ローマ書講解34
この町の平和のために
ローマの信徒への手紙 13:1-7
1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
責任ある社会の一員になる
今日は浜松市のはたちの集いが行われています。
18歳で成人になり選挙に参加できるようになります。
それでもやはり二十歳というのが一つの節目で、責任ある大人と見なされるようになるのではないでしょうか。
お酒、タバコという自分や周りの人に害を与える危険性のあるものを自分で買って楽しむことができます。
何か問題を起こした時には少年法で保護されず、大人として刑罰を受けます。
このように社会の一員としての権利と義務が認められるのが二十歳です。
神が立てた権威に従う
今日からローマ書の講解に戻ります。
ローマ書12章から信仰の実践の話をしてきました。どのように神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するのかと。
それを教会の中だけでなく、社会の中で実践するわけです。私たちは聖なる生けるいけにえ。この世の中で神のものとして生きます。
そこで社会の中でどう生きるかという問題が出てきます。
皇帝の命令によって教会に危機が迫る
ローマのクリスチャンにとって、これは切実な問題でした。
ローマのクリスチャンたちに対してユダヤ人が反対運動を起こしたことがありました。これを鎮めるためにローマ皇帝クラウディウスはユダヤ人追放令を出しました。
そのためユダヤ人クリスチャンもローマから追放され、プリスキラ・アキラ夫妻もコリントに逃げ出しました。
これは当時のローマ教会にとって大きな痛手だったでしょう。
では教会を守るために、皇帝の命令に背いてローマに留まり続けたらよかったのでしょうか。
神が人に権威を委ねた
パウロは言います。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」
ローマ皇帝にも従いなさい。クリスチャンであってもなくても。
なぜなら「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
権威というのは、人に何かをさせる力です。
たとえば百人隊長は自分の部隊の隊員に「行け」「来い」「これをしろ」と命令を下し、その通りにさせることができます。
究極的な権威は神にあります。
神が一言命じれば必ずその通りになります。「光あれ」と言ったら光が生じます。
神の子イエス・キリストも「黙れ静まれ」と嵐に命令し、病を癒し、悪霊を追い出す権威を持っていました。
神こそ権威の源です。
神はこの権威を人に分け与えます。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」そしてあらゆる生き物を支配せよと、この地上の管理者としての権威を委ねました。
そして人が増えていくと社会が生まれます。
親子の間でも、親は子どもをよく育てるために権威を持っています。
部族のような集団を治めるために指導者や教師という権威も必要です。
また祭司や預言者のような宗教的な権威もあります。
そして王のような大きな力を持った権威も立てられていきました。
これらの権威は皆、神から委ねられたものです。
イスラエルでは王、預言者、祭司が神によって立てられた権威であることを示すために、油が注がれました。
神はバビロンのネブカドネザル大王も「わたしの僕」と呼びます。
異邦の王も、ローマ皇帝さえも、主なる神が立てた権威なのです。
権威者を敬い従う
もしこの世の権威に逆らうなら、その権威をお立てになった神に背くことにもなります。
権威に逆らうなら罰を受けます。
神はこの地上を治めるために、人間の社会がより良くなるために、人に権威を委ねたのです。
十戒でも「父母を敬え」と命じられています。
イエス・キリストも両親に仕えて暮らしましたね。
宗教指導者たちの言うことをすべて行い守りなさいとも命じました。
また大祭司やローマ総督ピラトの裁判を受けました。
裁き主であるキリストご自身が、この世の権威の下で裁きを受けました。
あなたは警察官を見たときにどう思いますか。
「ヤバイ、逃げよう」と思うのは後ろめたいことがあるからでしょう。
何もやましいことがなければ、町の平和を守ってくれているんだと安心できます。
親はあなたを守り養い育ててくれる。
先生やコーチはあなたに大切なことを教え導いてくれる。
職場のボスはあなたの能力を生かし仕事の成果を上げさせてくれる。
だからあなたの上に立つ権威を敬い、従ってください。
それは、あなたのために権威者を与えてくださった神を畏れ敬うことにもなります。
責任を果たす
人間社会をより良くするために協力する
この世の権威は、人間の社会をより良くするために神に仕えます。
私たちも神の民として神に仕えるのなら、なおさらこの世の権威に従うべきです。
神の民として神に従うと同時に、社会の一員としての責任を果たしていくのです。
法律はちゃんと守りましょう。
選挙にも参加しましょう。
日本国民の三大義務は勤労、納税、教育。
教育の義務は、教育を受けさせる義務です。
子どもたち、若者たちが教育を受けて育つように助けましょう。
勤労も義務ですよ。社会をより良くするために働いてください。
誰かの幸せのために働くんです。泥棒や詐欺、闇バイトなんかは仕事になりません。
自分の手で働いて正当な収入を得、困っている人々に分け与えるのです。
しかし自分の手で働くことが難しい人もいますね。高齢者、子ども、病気の人など。そういう人たちを支えるために税金が使われます。
自分の財産が国に取られると思ったら悔しいです。
あなたのささげたものが誰かを生かし、社会を良くしているのだとすれば、喜んでささげられるのではないでしょうか。
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい
納税の問題はこの当時の人たちにも大きな問題でした。
ローマの信徒たちは、ささげた税金が貴族たちの退廃的な生活のために無駄遣いされるのを見てきました。異教の神殿のためにも使われます。
ユダヤ人にとって、皇帝の肖像が書かれたコインは異教徒からの支配を思い起こさせるものでした。
皇帝に税を納めるのは律法に適っているかと問われたイエス様はこう答えました。
20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
マタイによる福音書22:20-21
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
神の民として神に従うと同時に、社会の一員としての責任を果たしていきましょう。
権威者を見張り祈る
無批判に従ってはいけない
ここまで上に立つ権威に従う話をしてきましたが、無批判に従うことはできません。
牧師も神に立てられた権威です。講壇から神の言葉を宣言します。
では何でもかんでも牧師が言うことに従うべきでしょうか。
いいえ、牧師がちゃんと聖書に従っているか批判してください。
神を愛し人を愛することに背く命令には抵抗する
この世の権威は、社会をより良くするために神から委ねられたものです。
ですから権威者が神に背いたり社会に混乱をもたらしたりするなら、その権威に従う必要はありません。
神を愛すること、人を愛することに背くような命令には抵抗すべきなのです。
サンヘドリン議会はペトロとヨハネに、イエスの名によって語るなと命じました。
しかし二人は「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」と拒みます。
私たちもこの世の権威が神に従っているかどうか批判する必要があります。
親や先生の言うことは大事。会社の命令も大事。
しかしそれは神を第一にすることに反していないか。
ささげた税金は社会をより良くするために使われているか。無駄遣いや暴力のために使われていないか。
防衛費が大幅に増えているが、貧困や災害で苦しむ国民への支援は十分だろうか。
国会で審議されている法案は、神を愛すること、人を愛することに反していないか。
今、国会議員として国会の場に入った牧師さんがいます。この国をより良くするために、大切な働きです。
その町のために主に祈りなさい
バビロンに捕囚になった民に、神は言います。
わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。
エレミヤ書29:7
この町の平和のために祈れ。たとえそこがバビロンやローマのような異教の都でも。
その町を治める指導者のためにも祈らされます。
私たちも神に送られたこの町の平和のために祈りましょう。
この町の政治、経済、文化、教育、あらゆる分野で影響力ある指導者たちが神に従うように。
そして神を愛し、人を愛する社会となり、神の国がこの地に来るように。