ローマ書講解27 尽きない感謝と喜び

収穫感謝礼拝

ローマ書講解27

尽きない感謝と喜び

ローマの信徒への手紙 11:1-10

1 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。2 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」4 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。6 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。8 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。9 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。10 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」

感謝と喜びを分かち合う

 今日は収穫感謝礼拝ということで、小坂忠さんの「感謝と喜びを」を賛美しました。「感謝と喜びを今主の前にささげよう」と歌います。
 皆さんはどのような感謝や喜びがありましたか。
 喜びは分かち合うことで増え広がっていきます。ぜひ互いに感謝や喜びを分かち合っていただきたいです。

救われている感謝と喜び

背き続けてきた民を神は見捨てられるのではないか

 今日の説教の主題を「尽きない感謝と喜び」にしました。でも聖書本文には感謝も喜びも出てきません。むしろ感謝や喜びとはほど遠い文面です。
 パウロは「神は御自分の民を退けられたのであろうか。」と問います。
 イスラエルの民は神の言葉を聞いてきたのに拒みました。神は忍耐して手を差し伸べ続けている。それを拒み続けてきたのだから、神から見捨てられても仕方ないではないか。「もう知らない!勝手にしなさい!」みたいに。

パウロが救われている

ムリリョ「パウロの回心」

 パウロは「決してそうではない」と否定した上で、自分の話をします。
 パウロもイスラエル人。アブラハムの子孫。ベニヤミン族の末裔。
 フィリピの信徒への手紙では、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法の義については非のうちどころのない者だったとも言っています。イスラエル人のサラブレッドです。
 だから誰よりも肉の行いを誇りとし、キリストの福音を拒んでいました。
 教会を迫害して男女を問わず牢に入れ、ステファノの殺害にも賛成していました。それが神に従うことだと信じていたのです。

 ダマスコのクリスチャンにも迫害の手を伸ばそうとした時、「なぜ、わたしを迫害するのか」という主の声を聞きます。
 神に従っていると思ってしていたことが、神に敵対することだったのです。
 神に見捨てられても仕方ない、罪人の頭です。
 ところが、そのパウロが救われた。
 キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたのです。
 だから神はイスラエルを見捨ててはいない。自分がその証拠だということです。

自分のようなものが救われ用いられている

 この国においてはどうでしょう。
 日本人の99%はキリストの福音を受け入れていません。福音を聞く機会自体が少ないという問題がありますが、聞いても拒む。
 ザビエルらイエズス会の宣教から450年以上。多くの殉教の血が流されました。
 プロテスタントの宣教から150年以上経ってもクリスチャンの割合は1%から増えません。
 クリスマスや結婚式でキリスト教の文化は取り入れられている。まるで泥沼のように外から入ってきたものを取り込み、変質させてしまう。
 宣教師の墓場とも呼ばれます。
 もうこの国での宣教には限界があるのではないか。八百万の神々を造り出した日本人は、主なる神様に見捨てられたのではないか。

 いいえ、そんなことはありません。
 私たちが証拠です。
 私たちの中で、神に受け入れられるのにふさわしい正しい人はいますか。
 皆さん立派な人ですよ。でも神様の基準には遠く及ばない。
 日々自分の汚さ、醜さに気づかされる。
 それなのに私たちは救われました。

 私を見てください。話はつまらないし、やることは遅いし、牧会者としての心がないし、高慢。牧師として全くふさわしくありません。皆さんの半数以上が願うなら辞任勧告できますからね。
 自分の足りなさを知っていながら牧師を続けているのは、神様から招かれたからです。
 こんな人間が救われて牧師をやらせていただいている。
 それなら神様はどんな人でも救うことができるし、どんな人をも用いることができますよ。

 罪にどっぷりと浸かっていた私たちが救われた。
 イエスが流された血潮で清められ、天に名が記されている。
 そのことが感謝であり喜びです。

感謝と喜びを分かち合う

 神様は永遠の愛でイスラエルを愛することを誓いました。
 神様はご自分の民を愛することを諦められません。

たくさんの神の民が残されている

 そのことは列王記のエリヤの物語からもわかります。
 エリヤは北イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。
 アハブ王はバアルという偶像の神を崇拝し、国民にもバアルを信仰させました。
 主の預言者は迫害されて多くの殉教者が出ました。エリヤただ1人が活動を続けています。
 それでもエリヤはバアルの預言者たちと対決し、天からの火で主こそ神であると証明しました。

 ところが王妃イゼベルがエリヤの命を狙っていると聞くと恐れ、自ら死を願うようになりました。
 そしてイスラエルの民の不法を神に訴えます。

 すると神はこう答えました。
 「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」
 7千人というのは象徴的な数です。たくさんの民が残されているということです。

 そしてパウロは、今も同じように多くの者が残されているのだと言います。
 実際、使徒言行録を見ればペトロの説教で3千人、ペトロとヨハネの活動で5千人のユダヤ人男性が救われています。
 イスラエルは見捨てられていません。

恵みによって選ばれた民がいる

 これはただ恵みです。血統や律法の行いは全く関係ありません。
 え、こんな人が?と思うような人が次世代のリーダーになることもあります。

 エリヤの跡を継いだのはエリシャ。
 神の山ホレブからの帰りに畑を耕しているところを見かけて、コートを投げかけて弟子にしました。何その出会い。
 エリシャは野心家で、怒りっぽいところがあります。ちょっと人格に問題ありです。
 でもそのような人が主の預言者として用いられます。

 パウロの跡を継いだテモテは若くてなめられることがありました。また胃腸が弱く病気がちだったようです。
 それでもパウロからの信頼は厚く、用いられます。

 自分の周りには残りの民などいない。キリストの弟子になるような人も救われそうな人もいないと思わないでください。
 意外と近くにいます。
 誰がどのように救われ、用いられるか。それは神にしかわかりません。

周りの人たちのため祈る

 神がこの民を見捨てていないのだから、私たちも自分の国や民のために祈るべきです。
 サムエルはこう言っています。

22 主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。23 わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。

サムエル記上12:22-23

 先に救われた私たちが救いの喜びを賛美するとき、その喜びは周りの人たちにも伝えられていきます。
 家族、友人、地域の人たちにも感謝と喜びを分かち合っていきましょう。
 これはどんなに分け合っても、減ることはありません。

神を拒むなら感謝と喜びを失う

神を拒んだ民への呪い

 イスラエルは神を求めましたが、得られませんでした。それはバアル崇拝のように間違った方法で求めたからです。
 かつてイスラエルの民は荒野で、神の力強い御業を体験しました。
 しかし彼らが主を信頼しなかったので、主はイスラエルの民に鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられました。
 またパウロはダビデの詩を引用します。これは詩編69編23-24節が基になっています。
 詩編69編は、人を理由もなく苦しめる者への呪いがうたわれています。

私たちは誰の食卓に着いているのか

 食卓というのは、ごちそうを食べられるところ。自分たちが利益を得られると思うところです。
 私たちは主の食卓に招かれています。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

黙示録3:20
ハント「世の光」

 イエス様が私たちの心の扉を叩いている。
 私たちがキリストの声を聞き、それを受け入れるなら、私たちはイエス様が用意した食卓に着きます。

 しかし私たちは主の声を拒んでしまいます。
 イエス様を隅に追いやり、自分の人生から締め出す。
 すると私たちは誰と食事をするのか。
 独りぼっちではありません。他の主人がやってきます。
 心の扉を開かなくても、悪魔が盗人のように忍び込んでくるのです。
 そして悪霊の食卓に座らされます。
 目の前の現実に恐れ、感謝と喜びは奪われる。
 ちょっとしたトラブルで心が乱される。
 互いに敵対させられ、教会の交わりから引き離される。

主を見上げるなら感謝と喜びは尽きない

 ダビデは自分を苦しめる者を呪っています。そういう心になることはあります。
 それでも彼は主に目を向けます。

主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の捕われ人らを/決しておろそかにはされないでしょう。

詩編69:34

 神に見捨てられても仕方ないと思える人々がいる。
 しかし主はご自分の民を見捨てない。
 いつか心開かれる時が来る。
 その時のために、私たちが先に救われました。

 私たちが主を見上げるとき、感謝と喜びがわき上がってきます。
 その姿を見て人々は気づきます。私たちが内側から変えられていることに。
 そうです。私たちは悪霊の食卓ではなく主の食卓に着く者。私たちの内には聖霊様が住んでいる。
 聖霊の炎が内で燃えているので、いつも喜び絶えず祈りどんなことにも感謝できる。
 この感謝と喜びは取り消されません。誰にも奪えません。
 だから主を見上げ、感謝と喜びをささげていきましょう。 

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