ローマ書講解30 礼拝する人生

ローマ書講解30

礼拝する人生

ローマの信徒への手紙 12:1-2

1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

聖なる生けるいけにえ

 これまで信仰の基礎の話を続けてきました。福音がどういうものかわかってきましたか。
 私たちすべての人は罪人です。
 それなのに神は私たちを愛し、独り子イエスを与えてくださった。
 十字架で死なれ復活されたイエスを主と信じる信仰によって私たちは救われます。
 福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
 罪人の頭のような者をも救い、偉大な宣教者に造り変える。
 そして私たちは神の大きな救いの計画の中で用いられていく。
 この神を見上げるとき、私たちは礼拝せざるを得なくなります。

 こういうわけで兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。と、12章に入るわけです。
 ここまで信仰の基礎の話を続けてきた。それを踏まえて、ここからは信仰の実践の話に入ります。
 まずは、私たちがささげるべき礼拝とはどういうものかということについて。

礼拝とは

 そもそも礼拝とは何か考えたことがありますか。今私たちは何をしているのですか。
 すごく簡単に言うと、礼拝は神様との出会いです。
 広く言うと、何か神聖だと思われるものの前に行き、敬意をもって拝むこと。
 だから神社にお参りしたり、仏像の前で手を合わせたりするのも礼拝です。
 ユダヤ人もかつては神殿に行き、礼拝をささげていました。

いけにえは不要

罪を償うためのいけにえ

 しかし神聖な神と人間が出会ってしまったらどうなりますか。
 光に照らされると闇が消えるように、聖い神の前に罪ある人間は存在できない。
 それで人は、ささげ物を持って神様の前に進み出ることにしました。
 旧約聖書でも神様は動物の血を流すことや収穫物をささげることを求めています。

 私たちも礼拝をしています。
 さあ、ささげ物を出してください。
 牛や羊はどこですか。
 ビーフやチキンでもいいですよ。
 お米はどこですか。

 こうやってささげ物を要求する教会があったらヤバいです。
 私たちはもう罪の赦しのためのささげ物は必要ありません。
 神の子羊イエス・キリストが完全なささげ物として血を流し死なれたので、私たちの罪の償いはすでに完了しているからです。

全存在を神にささげる

 神様も物が欲しくてささげ物を要求しているのではありません。神様に足りない物は何もありません。
 むしろ神が求めているのは、人が罪を離れ神に立ち帰ることです。

サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。

サムエル記上15:22

 それなら私たちは神に何もささげなくていいのか。
 心の向きを神様に向けて、神様の恵みを受け取ればいいのか。
 いいえ、福音はそんな安っぽい恵みではなかったはずです。
 古い私はキリストと共に十字架で死に、今は復活の主と共に新しい命に生かされている。
 もうこの体を罪の道具にすることなく、神の奴隷として、神の手にある道具として用いていただくことを願います。
 神の御心をこの地で行うために「私がここにいます。私を用いてください。」と願うようになります。
 だから心だけではない。自分の体も含めて、全存在を神の前にささげるのです。

人生そのものが礼拝

 私たちが日曜日に礼拝をささげるのはなぜですか。
 イエス・キリストが日曜日の朝に復活したからです。
 教会でささげられる礼拝に招かれ、私たちの罪のために十字架で死なれたキリストを思い、悔い改める。神の言葉を受け取り、新しく造り変えられる。そして復活の主と共に新しい命に満ちあふれ、神からの祝福を受けて送り出されていく。これが日曜日の礼拝の流れです。
 しかし礼拝を神との出会いと言うなら、日曜日だけに限る必要はありません。
 インマヌエルの神イエス・キリストはいつも共におられます。
 また教会という建物の中に限る必要もありません。
 パウロの「聖なる生けるいけにえ」という表現、おもしろいですね。
 神殿の祭壇の上に横たわる死体じゃないんです。キリストと共に生きるいけにえなんです。
 だから祭壇から飛び出し、神殿の外に行き、神のものとして生きる。
 いつでもどこでも私たちは礼拝できる。
 私たちの人生そのものが礼拝です。

生活の中で神の偉大さをたたえる

 また礼拝の大事な要素として、拝む対象への敬意があります。神を偉大な存在として認める。
 私たちも賛美の中で神をほめたたえますね。

 100年前のパリオリンピックにイギリス代表として出場したエリック・リデルは、100m走の金メダル候補でした。
 ところが決勝は日曜日。礼拝の日。
 彼は出場を辞退しました。
 コーチやイギリスの皇太子までもが説得しますが、彼は礼拝を優先します。
 金メダルの栄光や王室の権威よりも、主を偉大な方と認めていたのです。
 神を最優先にしたエリック・リデルは、急遽出場した400m走で金メダルを取りました。

 私は日曜礼拝を死守しなさいとは言いません。仕事や体調不良などやむを得ない事情で日曜日の朝に教会に集えない方はいます。
 それでも、その生活の中で神の偉大さをほめたたえてください。
 「私は走るとき、神を喜ぶ。」
 エリック・リデルの信仰はこの言葉に表れています。
 学校で勉強をしているときも、仕事をしているときも神を見上げてください。神は今学んでいることも、目立たない仕事も、神の栄光のために用いてくださいます。
 友だちと遊びながら、また家庭を守りながら、キリストの愛を流すこともできます。
 生活の中で共におられる神を見上げる。それが礼拝する人生です。

心の底から変えられる 

この世の有様は移り変わる

 私たちは生けるいけにえとして、この世に送り出されていきます。
 この世の有様は移り変わっていきます。
 パウロの時代と今は違います。5年前と今も色々変わりましたよね。
 この世の変化に合わせて、私たちも生き方を変えます。
 パウロの時代は手紙が主な通信手段でした。
 もし現代にパウロが生きていたらメール、電話、オンラインミーティングを活用するのではないでしょうか。SNSを使いインフルエンサーになったかもしれません。

この世の変化に流されてはいけない

 しかしパウロは、この世で生きる私たちに一つ注意をしています。
 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」
 この世に倣うというのは、この世の変化に流されるというような意味です。

 この世は技術の革新によって便利になっていきます。
 また福音が伝えられて人々の意識が変えられ、一人一人を尊重するようにもなっていきます。
 神は独り子を与えるほどにこの世を愛されている。神が造られた世界は良いものに満ちあふれている。感謝して受けるなら何一つ捨てるものはない。
 同時にこの世界は人の罪のために壊れています。悪魔の支配下にあります。
 だから本来は良いものが、悪用されて罪の道具とされ、人を神から引き離してしまうことがあります。

 スマートフォンは便利です。
 その便利さゆえに、誰かと連絡を取ること、SNSのやり取り、ゲーム、ネットの泥沼に引きずり込まれる人もいます。
 一人一人を尊重することは大事ですが、人権は行き過ぎると、神の作品としての人間の価値ではなく、個人がどう思うかに重きを置くようになります。
 仕事や家庭も神様が与えてくださった祝福です。
 しかし仕事の忙しさのゆえに神を見失い、家庭を優先して礼拝が後回しになることもあります。
 今どうですか。教会に来て、静まって神様に心を向ける時間を持てましたか。神の家族との再会を喜んで挨拶を交わしましたか。
 礼拝が終った後にまずすることは何でしょう。
 すぐスマートフォンの画面を見てしまったら、ヤバいですよ。
 もしかしたら大事な連絡が入っているかもしれません。
 それでも神を第一に求めてください。
 この世に流されてはいけません。

神へと向かう変化

 私たちは変化するこの世の中で、変わらないでいることはできません。
 クリスチャンこそ変わるべきです。古いものは過ぎ去り新しく造られたものになったのですから。
 それはこの世に流される変化ではなく、栄光から栄光へとキリストに似た者に変えられていく変化です。
 表面的に生き方を変えるというのではありません。
 私たちは全存在を神に明け渡しました。
 心の底から新しくされるのです。
 これは聖霊の働きです。

 マインドコントロールでも別人格のように変わってしまいます。心から変えられたように見えます。だから聖霊の働きのように錯覚してしまいます。しかしその変化は、組織に従順な者に変わるという方向です。
 聖霊によって変えられた人は、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになっていきます。変化の方向性が神を向いています。
 そして神は、私たち一人一人をユニークな存在として造りました。それぞれ異なる賜物が分け与えられています。だから多様性があって自由に生き生きとした雰囲気が生まれます。
 神の国とはそういうところです。

神の愛を受け取る

 神の御心に焦点を合わせるためにどうしたらいいですか。
 神の言葉を聞いてください。祈ってください。兄弟姉妹との交わりを大事にしてください。
 今日はギデオン協会の西村兄弟のお話を伺いました。大切な働きです。まさにこの世の中で神に焦点を合わせた、礼拝する人生を送る方々です。また信仰の先輩でもあります。ぜひ交わりの時を持ち、ギデオンの働きにも関心を持っていただきたいと思います。

 こうしなさいと強制することはしません。
 人に強制されてできることではないからです。
 パウロも「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と言っています。
 神の憐れみ。罪と悲惨に満ちたこの世から私たちを救うために、神が人となって来てくださった。私たちの罪を背負い、十字架で死なれた。そして死の力を破り復活された。
 この神の愛を受け取ったなら、私たちはもうこの世に流されて歩むことはできない。
 たとえこの世の流れに逆らうとしても、神を見上げて歩んで行く。
 神の御心のままに造り変えられていきます。
 そのとき私たちは、神に造られた本当の自分として、神と共に礼拝する人生を送ります。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください