ローマ書講解38 心と声をそろえて

ローマ書講解38

心と声をそろえて

ローマの信徒への手紙 15:1-6

1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

建国記念の日

 2月11日は祝日です。建国記念の日です。
 なぜ日本では2月11日に建国を記念するのでしょう。
 他の国の支配から独立した日を建国記念日にする国もありますが、日本は他の国から支配されていません。
 日本国憲法ができて日本という国のあり方が示された日?それは憲法記念日や文化の日という別の祝日になっています。
 では最初の王が即位した日?
 今の日本に政治的な力を持った王はいませんが、国の象徴として天皇がいます。
 では最初の天皇とは誰で、いつ即位したのでしょうか。
 日本の歴史の記録として残っている一番古い資料は、8世紀の奈良時代に書かれた古事記と日本書紀。
 この日本書紀の中に、神武天皇という最初の天皇が即位したと書かれてあります。
 その即位した日が紀元前660年2月11日です。1400年も前の話がよく残っていましたね。
 しかも日本書紀には神武天皇のルーツも書かれています。
 それによると、神武天皇のひいおじいちゃんは三種の神器をもって高天原に降ったニニギノミコトで、そのおじいちゃんがアマテラスです。
 神!
 これはもう歴史の記録というより神話です。
 だから2月11日が建国記念の日というのは、神話に由来しています。

 この国では数十年前まで、天皇が神としてあがめられていました。
 その国家神道の教えが全体主義を生み、国民を戦争に駆り立てました。
 戦時中には天皇を神としてあがめることが強制され、教会の礼拝の中でも天皇を拝みました。
 それは日本が占領したアジアの国々にも及びました。

 今は信教の自由が認められていますから、神話を信じるのも自由です。
 でも天皇さんも私たちと同じ人間ですからね。
 私たちは歴史の事実から学び、過ちを繰り返さないようにしたい。
 そして唯一の神だけを礼拝する自由を大事にしたいです。

隣人の喜びと向上を求める

強い人は弱い人の弱さを担う

 私たちの信仰は自由です。それぞれの信仰の表現の仕方は違っています。
 ある人はどんな肉でも食べて良いと信じている。この人は食べる食べないという行いは関係ないと信じる強い人。
 またある人は偶像にささげられた肉を避けるべきだと信じている。この人は行いを気にする弱い人。
 どちらも神への愛の表現ですから、どちらも良いです。
 パウロが強い信仰と弱い信仰と言うのは、強い方により責任があるからです。
 信仰の弱い方も、「ああ、この人はどんな肉を食べても良いと信じているんだな」と理解すればいい。
 しかしどうしても気になってしまうという人もいます。その人は他の信仰者が肉を食べるのを見て、信仰につまずくかもしれない。
 信仰の強い方は、弱い人に配慮してただ肉を食べなければいい。肉を食べなくても信仰につまずくわけではないでしょう。
 肉を食べるという自分の満足のために、キリストの血で贖われた人を滅ぼしてはいけません。
 こうして配慮しながらそれぞれの信仰を表現していくことで、私たちは愛の絆で結ばれ、互いに補い合いながらキリストに向かって成長していきます。

 これは信仰の話だけではありません。
 肉体的にも、力のある人はない人を助けるべきです。
 物質的にも、多くの富を持つ人は貧しい人と分け合うべきです。
 神から与えられた強さを自分の満足のために使うのではなく、善を行って隣人を喜ばせるため、また互いに補い合って一つのキリストの体として成長するために使ってください。

イエス・キリストは自分の満足を求めなかった

 誰よりも信仰が強かったのはイエス・キリストでしょう。
 信仰の対象ですから信仰が強いというのは不適切かもしれませんが、その生き方を信仰生活の模範としていきたいです。
 イエス様は大酒飲みの大食漢と言われ、罪人の友だちになりました。
 行いを気にする宗教指導者たちは不平を言いました。
 イエス様は彼らにたとえ話を話しながら、父なる神様がどのようなお方で、一人の罪人が神のもとに立ち帰ることがどれほどの喜びなのかを教えました。
 イエス様は決して、自分の満足のために食べたり飲んだりしていたのではありません。
 山をも動かす信仰を持ちながら、自分の欲望を満たすために石をパンに変えることすらしませんでした。
 ただ神の栄光のため、そして人を救うという神の御心のために地上の人生を歩みました。

神の御心を行うなら人と対立することもある

 自分の満足ではなく隣人の喜びを求めるというのは、人の顔色をうかがったり、人に気に入られようとあくせくすることとは違います。
 人に気に入られようとすれば、私たちは上に立つ権威に流され、神を愛することから離れてしまうかもしれません。それこそ戦時中の日本の教会が犯した過ちです。
 私たちが神の御心を行い、互いの向上を目指すならば、人と対立することもあります。

 イエス様は神殿で商売をしていた人たちに怒り、縄でムチを作って追い出したこともあります。
 このようなことを快く思わなかった宗教指導者たちはイエス様を殺そうと計画します。

あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。

詩編69:10

 この言葉の通りです。
 自分の満足を求めず、神の栄光のため、人の救いのために生きたイエス様。
 すべてを捨ててへりくだり、人々から裏切られ嘲られ、十字架の死に至るまで神に御心に従いました。
 人と対立することも恐れず、神の御心を行い、キリストの体として成長することを目指していきましょう。

過去から学ぶ

 しかし神の御心を行って人と対立するというのは、できれば避けたいです。
 人とぶつかるのが好きな人いますか。いたらヤバいです。
 どうして私たちは人と対立しながらも忍耐し、慰められ、希望を持つことができるのでしょう。

聖書は過去のむなしい言葉ではない

 モーセはすごいですよね。絶大な権力を持つエジプトの王ファラオと対立し、イスラエルの民を救い出しました。
 でも簡単にはいきません。まず彼は話すのが苦手で、自分にはできないと思った。
 しかしその口を作ったのは神であり、語るべき言葉を神が与えると言われた。そして助け手として兄のアロンが与えられていた。
 背後からエジプト軍が迫り海が行く手を阻んでも、モーセは静まって主の救いを見ました。
 そして荒れ野の40年を過ごしたモーセは、イスラエルの民にこう語ります。

46 こう言った。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。47 それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」

申命記32:46-47

 律法には神の民としての生き方が示されています。
 また人間の弱さ、罪深さも明らかにされています。モーセ自身の失敗(殺人や石の板をぶち壊したことなど)やイスラエルの民の不従順も赤裸々に記されています。
 それは歴史を学び、過去の過ちを繰り返さないため。
 また神がどのようなお方であるかを知り、忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けるためです。
 こうして聖書は人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益な命の言葉となります。

荒れ野の40年を心に刻む

 戦後40年になった1985年、西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーは「荒れ野の40年」と題した演説をしました。
 かつてドイツでは暴力による支配が行われ、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜が行われた。これらをしっかり心に刻まなければならない。
 若者にとって、それは自分が生まれる前の過去。自分と無関係だと目をつぶることもできるし、過去を変えることなどできはしない。
 そこでヴァイツゼッカーは言います。

「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります」

 非人間的な行為を心に刻もうとしないなら、同じ過ちを繰り返す危険に陥りやすいのです。

共にキリストを見上げる

 過去の信仰者たちの歩みを学ぶとき、彼らが忍耐と慰めの神を見上げていたことを知ります。
 そして聖書はイエス・キリストを証しします。旧約時代の信仰者たちもやがて来られるメシア、キリストを待ち望んでいたことを知るのです。
 だから私たちはおびただしい数の信仰の先輩たちと共に、キリストを見上げています。

1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

ヘブライ人への手紙12:1-2

 エコパみたいな競技場にいると思ってください。
 今を生きる私たちは、ゴールに向かって走る競技者です。
 客席には信仰の先輩たちが座っています。
 彼らは私たちがつまずきやすい弱さ足りなさをよく知っています。そしてそれをどう克服するか、信仰の模範を示してくださる方々です。
 だから彼らの声援に後押しされて、私たちは妨げるものをかなぐり捨てて忍耐強く走り続けられます。
 もし過去から学ばないなら、同じ過ちを犯して道を踏み外すでしょう。

 誰よりもイエス・キリストご自身が私たちに模範を示してくださっています。私たちはその足跡に従って前進するのです。
 その時、競技場には一体感が生まれます。
 皆がキリストにあって同じ思いを抱く。
 心を合わせてキリストに向かって行く。
 そして声を合わせ、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえるのです。

 私たちはキリストを頭とする一つの体。
 自分の満足ではなく、神の栄光、互いの向上を求めます。
 あらゆる違いを超えて一致し、過去の信仰者とも心を合わせ声をそろえて、神を賛美します。

 

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