架の死と復活によって罪と死に打ち勝ち、王の王、主の主となりました。ユダヤ人だけでなく異邦人もすべて、地の果てまでイエスを主と信じる信仰で救われます。
 神から遣わされて良い知らせを伝えるとは、なんと尊い働きでしょう。

 その足は山々を行き巡って泥だらけ傷だらけ。
 しかし働き者のきれいな足です。

私たちも神に遣わされた者たち

 パウロはこの手紙の最初に、自分のことを「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と紹介しています。
 パウロも救いの良い知らせ、福音を伝えるために遣わされた。
 それは私たちも同じです。私たちも福音を伝えるという美しく尊い使命に遣わされています。
 必ずしもパウロのように外国に行くとか山々を行き巡るということではありません。神が遣わす場所は人によって違います。
 まずは今、あなたがいるその場所が、神に遣わされた現場です。
 それはあなたの家庭です。あなたの家族に対して福音を伝えるのです。
 また職場や学校です。あなたの仕事や勉強を通してもイエス・キリストを証しするのです。
 そしてあなたが住むその場所で。あなたの友人、知人、近所の人々はあなたの生き方を通して神の愛に出会います。

置かれた場所で咲くのは置いた神の責任

 これは大切な働きです。
 もしかすると自分の周りの人の中には、自分しかクリスチャンの知人がいない人もいるでしょう。
 すると自分が伝えないなら、その人はイエス様のことを聞かないまま。
 聞かないと信じられない。
 信じられないと呼び求められない。
 その人は救われない。

 いや、大変な使命だな。そう負担を感じるかもしれません。
 しかしこの働きは神様が始めたこと。神様が私たちを選び召し出し遣わします。
 だから責任は神様にあります。
 必要な力、知恵、資源は神様から来ます。

 自分の力で人を救いに導こうと頑張らなくていいです。
 神様が示すタイミングがあります。
 そして語るべきことは聖霊様が与えてくれます。
 言葉だけではなく、イエス様を信じて変えられた人生そのものが証しです。
 私たちがクリスチャンだと公言するなら、人々は私たちに注目します。あなたの感謝と喜びにあふれた言葉遣い。あなたのさりげない笑顔。それだけで「この人は他の人とどこか違う。そうか、この人はイエス様を信じているからだ」とわかります。

 練習します。
 隣の人に笑顔で言ってください。「良い知らせを伝えるあなたは、なんと美しいことか」

 神が置かれたその場所で花を咲かせることで、あなたを遣わした神の素晴らしさが表わされます。

キリストの手となり足となる

良い知らせを伝えても聞いてもらえない

 福音を伝えるというのは、神様が私たちに任せた働き。神に遣わされ、神様が必要な力を与えてくださる。
 それなら結果が伴うのは当然ですね。
 ところが実際はなかなかうまくいきません。
 家族に伝えても反発される。
 職場や学校で変な目で見られる。
 友だちも去って行った。
 そういうこともあります。

 目的は救いでしょう。神様が人の心を変えてくれたらいいのに。
 人を通して宣教するなんて愚かな方法ではありませんか。
 パウロも「すべての人が福音に従ったのではありません。」と言います。
 使徒言行録を見れば、パウロが福音を伝えても軽蔑し無視する者もいました。ユダヤ人は反発し迫害してきました。

 こうなることはイザヤも預言しています。
 「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」
 イザヤ書53章1節からの引用です。
 イザヤ書53章といえば主のしもべの受難。
 神から遣わされた方が、私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの咎のために打ち砕かれた。
 それなのに私たちは彼を軽蔑し無視した。
 私たちは福音を伝えるとき、このキリストの苦しみを共に担います。

 神様は人々が「イエスは主」と告白するという結果だけを求めているのではありません。
 愛の交わりを求めています。三位一体の愛の交わりに加えたい。
 その愛には、痛みが伴います。
 神から遣わされた私たちも人々から軽蔑され無視されるときがあります。
 そのとき、私たちの手の上にキリストは愛の手を重ねてくださっています。

信仰はキリストの言葉を聞くことから始まる

 相手が聞いても聞かなくても、私たちは語らなくてはいけない。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 キリストの言葉を語り続けるのです。

 神の言葉は生きていて力があります。
 私たちが神の言葉を宣言するとき、神の言葉自身が働いて人を造り変えます。世界が変わります。
 人を含め、世界は神の言葉で造られていますから。

 それともう一つこの言葉で押さえておきたいポイントがあります。
 語る側だけでなく、受ける側にとってもキリストの言葉であることが大事です。
 語る者が神の言葉として語り、聞く者が神の言葉として聞くとき、聖書は神の言葉となります。
 説教を聞く時も自分で聖書を読む時も、神の言葉として聞いてください。
 聖霊が働き、生きておられる神様がいのちのパンとなって今日の私たちの信仰を養います。

神の言葉を聞いても拒む反逆の民

 じゃあね、イスラエルの民は神の言葉を聞かなかったのですか。
 もちろん聞きましたよ。会堂で教えられ、家でも歩いていても起きていても寝ていても聞かされてきたのです。
 それに神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。

2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5a その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。

詩編19編2-5a節

 弁解の余地はありません。

 じゃあイスラエルは理解力が足りなくてわからなかったのでしょうか。
 いいえ、イスラエルほど神に親しい民はいません。
 彼らは神を知ることができるのに、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮ったのです。

 モーセは申命記32章で、イスラエルの民についての歌をうたいます。
 イスラエルは神の力をその目で見、舌で味わいました。
 それなのに主なる神を捨て、神ではないものを神のように頼った。
 だから神は、異邦人をもってイスラエルに妬みを引き起こし、怒りを燃え立たせました。
 イスラエルは不従順で反抗する民でしたが、神は先に異邦人を救うことで妬みを起こそうとしています。

神は反逆の民にも手を差し伸べ続けている

 だから神は愛の手を差し伸べています。
 イザヤもこう言っています。

1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。2 反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。

イザヤ書65章1-2節

 イエス・キリストは失われた人々を探して救うために来られました。
 彼らが自ら背き道を外れたとしても、神様は一人一人の名を呼ばれる。
 主の名を呼ばない民に対しても神様はご自身を示し、「わたしはここにいる。ここにいる。」と呼びかけておられる。
 そして忍耐強く手を差し伸べておられる。
 イエス様は2千年間手を差し伸べ続けています。

誰がキリストに代わって愛の手を差し伸べるのか

 しかしそのイエス様はもう地上にいません。
 代わりに聖霊を受けた私たちがキリストの体とされています。
 誰がキリストに代わってキリストの言葉を伝えるのですか。
 キリストが見ているところに目を向けるのは誰ですか。
 誰がキリストに代わって、愛の手を差し伸べるのですか。
 誰がキリストの探し求めておられる人のところに足を運ぶのですか。
 その小さな者の一人が叫んでいる。その叫びは言葉にならないかもしれない。誰がキリストに代わってその声なき声に耳を傾けるのですか。
 主よ、わたしがここにおります。私を遣わしてください。
 そうです。私たちを通して救いの良い知らせが伝えられ、キリストの愛が届けられる。
 この美しく尊い使命に、私たちは遣わされています。

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