ローマ書講解31 キリストの体になる

ローマ書講解31

キリストの体になる

ローマの信徒への手紙 12:3-8

3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 神を礼拝しながら人と比較する

 先週は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげる、礼拝する人生について学びました。この世に流されるのではなく、聖霊によって心の底から新しくされる。神の憐れみを受け、神を愛する者になる。

ティントレット「アベルの殺害」

 そうして礼拝する人生を送っていても、この世で生きる人間に根強く染みついた思いがあります。
 聖書に記録された最初のささげ物は、カインとアベルのささげ物。主なる神様は弟アベルとそのささげ物に目を留めましたが、兄カインとそのささげ物には目を留めませんでした。
 聖書はその理由を語っていません。「ああ、これはただ主権者である神様の御心なのだな。」では済みません。
 「なぜ弟だけ神に受け入れられるのか」と思ったのでしょう。カインは激しく怒ります。
 そして共に助け合うべき弟を殺してしまいました。
 ここにあるのは比較意識です。誰が神にふさわしいか、どちらがより神を愛しているか。
 神を礼拝しながらも、人を見て競争する。
 十字架の道を進もうとするイエス様について行った弟子たちも、誰が一番偉いかと議論しながらイエス様に従いました。
 競争社会で生きる私たちは、どちらがより神に喜ばれる聖なるいけにえか競争し、あいつらの礼拝はふさわしくないと壁を作ります。

キリストにある自分を見る

 そこでパウロは、自分に与えられた恵みによって、私たち一人一人に言います。
 前の箇所は「神の憐れみによって」神との関係について語っていました。ここでは互いの関係について語っています。
 それは「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」ということです。

他人と比較し優劣をつける

 人には比較する能力があります。
 どちらが多いか。どちらが大きいか。生まれたばかりの赤ちゃんだって、そういう数量の比較ができます。
 神が人に与えた賢さです。

 しかし大きくなるとどちらが多く持っているか、どちらが力強いか、どちらが賢いかといった競争が始まります。
 親や学校もその競争をあおり、そういう社会の流れにより従順に従う者が称賛される。
 こうして私たちの比較意識は強化され、学歴、年収、見た目のよさ、SNSの発信力などでも他人と比較します。
 そこで優劣をつけ、優越感に浸りたいのです。
 しかしその評価は正しいのでしょうか。自分を過大評価していませんか。
 あるいは過小評価して劣等感や自己憐憫に落ち込んでいませんか。

洗礼者ヨハネの慎み深い評価

ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」

 洗礼者ヨハネは「彼こそメシアではないか」と言われるほど、人々から高い評価を受けていました。
 しかし彼自身は「自分にはメシアの履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。過小評価のようにも聞こえます。
 イエス様が洗礼を受けに来たとき、洗礼者ヨハネは「自分こそあなたから洗礼を受けるべき」と言って辞退しようとします。それでもイエス様の言葉に従い、洗礼を授けました。
 神の声には大胆に従っています。自分を過小評価していたら、荒野で叫ぶ声にはなれません。
 後に人々がイエス様に従っていくと「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。
 彼には優越感も劣等感もありません。
 自分を過大評価せず、過小評価もしない。
 謙遜の模範です。
 そして自分の役割が終われば潔く身を引きます。
 それは今自分に神が求めていることは何かに焦点を合わせていたからです。

神だけが自分の本当の価値を知っている

 私たちが自分を過大にも過小にも評価しないで正しく評価するにはどうすればよいでしょう。
 共通テストでも体力テストでも自分の価値は測れない。
 TOEICの点数、総資産額、SNSのフォロワー数が何だ。
 教会の中でも誰が組織に従順か、誰が一番多く献金しているか、誰が一番長く祈っているか、誰が一番多くの人を連れてきたかと比較しても仕方ない。
 この世のどんな指標を使っても、人の価値など測れないのです。

 ただ神だけが、私たちの価値を知っています。
 そして神は私たち一人一人に言います。
 「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
 「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
 そう、私たち一人一人は神に特別に造られた傑作品。
 他の人を見て、他の人と比較したり、他の人になろうとしないでください。
 人は人。あなたはあなた。
 今のあなたを贖うために、キリストの血という代価が支払われた。
 あなたの内には既に聖霊が住んでいる。あなたのその体は神の宮。
 だから神を見上げ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価してください。
 そのとき私たちは、本当の自分を見出し、自分を愛せるようになります。

キリストの体の部分

 神の憐れみを受けて神を愛する。
 神の恵みを受けて自分を愛する。
 それから周りの人を見ると、競争とは違う思いが湧いてきます。それは協力です。
 比較して自分と相手の違いが目に入ります。そこで役割分担ができます。

体の部分は互いに助け合う

 パウロはこれを体にたとえています。
 体の中には足や手、耳や目という部位があります。また筋肉、骨、内臓といった部分もあります。
 それぞれ役割は違います。
 そこで互いに比較して「『百聞は一見に如かず』目は耳より重要よ」と誇ったり、「私はいつも地面について汚くて臭い。手のようには働けない」と惨めに感じたりしません。
 それぞれに任された働きをし、一つの体として機能しています。

 同じように私たちはキリストに結ばれた一つの体です。頭であるキリストに結ばれた、互いに違う部分です。
 その違いを活かし、それぞれの任された働きをします。

 体の各部分が何をするかは、どう造られているかにもよるし、脳からの指令、そして神経による情報伝達によります。
 私たちをどうデザインしたかという創造主の御心、キリストの思い、そして聖霊の導きによって、私たちは今自分に任された働きをします。

 たとえば歩くという動作一つを考えても、体の各部分が働いていることがわかります。
 足だけが動いているわけではなく、体全体が助け合っています。目を閉じただけで、歩くことはかなり難しくなります。
 そして内臓のように目立たない部分が裏方で働き続けてくれているおかげで生きているのだということも忘れてはいけません。

聖霊の賜物が分け与えられている

 ではあなたに神が任せた働きは何ですか。あなたを体の部分にたとえるなら、どこだと思いますか。気になりますね。
 明確な答えは誰にもわかりませんが、ぜひ祈り求めてみてください。

 神は一人一人に異なった聖霊の賜物を分け与えます。
 パウロはここで7つの賜物を紹介しています。預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善です。
 預言は神の言葉を語ること。
 奉仕は人々の生活のために仕えること。
 教えは神の言葉を生活に適用し教えること。
 勧めは弱っている人を慰めること。
 施しは互いのために分かち合うこと。
 指導は教育。
 慈善は社会の中で困っている人たちを助けること。
 もちろんこれだけではありません。賛美や祈り、伝道など様々な賜物があります。

 自分の賜物を見出すために、自分がどのように造られているかを思い巡らしてみてください。自分の好きなこと、興味のあること。生まれ育った環境、遺伝的な性質、これまでの人生経験にヒントがあるかもしれません。
 また御言葉や祈りの中で、これをしてみようという思いが与えられることがあります。
 あるいは誰かから、これをやってみてと勧められることもあります。
 やったことがないから無理だと諦めないでください。自分の知らなかった賜物が開発されることもあります。

 自分の賜物は自分では気づきにくいものです。自分にとってできて当たり前だからです。
 だから他の人のアドバイスを聞き、自分の賜物を教えてもらうこともいいです。

多様な部分が全体の益のために協力する

 聖霊は私たちを心の底から新しくします。そして神がデザインした本当の自分になります。
 そこには多様性があります。
 その様子をイザヤはこのように預言しました。

ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。

イザヤ書32:15

 聖霊が降ると荒野は園となり、園は森となる。
 荒廃した死の世界に、豊かな命が広がっていく感じがします。

 しかし園と森、どちらがきれいですか。
 園は人間が手入れして整っています。
 森は人間の手の及ばない無秩序な感じです。
 人によっては、人工的な園の方がきれいだと感じるでしょう。
 しかし聖霊の働きが現れるとき、園は森になるのです。

 私たちはつい、自分の理解できる範囲、自分の制御できる範囲で組織を統率しようとします。
 そして自分と違う人々を排除し、壁を作ります。
 教会の中でも、クリスチャンはこうあるべき、教会はこうあるべきという枠を作り、人々をそこに押し込めます。
 そこから外れた人々や教会があれば「あの人たちはクリスチャン失格だ。」「あんなことは教会がやることではない。」と非難します。

 しかし聖霊の働きは人の手に負えません。
 人が作った枠を越え、壁を壊して増え広がっていきます。
 神の命に満ちあふれる森になります。
 人の目には無秩序に見えるかもしれません。
 安心してください。神は無秩序の神ではなく、平和の神です。
 ただ神を見上げ、全体の益のために共に働きます。

 だから自分とは違う人を見るとき、どちらが神にふさわしいかと競争しないで、どうしたら共に神のために協力できるかを考えてください。
 『協』という感じが示すように、十字架の下で力を合わせる。それが協力です。

キリストの心で互いに愛し合う

 パウロは賜物の活用について、「惜しまず」「熱心に」「快く」という表現を使っています。ペトロは恵みの善い管理者とも言っています。
 神から委ねられた賜物です。出し惜しみしてはいけません。
 忠実な管理者として、よく用いましょう。
 そして喜んで互いに仕えるのです。
 これはキリストの心に従うことです。
 神のために賜物を活用しようとするなら、私たちは互いに愛し合うようになります。
 一つの体として結び合わされた隣人を、自分を愛するように愛するのです。

 自分と違う人を見て、優越感や劣等感に浸ってはいけません。壁を作ってもいけない。
 神に造られた自分を見て、自分を愛してください。
 違いを認め、キリストに結ばれた者として協力してください。
 そのとき私たちは頭であるキリストの思いをこの地で成し遂げる、キリストの体になります。

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