ローマ書講解3
神を無視する人たち
ローマの信徒への手紙 1:18-32
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
よい知らせを理解するためのよくない話
今日から手紙の本文に入ります。
パウロは手紙の冒頭で福音の力について語りました。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」だと。
これからその福音について語られるわけです。
福音はよい知らせという意味です。どのようなよい知らせが聞けるのでしょう。
と思ったらいきなり「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」人間の不信仰、不義、そして神の怒り。よくない知らせです。
福音について語るパウロが、なぜ罪の話から始めるのか。
それは罪がわからないと、私たちの罪のために死なれたというキリストの福音がわからないからです。
神を無視している
罪、不義
罪とは何ですか。
それは神様にするなと言われたことをすること、しなさいと言われたことをしないこと。また神様を無視することです。
それは神に造られた人間にとって神との正しい関係性ではありません。不義です。
正義の神様はそのような罪、不義を放っておきません。それで天から怒りを現されます。
被造物を見て神を知る
こういう話は、旧約聖書を知っているユダヤ人には通じます。
しかし福音はギリシア人にも(ユダヤ人でない人にも)救いをもたらすとパウロは言いました。
旧約聖書の知識がない彼らは言うでしょう。いやいや、パウロ先生。神様の命令なんて知らないし、そもそも聖書の神様のことなんて知りませんよ。それなのに神の怒りを受けると言われても…。
パウロは彼らの弁解を認めません。神について知りうる事柄は、あなたたちにも明らかでしょう。神を知らなかったなんて言わせませんよ。
どこで神のことを知ることができるのか?
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」神に造られたこの世界が、作者である神の性質を物語っているのだと。
ダビデもこううたっています。
2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
詩編19:2-5
大空、海や山、壮大な自然を見ながら畏れを抱いたことはありませんか。
小鳥の歌声や野の花の美しさに心が洗われる経験をしたことはありませんか。
また人間の持つ知性や道徳性に感動したことはありませんか。
これらすべては神の作品です。
神の偉大さ、慈しみ深さ、知恵、正しさが現れています。
そして、自然を見てこういうことを感じる力が人間にはあります。霊である神を感じる霊性が、人間にはあるのです。
神を神としてあがめることも感謝することもしない
それなのに人間は神を神としてあがめることも感謝することもしない。神を無視しています。
人間は自分を賢い者だと思っています。神に食べるなと言われた実を食べて目が開き、神のように善悪を知る者になったと思い込んでいます。
しかし人間がするのは愚かなことばかり。
滅びることのない神の栄光を、いつかは滅び去っていくものに似せた像に取り替えてしまった。木や石で造った像を拝み、人間を頼り、富などこの世の力を求めている。それらを造られた神様を無視しています。
作品には作者の品性が反映されている
作品には作者の品性が反映されています。
同じ場所で絵を描いても、何をどう描くかは人それぞれです。
おふくろの味というのがありますね。それぞれの家庭の味です。
遠くに行っていた子どもが帰って来て、久しぶりに親が作ったごはんを食べたとしましょう。
「ああ、これこれ。この味。やっぱりうまいな。」などと言いながらおいしそうにごはんを食べています。
おふくろの味を感じているんだろうなと思っていたら
「愛してるよ、みそ汁ー!」
とみそ汁に言う。
そこは「おふくろー!」だろ。
愛する対象を間違えていますね。
一回だけなら笑って済ませられますが、何度も繰り返せば怒られて当然です。
親を無視してはいけません。
子どもが親の味を忘れられないように、人間には創造主である神のことが忘れられません。
聖書の知識があってもなくても、人間には神の痕跡が刻み込まれています。
だから神の造られた自然を見て神のことを知ることができます。
それなのに神を無視するのは、当然神の怒りを招く罪です。弁解の余地はありません。
神を無視する人が陥る悲惨
勝手にしなさい!
神を無視する人に現れる神の怒りとはどのようなものでしょうか。
親の言うことを聞かない子どもに、親は言います。
「いい加減にしなさい!もう知りません。勝手にしなさい。」
人が神を無視し続けるので、神は人が愚かなことをするままにしました。
パウロは、神を無視する人がどうなるかを3つ挙げています。
神ではないものを神のように扱う
まず神は、神を無視する人を「心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」ました。
これは偶像崇拝です。創造主なる神ではなく、造られたものを拝み仕えます。
ギリシアやローマには数多くの像がありました。アテネには「知られざる神に」と刻まれた祭壇までありました。
これは異邦人だけの問題ではなく、ユダヤ人も同じです。主なる神様を礼拝するために、金の子牛の像を造ってしまいました。
私たちも同じことをします。目に見えない神様ではなく、お金などの物質、自分の知識や経験、この世で力を持つ誰かを頼っていませんか。神ではないものを神のように扱ってしまってはいませんか。
パウロもまた自分の知識や自分の思う正しさを頼って生きてきた人でした。
その結果、教会を迫害し主なる神様を迫害する者になってしまいました。
だから手紙の途中で話をさえぎり、こう言わずにはいられません。
造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
神の創造における秩序ある関係を壊す
また神は、神を無視する人を「恥ずべき情欲にまかせられ」ました。
自然の関係を捨て、男同士で恥ずべきことを行っている。
この自然の関係というのは、神の創造における秩序ある関係です。
神は人を神のかたちに似せて造りました。そして産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよと命じます。また神は人を男と女とに造り、1人の男と1人の女を結び合わせて夫婦にしました。この二人が一体となる夫婦の結びつきは神からの祝福であり、神秘的な関係です。これを壊してはいけません。
ここには明らかに同性愛行為の問題を指摘する言葉がありますが、自分は異性愛者だから関係ないなどと思わないでください。
古代ローマでは性的な関係が権力の象徴として使われました。地位のある男性は、相手が異性であろうと同性であろうと関係なく、性的な関係を持って相手を支配しました。
ただ性的な関係に留まらず、神に造られた人間の尊厳を守らず相手を支配しようとしてはいけません。
神との関係が壊れれば人間関係も壊れる
そして神は、神を無視する人を「無価値な思いに渡され」ました。
神を無視する人は、してはいけないことをします。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。
ここに挙げられた罪のリストのほとんどは、人間に対するものです。
神に対して罪を犯すだけでなく、人間に対しても罪を犯します。神との関係が壊れれば、人間関係も壊れるのです。
このようなことをする人は神を知らないのだから、これらがしてはいけないことだと知らなかったのでしょうか。
いいえ、知っています。
神のかたちである人間には道徳性があります。
だからこれらが死に価する罪だとわかっているのです。
知っていながら死に価する罪を自ら犯し、他の人がするのも認めてしまいます。
私たちもこれらの罪のリストを見て、こうしてしまうのも仕方ないよねなどと言い訳をします。
私たちが神を無視しても神は私たちを見捨てない
ああ、神を無視する人たちの悲惨なこと。私はクリスチャンで神様を知っているから関係ないもんね。などと思う人は2章の1節を見てください。ガツンと頭を殴られます。
そう、私たち皆が神を無視する罪人なのです。言い逃れはできません。
そしてこの私たちの罪のために、イエス・キリストが十字架で死なれました。
罪がわからなければ、罪のために死なれたと言われても意味がわかりません。
しかし罪を知れば知るほど、神の愛の大きさがわかります。
私たちは神を無視したのです。神を捨てたのです。
それなのに神は私たちを見捨てなかった。私たちのことを手のひらに刻んで、忘れることは決してないと約束された。
独り子イエス・キリストを送り、探して見つけ出してくださった。
失われた1匹の羊を見つけ出すまで探す羊飼いのように。
放蕩息子に駆け寄って抱きしめた父のように。
もう神様を無視しないで、神様のところに帰って来てください。
そして神を神としてあがめ、感謝する者になってください。