ローマ書講解35 今こそ愛に生きる時

ローマ書講解35

今こそ愛に生きる時

ローマの信徒への手紙 13:8-14

8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

ボランティア

崩壊した高速道路から落下しそうになった観光バス(西宮市)

 1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災から30年が経ちました。多くの建物が壊れ、6000人以上が亡くなりました。いたるところで火事が発生し燃える神戸の街、横倒しになった阪神高速などのニュース映像は衝撃でした。
 この震災をきっかけに建物の耐震補強が進められ、防災意識が高まりました。
 また全国から130万人以上の市民がボランティアとして駆けつけました。
 その後も全国各地の災害に市民のボランティアが活躍しています。
 ボランティアは誰かに雇われたり強制されたりせず、自発的に活動する人たちです。
 愛の実践の一つのかたちだと言えます。

愛さずにはいられない

社会での義務を果たす

 先週は神の民として神に従うと同時に、この社会の一員として責任を果たすという話をしました。
 神が私たちの上に立てた権威に従い、納税などの義務を果たす。
 もし義務を果たさないなら、督促状が送られてきます。

 義務というのは返さなければならない借金に似ています。
 だからパウロは、社会での義務を果たし、借りを作ってはならないと言います。

互いに愛し合うという義務

 では社会の中で義務を果たせばそれでいいのでしょうか。

 どこかで災害が起きた。誰かが貧しく飢えている。
 私はその人たちの家族ではない。レスキュー隊や医療福祉の関係者でもない。
 私はその人たちに対して何の義務もありません。
 だから何もしません。それでいいのでしょうか。

 まあ、問題はありません。
 専門職の人に任せた方がいいところもあります。
 しかし無関心でいてはいけません。

 私たちがこの社会で義務を果たすのは、この社会をより良くしていくためです。
 その目指すべきところは神の国。
 神の御心を行うために、神の民としてこの世の中で生きます。

 神が私たちに求めていることがあります。
 それは律法というかたちで示されています。
 律法は全部で613もあります。
 その中に道徳律法の中心として十戒があります。
 それを要約すると「神を愛し、人を愛する」。
 だから社会での義務を果たしたとしても「互いに愛し合う」という神の民としての義務は残ります。

義務感ではなくキリストの愛に駆り立てられて

 「そうだ、愛することはクリスチャンの義務なんだ。仕方ない、家族を愛そう。」
 このような人は家族を愛していますか?
 義務感で愛の行動を取っているだけです。愛してはいません。
 このような人は、相手が自分の愛に応えてくれないと怒ります。「こちらは義務を果たしているのに、なぜお前は俺を愛する義務を果たさないのだ」と。
 愛は自由な関係の中にあります。誰かに強制されるなら愛ではなくなります。

 イエス・キリストは私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じました。また敵をも愛しなさいと命じます。
 しかし命令だから仕方なく愛するのではありません。
 キリストが私たちを愛し、愛の模範を示してくださったから、私たちも愛します。

 かつて私たちは罪人であり神の敵であったのです。
 それにもかかわらずキリストは十字架で死なれた。
 ここに神の愛が示されています。
 義務感からではなく、ただ無条件の愛で愛してくださいました。
 このキリストの愛に駆り立てられて、私たちは愛に生きる者に変えられます。
 自分の義務は果たしたからあとは知らないなどと無関心ではいられなくなります。
 関係ない他人だけれども放っておけない。人間的には愛せない敵のような存在だけれど、愛そうと決意できます。

愛のある社会を作る

 十戒は対人関係について、殺すこと、姦淫すること、盗むこと、偽証することなどを禁じます。
 「私は誰も殺していないし、不適切な男女関係は持っていないし、誰のものも盗んでいない。これで神への義務も果たした。」義務を果たして満足する人はこのような人です。
 神はそこから一歩進んで、人の命を守ること、結婚関係を守ること、生活を向上させること、真実を守ることを求めています。
 そのような愛のある社会になることを願っているのです。
 誰かが貧しく飢え渇いている。
 社会に居場所がなく寂しくさまよっている。
 私たちは彼らに対して何の義務もないかもしれません。
 それでもキリストの愛に駆り立てられ、愛の手を差し伸べる者でありたいです。
 直接的に関わることが難しくても、そのような人を援助している団体に寄付するなどして愛を実践できます。

救いは近い

 パウロはこの世の状況を見て一つの確信を話します。それは「救いは近い」ということです。

既に救われているが完成していない

 イエス・キリストの十字架の死によって救いのわざは成し遂げられました。
 そして死の力を打ち破り復活された主イエスを信じたとき、私たちはキリストにつながり救われました。
 洗礼によって古い自分はキリストと共に死に、今は復活の主と共に新しい命に生かされています。

 私たちはもう救われていますが、工事中です。
 地上で生かされている間、栄光から栄光へとキリストの似姿に日々造り変えられていきます。

 この世界も悪魔の王国は倒され、神の国が建て上げられていきます。
 神の国は既に来ていますが、いまだ完成していません。
 復活し天に上げられたキリストに代わって、教会がキリストの体として神の国を広げていきます。

ミケランジェロ「最後の審判」

 いつの日かキリストは帰って来て、私たちを迎えに来ます。
 ついに御子をありのままに見て、私たちは御子に似た者になる。
 新しい天と新しい地が到来し、神の国が完成します。
 そこでは神の栄光が都を照らし、夕べになっても光があります。
 命の川が流れ、すべてが生きます。
 救いの完成です。
 その日が近いとパウロは言っています。
 救いの完成、キリストの再臨の日は近づいています。

世の終わりのような状況

 イエス様がいつ帰って来るのか。
 正確にはわかりません。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。」しかし用意をしておきなさいとイエス様は言いました。

 世の終わりが近づくと、戦争や地震や飢饉がある。また偽キリストが現れる。そして不法がはびこり、多くの人の愛が冷えると予告されています。
 今はどうでしょうか。
 まさに世の終わりの状況ではないでしょうか。

 まあ今に始まったことではなく、昔からそうだったとも言えます。
 パウロが「救いは近い」と言ってからもう2000年になる。だからまだ来ないだろう。まだ福音が伝えられていない民族がいるし。
 などと考えていると、思いがけないときに来るかもしれません。
 愚かなおとめたちのように油断してはいけません。

眠りから覚めるべき時が来ている

 十人のおとめのたとえで花婿は真夜中に帰ってきましたね。世の終わりの状況を暗い夜にたとえています。
 そしてパウロは世の光であるキリストを太陽にたとえています。
 夜が更け、暗闇も深まる。
 そしてキリストが帰って来る。

 そう、世界に不法がはびこり愛が冷える時こそ、キリストの再臨に備える時です。
 眠りから覚めるべき時です。
 イザヤもこのように預言しています。

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。

イザヤ書60:1-2

闇の行いを脱ぎ捨てる

 今この終わりの時を生きる者として、どのように生きたらいいのでしょうか。
 起きて、光を放つ。
 この光は神の栄光です。
 パウロも「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」と勧めています。
 滅びへと向かっていた古い生き方を捨て、神の作品として生きるのです。
 具体的には「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」なさいと脱ぎ捨てるべき闇の行いが語られています。
 酒に酔いしれるのではなく、むしろ聖霊に満たされるべきです。
 私たちの体は神の霊が宿る神殿なのですから、この体をみだらなことで汚してはいけません。
 そして争いとねたみ。
 ねたみは行いではありませんね。
 私たちが脱ぎ捨てるべきは表面的な行いだけではなく、汚れた心も含みます。互いに相手を尊敬し愛するのです。

キリストに結ばれ新しくされる

 しかし自分で自分を変えることはできません。行いを変えることもできなければ、心を変えることなどできません。
 そこで思い出してください。私たちは聖なる生けるいけにえ。
 古い私はもう死にました。
 今はキリストに結ばれ、新しく創造されたものになっています。
 キリストを身にまとい、心を新たにして自分を変えていただき、何が神に喜ばれ、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになります。

取って読め

 教父アウグスティヌスは若いとき、肉欲に支配され荒れ狂い、欲望のままに生きてきました。
 ある日、近所の子どもたちが外で遊ぶ声が聞こえてきました。
 「Tolle, lege(取って読め)」と聞こえます。
 なぜかその声が気になったアウグスティヌスは、何か本を手に取って読んでみようと思います。
 たまたま近くにローマ書がありました。
 開いたところは13章。
 その中の13節14節が目に飛び込んできました。

「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」

 この言葉がアウグスティヌスを回心させ、後世に大きな影響を与える偉大な教父として造り変えます。

 聖書の言葉は今も私たちを造り変えます。
 取って読みなさい。
 滅びに向かう古い人を脱ぎ捨て、キリストを身にまといなさい。
 キリストの愛に駆り立てられ、愛を実践するのです。
 愛が冷えるこの世に流され、義務を果たして満足する者になってはいけません。
 暗闇が深まる今こそ、愛に生きる時です。

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