ローマ書講解36 私たちは神のもの

ローマ書講解36

私たちは神のもの

ローマの信徒への手紙 14:1-12

1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

フクジン漬け

 皆様にお伝えしなければいけないことがあります。

 私はカレーライスが好きです。
 カレーにフクジン漬けを合わせると、味の変化を楽しみつつより美味しく食べられます。
 このフクジン漬けのことが気になって、調べてみました。

 フクジン漬けには一般的に、大根、なす、レンコン、しょうが、なたまめ、しそ、ごまという7つの材料が入っているそうです。
 それで七福神にちなんで、福神漬けという名前を付けたのだと。

 七福神というのは、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天という7つの神々です。
 ヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な宗教がミックスされています。
 つまり、偶像の神々です。

 私はキリスト教の牧師でありながら、偶像にちなんだ福神漬けを食べてきました。
 聖書には「偶像にささげられた肉を食べてはならない」とあります。
 偶像にちなんだ漬物を食べることも同じではないでしょうか。

 それでも私は今後も福神漬けを食べます。
 「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」と聖書が言うので。

 この話を聞いて福神漬けを食べるかどうかは、各自が自分の心の確信に基づいて決めてください。

弱い信仰でも神に受け入れられている

偶像にささげられた肉で自分を汚さないように

 こういった問題がローマ教会でもありました。
 当時のローマでは異教の祭壇に動物がいけにえとしてささげられ、その肉の一部が他の肉と一緒に市場で売られていました。
 だから知らないうちに、偶像にささげられた肉を食べていたかもしれません。
 そうならないように、肉を避けて野菜だけを食べる人たちがいました。
 ダニエルもバビロンで10日間、野菜と水だけで生活しましたね。神の前で自分を汚さないようにという、立派な信仰です。

口から入るものが人を汚すのではない

 しかし口に入れるもので人が汚れるのですか。
 イエス様は、口から入ったものはお腹を通って外に出ると言いました。
 すべては神が造った良いものだと、感謝して受け取ればいいです。
 そもそも偶像の神などいるのですか。神は唯一です。偶像にささげられたって他の肉と何も変わりません。
 …という信仰の人もいます。
 食べる食べないという行いで神の前に受け入れられるわけではないと信じているという点で、このような人の信仰は強いです。
 逆に、肉を避けて野菜ばかりを食べる人は信仰の弱い人だと言えます。

その信仰もイエス様が受け入れた

 パウロは信仰の弱さを悪いと言っているわけではありません。弱くていいのです。
 そのような人も神に受け入れられているからです。
 あるローマの百人隊長はイエス様に「ひと言おっしゃってください。そうすれば癒されます。」と願いました。イエス様はこれを聞いて感心し「これほどの信仰を見たことがない」と称賛しました。
 その後、ユダヤ人の会堂長ヤイロは娘のために「来て手を置いてください。そうすれば、生き返るでしょう」と願いました。
 百人隊長の信仰に比べると、ヤイロの信仰は弱いです。
 しかしイエス様はヤイロの家に向かいます。
 途中で出血が止まらない女性がイエス様の服のすそに触れます。そうすれば癒されると思ったのです。
 彼女の信仰は偶像崇拝に似た危ういものです。
 それでもイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。
 イエス様が受け入れている以上、他人の信仰について弱いからダメだとか間違っているなどとは言えません。

特定の日を尊ぶ人もすべての日を同じと考える人もいる

 ローマ書を読み進めてきて、社会の中で愛に生きるという話をしてきました。
 社会の中には様々な人がいます。考え方もそれぞれ違います。信仰の表現の仕方も色々です。

 クリスマス前に浜松駅の前でチラシを配りました。そこでも色々な人を目にします。
 ある人がチラシを受け取って、「私も教会行ってるんですよ。」と言ってくれました。
 やっぱり同じ信仰の人に出会うと励まされますね。
 その人は続けてこう言いました。
 「でも私、プロテスタントなのでクリスマスは祝いません」
 確かに聖書のどこにもクリスマスを祝いなさいとは言われてませんよ。まして12月25日がイエス様の誕生日なんてどこにも根拠はないし、異教の太陽神の祭りに由来する可能性もありますからね。
 でも私、プロテスタントの牧師なんですけどクリスマス祝いますよ。

 ある人は特定の日を大事にします。12月25日や元日(今度の旧正月は1月29日)が特別な日だと思う。
 ユダヤ人クリスチャンの中にも、過越祭や仮庵祭、新月祭、土曜日の安息日を大事にする人たちがいました。
 でも他の日と何が違うの。
 いつも朝は布団から出ようとしないのに、なんで元旦だけ早起きして初日の出なんか見に行くの。
 そういう気持ちもありますが、まあ季節の楽しみもいいじゃないですか。
 ただ日の出を拝んじゃだめですよ。
 新しい日、新しい季節の区切りを迎えさせてくださった神様に感謝してください。

他の人の信仰を裁かない

 クリスマスや正月を祝う人は、神様を愛するからこそ祝います。
 どの日も同じだと考える人も、神様を愛するからこそ毎日が神の造られた新しい一日。この日は主が設けられた日。この日を楽しみ、喜ぼう。
 またどんなものでも食べる人は、神がそれを与えてくださったと感謝して食べます。
 食べない人も神を愛しており、養ってくださる神に感謝しています。
 どちらも神を愛し、神への感謝の表現です。
 だから自分と違う表現の仕方を見て、軽蔑したり裁いたりしてはいけません。

 他の人の信仰を裁くのは高慢です。
 私たちは神に受け入れられている。神のものとされています。
 それなのに人が「お前の信仰は間違いだ。お前は神に受け入れられない」などと言えますか。
 それは神を否定することになります。

召し使いたちの多様な表現で彩られる神の家

 ある人は信仰上の理由で食べないものや飲まないものがあります。
 日曜日の礼拝を死守するために学校行事や仕事を休む人もいます。
 神に遣わされた場所で人々に仕えるために、日曜日も働く人たちがいます。
 礼拝は静かに厳かであるべきだと考える人もいるし、にぎやかでよいと考える人もいます。
 宣教のために教会でこそゲームをするべきだという過激な思想を持つ人もいます。
 私たちはそれぞれの仕方で神への愛を表現します。
 神が受け入れてくださっているのですから、その違いを受け入れてください。
 神のものとされた私たちが多様な仕方で神への愛を表現することで、神の家はより華やかに彩られていきます。

奴隷状態から買い取ってくださった方に賛美をささげる

キリストの血で神に買い取られた

 私たちは神のもの。神に受け入れられているということについてもう少し考えてみます。
 私たちはどうして神に受け入れられたのか。
 私たちが神に受け入れられるように愛を表現したからですか。
 いいえ、逆です。私たちが神を愛したのではなく神が私たちを愛してくださいました。
 私たちに神を愛する力などなく、むしろ神に背いてきました。
 神の家に仕える召し使いではなく、罪の奴隷でした。
 そんな私たちのためにイエス・キリストは十字架で死なれました。
 その血によって私たちの身代金が支払われ、神のものとされたのです。

自分のために生きる空しい人生

 人は神に造られました。その心は神の無限の愛で満たされるはずでした。
 しかし人は神に背き、罪を犯しました。
 神の愛は失われ、どこまでも深い空白が生じています。
 それで人は自分の心の飢え渇きを満たそうと、様々なものを求めます。
 それはこの世の富や快楽、人々からの称賛、また宗教的な行い。
 この世が提供するもので心を満たそうとしても、満足することはありません。神の愛でしか満たされないのに偽りの愛で満たそうとすれば、心は傷つき、飢え渇きが深まります。そうしてますます自分の心を満たすために生きます。
 ある人は飢え渇きに飲み込まれ、命を絶ちます。
 この世の称賛を得るためにわが身を死に引き渡す人もいます。しかし愛がないなら、その死も空しいものです。

生きるも死ぬも主のため

 そのような空しい人生をさまよっていた私たちのために、イエス・キリストは十字架で死なれ、復活しました。
 その愛を受け取り、私たちの心は満たされました。
 自分のために生きてきた古い人は、キリストと共に死にました。もう自分のために死ぬこともありません。
 復活の主と共に生きる私たちは、神の愛で心満たされ、神を愛し人を愛する人生に変えられます。
 人生の方向性が完全に逆転しました。
 生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
 自分のために生きようと思えば、自分の命ほど大切なものはない。
 しかし神を愛し人を愛するためなら、この命すら惜しくない。
 誰かのためにこの身をささげるという、自分の命より大切なものを見出します。

神の裁きの座の前に立つ

 他の兄弟姉妹も同様に神のものとされています。
 キリストの血で買い取られた尊い存在です。
 それぞれが他に代えられない傑作品。ユニークな輝きで神への愛を表現しています。

 終わりの時、イエス様が私たちを迎えに来ます。そこで最後の審判、裁きの座の前に立たされます。
 そこで皆さんは他の人に指さして言えますか。
 「神様見てください、あいつ変なんです。牧師のくせに福神漬け食べてクリスマスを祝うんですよ。それに教会でニンテンドースイッチを…。」

 カンカン、静粛に!
 裁くのは神であって、私たちではありません。
 私たちは神の前で、自分のことについて神に申し述べるのことになります。

自分の表現で神を賛美する

 主なる神様はこう告げています。

22 地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。

イザヤ書45:22-24

 私たちは神の前で膝をかがめ、神を賛美します。
 罪の奴隷として自己中心に生きてきた自分を救い出し、神のものとして新しい命に生かしてくださったお方に感謝をささげます。
 その表現の仕方はどこか弱々しく、独特だったかもしれません。
 それでも神はユニークな作品として私たちの愛を受け取ってくださいます。

 その日、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白し父なる神を賛美します。
 様々な表現で彩られた神の家に、重厚なハーモニーが奏でられます。
 神のものとされた私たちは皆、それぞれが神の美しい作品です。

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