ローマ書講解5 神をたたえる民になる

ローマ書講解5

神をたたえる民になる

ローマの信徒への手紙 2:16-29

17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。19-20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

ユダヤ人とは

 今日はまずユダヤ人という民族について旧約聖書から話をします。
 神様はアブラハムを選び、大いなる国民の父、すべての民の祝福の源にすると約束しました。そしてカナンの地へ導きます。
 神を信じたアブラハムは神の民とされ、その一族の男性は割礼を受けることが命じられました。
 その祝福は息子のイサク、孫のヤコブへと受け継がれます。
 ヤコブはラケルという女性を愛しましたが、だまされて姉のレアと結婚させられます。レアは夫からの愛を求めます。そして男の子を産みますが、ヤコブは愛してくれません。それでレアは夫ではなく神様を見上げます。4番目の男の子が生まれたときは「今度こそ主をほめたたえよう」と言い、賛美という意味のヤーダーから、ユダという名を付けました。
 ヤコブには男の子が12人与えられます。神と格闘したヤコブはイスラエルという名前が与えられ、12人の息子たちによって12部族からなるイスラエル人となります。
 エジプトでの奴隷生活を送りますが、神がモーセを通して救い出します。イスラエル人は神の民としてシナイ山で神から律法を授かります。
 そして約束の地カナンに部族ごとに定住します。これを1つの国にまとめげたのがユダ族出身のダビデです。神はダビデの子孫に永遠の王座を与えると約束します。
 ところが孫のレハブアムの時代にイスラエル王国は南北に分裂してしまいます。南のユダ王国はダビデの子孫が王位を継ぎました。その南ユダ王国も神の言葉に従わなかったので、新バビロニア帝国のネブカドネザル大王により捕囚となり滅亡します。
 約70年後、ペルシアのキュロス王はユダの人々を祖国の地に帰らせます。この頃、かつて南ユダ王国があったあたり、あるいはパレスチナ全域をユダヤと呼ぶようになり、イスラエル王国にルーツを持つ人たちがユダヤ人と呼ばれるようになりました。
 彼らは律法を持ち、神について、また神の民としてどう生きるかを知っています。体に割礼を受けた自分たちは、他の民族とは違うのだと思っていました。

神の民によって神が侮られている

道が見えていない人が道案内をしている

 パウロは、神の正しい裁きの前ではユダヤ人も異邦人も関係ないのだと言います。
 そしてユダヤ人を名指しで非難します。
 お前らユダヤ人は律法を持ち、神について、また神の民としてどう生きるかを知ってるんだろ。自分ら盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師なんだろ。
 だったら何で他人には教えながら、自分には教えないんだ。「盗むな」とか「姦淫するな」とか教えているけど、ユダヤ人も同じことやってるじゃん。
 「神殿を荒らす」というのは、異教の祭壇を荒らして、そこから金銀を盗む者がいたようです。これも盗みの罪であるし、偶像にかぶせてある銀や金を取ってはならないという申命記の律法にも違反しています。
 俺たちは律法を持ってるんだぜと誇りに思っている人たちがその律法を破っている。
 イエス様もそれを非難しました。

そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」

マタイによる福音書15:14

 道が見えていない人が他の人の道案内をすれば、二人とも痛い目にあいます。
 それを見ていた人たちは笑うでしょう。自分が見えてないんじゃん。神様が教えてくれたんだろ。お前らの神はウソつきかよ。
 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
 これはイザヤ書52:5がベースになっている引用です。
 神様の言葉を無視したユダの人々は捕囚にあいました。これは神様がしたことですが、神を知らないバビロン人はイスラエルの神は無力だと侮ったのです。
 神の民だと言いながら神の言葉に従わない人々のせいで、神の名が汚されてしまいます。

信仰者の生き方は見られている

 パウロは同胞のユダヤ人に向けて語っていますが、私たちクリスチャンにも同じことが言えます。
 私たちには聖書があり、聖書に教えられて生きている。
 私たちがそれを自慢しなくても、人々は見ています。クリスチャンがどのように生きるのか見られています。
 すべての掟を忠実に守る品行方正な優等生になりなさいということではありません。後でもう少し詳しく話します。
 ここでは1つの掟だけ守るように意識してください。

34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

ヨハネによる福音書13:34-35

 私たちの生き方からキリストの香りがただよいます。
 特に愛に生きるとき、人々は違いに気づきます。
 この人たちはなぜこのような愛を表すことができるのか。
 そうか、彼らはクリスチャンだ。彼らの信じる神は本物だ。
 そして共に神をあがめるようになります。

内面がユダヤ人である者こそユダヤ人

白く塗られた墓

 次にパウロは割礼の話をします。
 神を信じ神の民とされたアブラハムの一族に命じられた割礼。律法でも命じられました。
 ユダヤ人男性は体に割礼があることで、自分たちは神の民だと誇っていたわけです。
 しかし割礼というのは生まれたばかりの赤ちゃんのときに親が授けてくれたものです。本人の意思は関係ありません。
 大人になったユダヤ人が自分の意思で律法に違反しているとしたら、体に割礼があることに何の意味がありますか。
 体に割礼がなくても律法を守る者があなたを裁きますよ。これはローマにも多くいただあろう異邦人クリスチャンを指していると思います。
 問題はユダヤ人として生まれて幼い頃から律法を学んできたという民族や知識ではありません。
 体に割礼があるという外面の問題でもありません。
 問題は心です。
 イエス様も心から出るものが人を汚すのだと言いました。
 白く塗った墓のように外面はきれいに見えても、内側は汚れで満ちています。

心に割礼を受け神を頼れ

 パウロは言います。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」
 これは主が預言者を通して教えていたことでもあります。

ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。」

エレミヤ書4:4

 ユダの人々よ、心にこそ割礼を受けよ。

 御言葉に教えられてどう生きるかは大事です。
 しかし外側に出てくる行い以上に大事なのは、内側の心です。
 神を頼っているかどうか。信仰の問題です。

聖霊によって神をたたえる民になる

 心の割礼は聖霊によって与えられるものです。
 ローマ人のコルネリウスなど異邦人がイエス様を信じて聖霊を受け、神を賛美し始めました。
 こうして異邦人クリスチャンが誕生し、そのしるしに水で洗礼を受けました。
 イエスを主と信じる信仰によって聖霊が心に住むようになります。
 聖霊を受けた人は神を賛美します。
 ペンテコステの日に聖霊を受けた人々も神を賛美し始めました。

 ユダという名前はたたえる(ヤーダー)から来ていました。
 その意味では、ユダヤ人とは神をたたえる民です。
 イエスを信じ聖霊を受けた人は神をたたえる民になります。

イエスを主と信じる人こそ神をたたえる民

 私たちクリスチャンは水で洗礼を受けます。
 これも外面の行い、パフォーマンスで終わっては意味がありません。
 聖霊を受けたかどうかが大事です。

 どうしたら聖霊を受けたかどうかわかるか。
 それは「イエスは主」と告白できるかどうかです。

 他の掟もそうです。十戒のような道徳律法を守り、いつも喜びどんな時も感謝する品行方正な優等生クリスチャンになるのもいいでしょう。
 しかしそうなれないのが現実です。この世で生きていると喜べないこと感謝できないことはたくさんあります。「盗むな」「姦淫するな」「殺すな」という戒めだって守れない罪人だと気づかされます。
 この罪の自覚も、聖霊が心に住んでいるからこそ指摘されることです。

 そこで「このような生活では証しにならない。もっと清く生きなければ」と外側を白く塗った偽善者のようにならなくていいです。
 私たちがこのような罪人だからこそ、イエス様が十字架で死なれたのでしょう。
 私たちが正しく生きられないから、復活のイエス様は私たちに弁護者:聖霊を送り、新しい命に生かしてくださったのでしょう。
 私たちも心から願うのは、主のようになることです。イエス様を見上げて、栄光から栄光へとキリストに似た者になっていきたい。
 生きている間、私たちは変えられる途中。工事中です。工事現場はいつもドロドロのぐちゃぐちゃです。
 もし誰かが私たちの欠点を指摘して、「お前らそれでもクリスチャンかよ」と笑うなら、胸を張って言ってやりなさい。
 「そうだよ、これがクリスチャンだよ。
  こんなどうしようもない罪人の俺をイエス様は愛してくれた!ハレルヤ!」
 イエスを主と信じる人こそ真の神の民、神をたたえる民になります。

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