ローマ書講解37
信仰者の自由と配慮
ローマの信徒への手紙 14:12-23
13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
私たちの自由が人の信仰をつまずかせてはならない
先週は、私たちはキリストの血によって買い取られた神のものであるという話をしました。それぞれの信仰に応じて神への愛を表現しています。だから互いに裁き合うのはやめましょう、と。
表現の自由
日本では表現の自由が保障されていますから、普段から様々な表現を見たり聞いたりします。自分の思いや社会への不満を言葉、文字、絵、音楽などで表現できます。
それは時に他の人の心を動かし、生きる希望を与えたり、社会を変革する運動を起こしたりします。
しかし自由な表現は、人から生きる希望を奪い、社会に分断や対立をもたらすこともあります。
シリア難民の少女の写真をもとに、日本人のマンガ家が1枚のイラストを描きました。
そこにはまるで難民の方が何の苦労もなくぜいたくに暮らしているかのような文章が書かれていました。
難民問題をよく知らない人がこのイラストを見たら、誤った認識を持ってしまうかもしれません。
またSNSなどで誹謗中傷を受け、自ら命を絶ってしまう人もいます。
自由だから何をしてもいいということはありません。
言葉で人を殺すことも自由ですか。
ある人は神を愛するから肉を食べなかったり酒を飲まなかったりする。
またある人は神を愛するから肉を食べ酒を飲む。
どちらも神への愛の表現です。
だから自分とは違う表現だからといって他人の信仰を裁いてはいけません。
信仰における表現の自由です。
では何をしてもいいのでしょうか。
いいえ、これも制限があるべきだとパウロは言います。
神への愛を表現するなら、それによって兄弟姉妹の信仰がつまずくことのないようにすると決心しなさい。
神のものとされた人を滅ぼす自由などない
パウロの信仰によれば、それ自体で汚れたものは何もありません。
イエス様も、口から入るものが人を汚すのではないと教えられた。
しかし律法に基づいて、汚れた食べ物があると信じる人もいました。
キリストにあってもう清くされているのだけれど、その人にとってはまだ汚れたものです。
ではそのような人が、パウロが肉を食べるのを見たらどう思うでしょう。
「え、パウロ先生あの肉食べたよ。偶像にささげられた肉かもしれないのに…。」
するとこの人は信仰につまずき、教会の交わりから距離を置くかもしれない。
そして神様から離れていこうとするかもしれません。
神のものとされた私たちは、キリストのために生き、キリストのために死ぬのでしょう。
肉を食べるのも神への愛の表現であったはずです。
それなのに肉を食べることで神から離れる人がいるなら、それを神が喜ぶはずがありません。もはや愛に従って歩んでいません。
確かに私たちは自分の信仰に応じて神への愛を表現する自由があります。
どんな食べ物も神から与えられた良いものだと感謝して食べる自由があります。
しかしその自由によって誰かが神から離れることがあってはいけません。
その人のためにもキリストは十字架で死なれたのです。
キリストの血によって神のものとされた人を滅ぼす自由など、私たちにはありません。
目の前の人の心を無視して見えない神は愛せない
今この日本の中で、この肉は偶像にささげられたかもしれないなどと気にする人はいないでしょう。だから肉を食べるのは自由です。
しかし他にも、自分はよいと思っていることで他の人の信仰をつまずかせてしまうことがあります。
「聖書は酒を飲むこと自体を禁止していない。イエス様だって大酒飲みの大食漢だったじゃないか。お酒は神様がくださった祝福だ!」と喜んでお酒を飲む人がいます。こういうタイプの牧師なら、酒飲みのオヤジたちと仲良くなって彼らに福音を伝えられるでしょうね。
しかしある人は、クリスチャンはお酒を飲むべきではないと信じています。
その教会にこのような信徒さんがいたら、牧師の自由な振る舞いによって信仰につまずいてしまう。
もちろん兄弟姉妹一人一人の心の中は自由です。お酒に関して誰がどう信じているかまでは、牧師は知らない。
もし知っていながらお酒の話をするなら、それは愛ではありません。
目の前にいる兄弟姉妹の心を無視して、見えない神を愛することはできません。
基本的に私たちは何にも束縛されません。キリストによって自由な神の子とされています。
他の人からどう見られるかなんて気にせず、神に造られたユニークさを大事に生きたらいい。
ただしその自由な振る舞いが誰かの信仰をつまずかせていないか、気をつけてください。
愛のために自分の自由を手放す
すべては神の栄光のため
私たちの自由はキリストのため、神を愛するため、キリストの血で買い取られた人々を生かすために用いられるべきです。
パウロは他の手紙でこう言っています。
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
コリントの信徒への手紙一10:31
私たちの自由さによって、神の素晴らしさが現わされていきます。
そうして私たちの生活の場に神の国が現わされます。
神の国は聖霊による義と平和と喜び
パウロは言います。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
義というのは神様との正しい関係。
私たちはただ信仰によってキリストに結び合わされました。これは聖霊の働きです。
そして神の目から義と認められました。
律法に定められたものを食べないなどの行いによって義とされたわけではありません。
私たちには同じ一つの聖霊が与えられています。
その表れ方は人によって違い、多様な信仰の表現が生まれます。
その違いは分裂ではなく一致するためです。違いを活かし、キリストの体として多様性のある一致が生まれます。
こうしてあらゆる分断の壁を壊し、平和を生み出していきます。
神のものとされた私たちはもう自分の欲望を満たすために生きません。
食べたいものを食べて飲みたいものを飲む自由が喜びではありません。
この心は神の愛で満たされました。
聖霊が私たちの内に住んでいます。
私たちの喜びは、神の御心を行うこと。そして他の人に仕えることです。
平和や互いの向上に役立つことを追い求める
だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
つまらないことで兄弟姉妹をつまずかせ、キリストの体を分裂させてはいけません。
だから兄弟姉妹に配慮し、自分の自由を制限するのはよいことです。
私たちはそれぞれ自分の自由な信仰の表現があり、確信していることがあります。
お酒に関することもそうだし、礼拝の音楽や服装などについてこだわりがある人もいるでしょう。
その考え方の違いで人を裁いたり、教会に分裂を招いたりしてはいけません。
それぞれの好みの違いを認めてください。
そうして自分の自由を制限するのは消極的な態度。
積極的な態度で、他の人を神のもとに導き、キリストの体を建て上げるために自分の自由を制限するということもできます。
教会でどのように過ごすかは皆さんの自由です。一人で静かに過ごしてもいいし、スマホのゲームをする人がいてもいい。礼拝中はゲームしないでね。
しかしそこに愛はありますか。
一人でいるのがダメとは言いません。基本的には自由ですから、一人静かに祈るのも良いことです。それも良い模範になるでしょう。
ただ、周りの人に無関心になって自分の世界に閉じこもっているとしたら、それが神の栄光になりますか。神の国が建て上げられていきますか。
神を愛するため、神の国を建て上げるために、あえて自分のしたいことや快適さを手放すということも考えてみてください。
聖霊に与えられた確信を大事にする
「はい、わかりました。牧師先生がそうおっしゃるなら仕方ありません。一人でいたいけど隣の人に話しかけます。スマホ見たいけどやめます。」みたいに嫌々ながら従うのはやめてください。
納得できていないのに、確信に基づかないで行動していますね。それはダメです。
牧師が言うからといって、自分の決心を無理やり曲げる必要はありません。
私が若い時、教会でお世話になったリーダーの方が引越すことになりました。私は教会で送別会などを開いて感謝を伝えたかった。しかし牧師は、何もしないでと言いました。それも色々な配慮があって言われたことだと思います。
それでも私の心は納得できません。お世話になったのにお礼を伝えないのは愛ではない。なので個人的に感謝を伝えました。
信仰の表現は一人一人違うので、それぞれが聖霊の導きを求めてください。
神様は自分に何を求めているのか。ここでどのように振る舞うのが愛なのか。
そうして与えられた信仰の確信を大事にしてください。
このようにして一人一人が自由に自分の信仰を表現する。
その向かうところは神への愛、隣人への愛です。
こうして協力して互いに成長し、神の国が建て上げられていきます。