ローマ書講解6
偽り者の人間, 真実な神
ローマの信徒への手紙 3:1-8
1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
無理難題は無効
いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。
「竹取物語」いわゆるかぐや姫のお話です。
おじいさんが竹を取りに行くと、1本の光る竹がありました。切ってみると、小さな人が入っていました。
おじいさんがその人を家に連れて帰って育てると、とても美しい女性に育ちました。
それを聞いた男たちはかぐや姫に結婚を申し込みに来ました。かぐや姫はその男たちに「私の言う物を持って来ることができたら結婚します」と伝えました。
それは仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、龍の首の珠、燕の子安貝。どれも伝説上の宝で、手に入れられません。燕の子安貝を探しに行った人は屋根から落ち、亡くなりました。
これは宝を手に入れられなかった男たちに問題があるのでしょうか。確かに、会ったこともない人に結婚を申し込むのはどうかと思いますが。
結婚をちらつかせて無理難題をつきつけたかぐや姫にも問題があるのではないでしょうか。
無理なことをしろと言われてできなかったら、無理なことをさせた側に問題があり、その要求自体が無効です。
神は人に律法を与えました。律法を守れば幸せに生きられると祝福をちらつかせて。
しかし人には律法を行う力はなかった。
これって詐欺じゃないですか。
無理難題をつきつけた神に問題があるんじゃないですか。
律法なんて無効だ無効!
決してそうではない。
という話を今日はします。
言い訳をして神の招きを拒む
パウロは、ユダヤ人の家系に生まれたことも律法を知っていることも割礼を受けたことも、神を頼って生きないなら意味がないと言いました。
それならユダヤ人の優れた点は何ですか?当然の疑問です。
「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。」とパウロは言います。
いろいろと言っておきながらここで答えているのは1つだけ。続きは9章から11章におあずけです。
神の言葉をゆだねられた
パウロが指摘したユダヤ人の利点の第一は、神の言葉をゆだねられたこと。
主なる神様はイスラエルの民に、律法を忠実に守るよう要求します。
6 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。7 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。8 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。
申命記4:6-8
このように主なる神様から律法を授けられた民は他にありません。他の民はイスラエル、またユダヤ人を見て「知恵があり、賢明な民」と評価します。
また神は預言者たちを通しても語られました。
パウロはこれを、神の言葉を「ゆだねられた」と表現します。
ゆだねるというのは、相手を信頼して任せるということです。この人なら守ってくれるはずだと。
神がイスラエルの民に、そしてユダヤ人に神の言葉を与えたのは、彼らを信頼してのことでした。
人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方
ここで初めの話に戻りますが、神は人に無理難題をつきつけた詐欺師なのか。
決してそうではない!
パウロは断固否定します。
人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
罪を認めず神のせいにする人間
アダムは善悪の知識の実を食べ、堕落しました。
それは神が置いたものでした。
神はそこから起こる事件を予想できなかったんですか?全知全能なのに。食べるなと言われて食べちゃうのは、お約束でしょ。
だとしたら人間ばかりが責められるのはおかしい。神にも過失があったのではありませんか。
そのような屁理屈を言う人がいるかもしれませんね。
自分の罪を素直に認められない人間の姿です。
実際アダムは神の顔を避けて隠れ、他の人のせいにしました。
「あなたが造った女がくれたから食べただけです。あの女のせいで食べることになってしまいました。
いや、そもそもの原因は神様、あなたです。」とでも言うように。
素直に罪を認めたダビデ
人間はそのように偽り者。
しかし神はいつも真実な方です。
パウロがここで引用しているのはダビデの詩です。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
詩編51:6
詩編51編はダビデが姦淫の罪を指摘されたときにうたったものとされています。
忠実な部下ウリヤを殺してでも隠そうとした罪ですが、ダビデは素直に認め、悔い改めました。
真実な神の招きに応える
今は聖書を通して神の言葉を聞くことができます。神様は私たちにも神の言葉をゆだねられました。
神の言葉そのものであるイエス・キリストが「わたしに従え」と招いています。
それは私たちを信頼してのことです。
真実な神のこの招きに対して、私たちはどう応答しているでしょうか。
「敵を愛しなさい」
「赦しなさい」
「神と富とに仕えることはできない」
「行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」
イエス・キリストはこう言うけれど、実際には無理でしょ。現実の世界は複雑で2000年以上前の教えは通用しない。
そもそも無理難題を押し付ける神に問題がある。
色々な言い訳をしてイエス様の招きを拒みます。
しかし神は真実な方。
神の招きに応え、言い訳をせず素直に神様の前に進み出てください。
真実で正しい神によって清められていく
怒りを発する神は正しくないのか
続けてパウロは言います。「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。」
はいはい、そうですね。神様はいつも真実ですよ。間違っているのは人間です。はーい、すいませーん。
こうやって人間の罪のために神様の正しさが明らかにされるんだったら、神様が人間の罪に怒るのはズレてるんじゃないですか?
ここでもパウロは言います。
決してそうではない。
神様は世界を正しく裁くお方です。
良いものは良い。悪いものは悪い。
罪を放っておくことはできません。
福音は罪を勧めるものではない
またこのように言う人たちもいました。「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。」
神の栄光になったなら、私の罪も結果的にはよかったじゃないですか。
「それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。」
不道徳なことをした方が、かえって神の善が明らかになる。だったら不道徳なことをしよう。
パウロがこう主張していると言うのです。
パウロはこのことについても後で反論していますが、福音は決して罪を勧めているわけではありません。
確かに罪が明らかにされることで、イエス・キリストの十字架の死と復活を受け入れられるようになります。罪の大きさを知れば知るほど、神の愛の大きさがわかってきます。
しかし罪赦された人はもう、新しい人になったのです。もう罪の奴隷として生きていた古い自分は、キリストと共に十字架で死んだのです。
「善が生じるために悪をしよう」などとは決して言えません。
神が罪を正しく裁いてくださるので、罪人の私は有罪判決を受け、キリストと共に死にました。
そして今は復活のキリストと共に新しい命に生かされています。
だからもう罪の奴隷として生きることはできません。
人間の論法で出る屁理屈を潰していく
これらの屁理屈は人間の論法に従って出て来るものです。
私たち人間のちっぽけな頭で全能の神を理解しようとしているので、頓珍漢な理論が出てきてしまいます。
パウロは偽り者の人間が言いそうなありとあらゆる言い訳を潰していきます。
そして気づかせるのです。
正しい人はいない。一人もいない。
イエス・キリストが言うように、正しい方は神お一人しかいないということに。
「彼ら」の不誠実から「わたし」の偽りへ
誰に気づいてほしいのか。
最初は「彼ら」の不誠実。ユダヤ人の誰か。他人事のようです。
そこから「わたしたちの」不義。
そして「わたしの」偽り。
この手紙の読者に向かって焦点が絞られていきます。
そう、気付いてほしいのは今このメッセージを聞いている私であり、あなたです。
私たちも偽り者の人間であり、ただ神だけが真実で正しい方です。
罪を認めるならキリストのように変えられていく
神は人に無理難題を押しつける方ではありません。できないことをさせることはありません。
律法には神の民としてのふさわしい生き方が示されています。それでも律法の行いによっては罪の自覚しか生じません。
そのとき、神の顔を避けて誰かのせいにしてはいけません。
ダビデのように素直に神の前に罪を言い表すのです。
神は私たちと真実な関係を築きたいと願っています。
まず神の方から私たちを信頼し、神の言葉を委ねてくださいました。
私たちも神の信頼に応え、神の前に進み出るのです。
自転車の練習をする子どもは何度もつまずき倒れながらも、両手を広げて待っているお父さんお母さんのもとへ進んでいきます。
そしてやがて自由に自転車に乗れるようになります。
私たちは何度も罪を犯し倒れますが、その度に立ち上がり、天のお父さんのもとに進んでいきます。
そしてやがてキリストに似た者に清められていきます。
真実で正しい神に、自分の罪を素直に認めてください。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの手紙一1:9