ローマ書講解32 愛に生きるキリスト者

ローマ書講解32

愛に生きるキリスト者

ローマの信徒への手紙 12:9-13

9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

 キリストの体に流れる血

 先週は私たちがキリストの体であるという話をしました。体の各部分が異なる働きをするように、私たちにはそれぞれ聖霊の賜物が分け与えられています。
 キリストの体に多様性があっても一致できるのは、御霊の一致、同じ一つのキリストの霊によるものだと言えます。
 また、同じ血が流れているからだとも言えます。
 キリストの愛という温かい血が通っているので、キリストの体は細部まで生きています。
 私たちクリスチャンは愛によって生かされ、愛に生きます。

愛には偽りがあってはならない

キリスト教は愛の宗教?

 私が学校の教員をしていたとき、生徒から「キリスト教って愛の宗教なんでしょ」と聞かれました。世界史の教科書に書いてあったそうです。
 「そうだよ、神は愛なんだよ」と答えました。聖書は神様からのラブレターとも言われます。その愛はイエス・キリストを通して表されました。そして神は最も重要な掟として、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することを求めています。まさしくキリスト教は愛の宗教です。
 では、私の答えに生徒は納得したでしょうか。
 神は愛だと言われて、神の愛を感じられるでしょうか。
 むしろ神の愛を疑いたくなるような現実がこの世界にあります。
 愛の宗教を信じているはずのクリスチャンの行いを見て、愛を感じられるでしょうか。
 世界史の教科書を読めば十字軍戦争や三十年戦争など、キリスト教がらみの戦争の歴史を学びます。
 何より、生徒にとって最も身近なクリスチャンである私の姿を見て、「キリスト教が愛の宗教なんてウソじゃん」と思われたかもしれません。

偽りの愛

 「愛には偽りがあってはなりません。」
 パウロのこの言葉は私の胸に深く刺さります。見せかけの愛、口先だけの愛ではいけないのです。それは偽りの愛、偽善です。
 イエス・キリストは律法学者やファリサイ派の人々に対して、「あなたたち偽善者は不幸だ」と言いました。
 彼らは律法を教えるが、自分ではそれを実行しない。人には背負いきれない重荷を担わせるが、それを動かすために指一本貸そうとしない。彼らのしていることはただの見せかけ、パフォーマンスだと。
 行いがなければ、その愛は偽物です。
 愛の実践がなければ、その人の信仰は死んでいます。

偽りのない愛

 そう言うイエス・キリスト自身は愛に生きました。
 重い皮膚病の人に、わざわざ手を触れて癒されました。
 ラザロの墓の前で涙を流しました。
 失敗したペトロを愛によって立ち直らせました。
 それだけではありません。イエス様の生涯そのものが、神は愛であることの証明です。

 神はどこか遠くから「わたしは愛の神だよ」と言っているのではありません。
 独り子をお与えになるほど、この世を愛しています。
 そして独り子イエス・キリストは天の栄光を捨て、人となって私たちの間に住みました。
 十字架の死は神への従順な愛であり、私たちへの神の無条件の愛です。

キリストの体の中を流れる血

 私たちはキリストの偽りのない愛によって救われました。
 十字架で流されたキリストの血は私たちを贖い、神のものとしました。
 キリストの血は今もキリストの体の中を行き巡っています。キリストの愛という温かい血です。
 だから私たちもキリストに倣い、偽りのない愛を実践するのです。

互いに愛し合う

 ではどのように愛を実践するのか。それが今日の本文の残りの部分です。
 まず「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあります。

悪を憎み善から離れない

 子どもが車をよく見ないで道路を渡ろうとしています。子を愛する親ならどうしますか。
 「私のかわいい子、あなたの好きなところに行きなさい。あなたの邪魔をするものは私が排除するわ。」と子どもを行かせますか。
 それとも「危ない!車をよく見て!」と子どもを止めますか。
 愛というのは、何でもいいと包み込むことではありません。悪いことは悪いと言ってあげなければなりません。

 ただし憎むべきは悪です。
 誰かが間違ったことをしてしまっても、その行いを憎んでも、その人自身を憎んではいけません。
 その人のためにもイエス・キリストは十字架で死なれました。
 悪を憎んで善から離れず、人が正しい道に立ち帰れるように助けます。

兄弟愛

 私たちクリスチャンは皆、キリストの血によって神のものとされました。神の家族、互いに兄弟姉妹です。
 神は兄弟姉妹が仲良く暮らすことを願っています。箴言でも、兄弟ゲンカを神は心から憎むと言われています。
 いいですか、カインとアベルのような過ちを繰り返してはいけません。
 私たちは共にキリストの血による兄弟姉妹として、キリストの愛をいただいて互いに愛し合うのです。

34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

ヨハネによる福音書13:34-35

 キリストの愛を受けて互いに愛し合う。愛に生きることこそクリスチャンのアイデンティティです。

尊敬の目で見る

 私たちには違いがあります。
 その違いを見て妬んだり壁を作ったりすると、カインの過ちを繰り返してしまいます。
 私たちの違いは、互いに助け合うためにあります。
 違いを喜びましょう。違いを欠点として見るのではなく、神の作品として見るのです。
 一人一人は、神が高価で尊いと言われる宝物。
 尊敬の目で見れば、相手の優れたところが見えてきます。

 私が教会に行き始めたばかりの時、周りはほとんど韓国人でしたが、一人の日本人女性がいました。
 彼女は知的な面や精神的な面で弱さがありました。
 私は彼女がいたから、安心して教会に通えました。
 何かができるから、何かを持っているから素晴らしいということもあります。
 しかしただそこにいる、存在そのものが尊いです。

 隣の人を尊敬の目で見てください。
 そして「あなたがいてくれて、ありがとう」と伝えてください。

愛に生きる信仰の姿勢

 次にパウロは「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」と言います。
 私たちの信仰の姿勢についてです。

愛の実践を怠らず励む

 愛は感情ではなく、意志です。愛そうと決意するのです。
 そして決意を行動に移します。
 心がついてこないこともあります。本心では愛そうと思えない相手がいます。敵のような存在がいる。
 それでもイエス・キリストは敵を愛せと命じる。
 そこで体を動かし、愛を表現してみる。
 手足を動かして相手に近づき、手を差し伸べる。
 顔の筋肉を動かし笑顔を作る。
 口を動かし、こんにちはと言ってみる。
 そうやって行動してみると、心が後からついてくることがあります。
 だから逃げようとする心に流されず、愛の実践を怠らず励んでください。

霊に燃える

 しかし人間の力には限界があります。本心を覆い隠して無理に愛そうとすれば、いつか心が壊れます。
 そういう時は自分を守るために逃げてください。自分の心を大事にしてください。
 だから愛に生きるために、神の力が必要です。
 聖霊に満たされ、霊に燃えて、その愛に駆り立てられるのです。

誰に対しても主に仕えるように愛する

 そして主に仕える。
 主に仕えるとはどういうことですか。日曜日に礼拝をささげることですか。
 それだけではありません。ここでは愛の実践について語られています。
 マタイによる福音書でイエス様が語られた羊とヤギを分ける話を思い出してください。
 羊の側に分けられた人たちに王はこう言います。

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

マタイによる福音書25:40

 ここで王は主なる神様を表しています。
 何が主に仕えることなのか。
 それは飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅人に部屋を貸し、裸の人に服を着せ、病気の人を見舞い、過ちを犯した人を受け入れることです。
 目の前にいる人がどのような人であれ、主に対して仕えるように愛するのです。

主を見上げ喜び耐え祈る

 愛の実践というのは、つらいものです。
 たとえ家族であっても、愛することが難しいときはあります。永遠の愛を誓い合った夫婦であっても、血のつながった親子であってもです。
 愛の労苦が空しく感じられることもあります。
 もう温かい愛を感じられず、枯れ木のように冷え切ってします。
 しかしその枯れ木に春が来て満開の桜が咲くように、偽りのない愛を注ぎ続けるなら、時が来て実を結びます。
 だから目の前の人の反応ばかり見ないでください。
 私はこんなに愛しているのになぜ受け取ってくれないのかと思っているうちは、まだ利己的な偽りの愛です。愛は自分の利益を求めません。
 主を見上げてください。
 神の約束に目を留めるなら、希望をもって喜べます。
 苦難を耐え忍べます。
 神の愛を受けて愛すべき人を愛せるように、祈り続けてください。

愛の実践

 最後に「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」と言われています。
 これは先ほどの羊とヤギのたとえに通じる、愛の実践の話です。

貧しい聖徒を助ける

 パウロはローマに向かう前にこの手紙を書いています。
 ローマに行く前に、エルサレムに行く用事があります。それはマケドニア州とアカイア州の教会から託された献金を届けることです。
 苦難の中にあるエルサレム教会の聖徒たちを助けようとしています。
 パウロ自身、偽りのない愛の模範を示しています。

貧しさを自分のものとして助ける

 誰よりもイエス・キリストがこの愛を実践しました。
 イエス・キリストは何もない赤ちゃんとして生まれ、飼葉桶に寝かされました。
 ガリラヤのナザレという田舎で大工の息子として育ちます。
 父ヨセフは早く亡くなったようです。片親家庭の苦労、若くして家族を養う大変さを経験しています。
 そして何の罪もないのに、愛する者に裏切られ嘲られ鞭打たれる。
 だから私たちの痛み、悩み、苦しみをイエス・キリストは自分のものとして共に担い、助けてくださいます。
 私たちは誰かと同じ苦しみを経験することはできません。
 それでも助けを必要とする人がいるなら愛の手を差し伸べる者でありたいです。

旅人をもてなす

ギュスターヴ・ドレ「アブラハムと3人の天使」

 旅人をもてなすことはユダヤ人が大事にしてきたことです。
 創世記でアブラハムは3人の旅人をもてなしました。
 彼らは別にアブラハムを尋ねてきたわけではありません。ただアブラハムのテントの前にいただけです。
 それでもアブラハムは走り出て地にひれ伏し、客として迎えます。そして子牛をほふって最上級の食事を用意します。
 するとこの3人は主と天使だったと分かり、イサクの誕生が告げられます。

 アブラハムは旅人を無視してもよかったのです。暑い真昼でしたから、少し休んで水でも飲ませてあげたらよかったです。
 しかしアブラハムは自ら進み出て、最上級のもてなしをしました。

愛に生きるため安全なところから出て会いに行く

 愛は犠牲が伴います。
 自分を守りながら口先だけで愛を語るなら、それは偽りの愛です。
 アブラハムは天幕から出て愛を示し、子牛をささげました。
 神は天から降り、独り子をささげました。この世で旅人としてさまよう私たちを生かすために。
 私たちも自分の安全なところから踏み出し、愛すべき人に会いに行きましょう。
 自らをささげ、愛に生きましょう。
 あなたが愛すべき隣人は誰ですか。

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