ペンテコステ礼拝
ローマ書講解7
正しい者は一人もいない
ローマの信徒への手紙 3:9-20
9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。14 口は、呪いと苦味で満ち、15 足は血を流すのに速く、16 その道には破壊と悲惨がある。17 彼らは平和の道を知らない。18 彼らの目には神への畏れがない。」19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
すべての人は罪の支配下にある
パウロは福音とはどういうものかを紹介するために、まず罪の話から始めました。
かなり長かったですね。罪の話が続くと聞く側もつらかったでしょうし、語る側もつらいです。
ようやく罪の話の結論部分になります。
これでやっと罪の話が終わる!と希望が持てそうですが、パウロはさらに突き落としてきます。
正しい者はいない
先週はユダヤ人の優れた点は何か、という話から始まりました。それは神の言葉を委ねられたこと。しかしそのユダヤ人は不誠実で、ただ神だけが真実で正しい方でした。
そこでパウロは重ねて問います。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。」
その答えは、
全くありません。
ユダヤ人もそうでない人も、すべての人が罪のもとにあるのです。
このことは旧約聖書も指摘しています。パウロは詩編やイザヤ書など複数の箇所から引用しています。まずは詩編14:1-3。
1【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
詩編14:1-3
まずは神を知らぬ者。異邦人の罪を指摘します。
そして神は天から人々を見渡します。しかし正しい者は一人もいません。
そこにはユダヤ人も含まれます。
異邦人もユダヤ人も、すべての人が神に背き、汚れてしまっているというわけです。
思いにおいて罪を犯す
罪はどのように表れてくるのか。
まずは思いにおいて。「悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と指摘されています。神を忘れ、神を無視して生きています。
神に似せて造られた人間には考える力があり、神を礼拝する霊性があります。
しかし人間はその考える力を結集し、バベルの塔を築きました。
そして想像力豊かに、自分の神々を創り出していきました。
言葉において罪を犯す
また言葉において。「彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、」と指摘されています。
人間には言葉があります。この言葉で人は神を賛美し、互いにコミュニケーションを取ることができます。
しかし私たちのこの口からは、心にあるものが出てきます。
どんなに上辺はよく見せても、白く塗った墓のように心の中は汚れています。
だから開いた墓から死臭が漂うように、汚い言葉が無意識のうちに出てしまいます。
人を呪い、傷つけ、時には人を死に至らせる毒を吐きます。
行動において罪を犯す
そして行動において「足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」と指摘されています。
神のかたちに造られた私たちは、この手や足を何のために使うべきでしょう。
誰かを立ち上がらせ支えることもできるし、何かを生み出し建て上げることもできます。
しかし人間は人を突き倒し、逃げ去り、誰かを踏みにじり、破壊することにこの体を使います。
平和を作ることなどできません。
罪の根本は神を知らないこと
私たちはこのように、日々思いと言葉と行動において罪を犯すのです。
皆さんもそうでしょう。神に造られたものとして、思いと言葉と行動をコントロールできていますか。
自分自身、罪の支配下にあると認めざるを得ません。
その根本的な原因は「彼らの目には神への畏れがない。」神を神として認めないことです。
救いは外から来る
この世に救いはない
異邦人はそもそも神を知らなかった。
神を知っていると思っていたユダヤ人も、律法に照らし合わせて見たときに罪が明らかになった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と言われています。
1章18節からここまで、繰り返し罪の話をしてきました。あらゆる反論、屁理屈にも答えてきました。
もう言い逃れはできません。すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになります。
どんなに人間的に立派に見えても、神の基準には達しません。
だから人間には、人間を救う力はありません。
もうこの世界に、救いの希望などないのです。
ああ、神なき人間の悲惨。暗闇。絶望。
イエス・キリストだけが救いの唯一の道
ここに来てようやく私たちは救いの希望がただ神にしかないのだとわかります。
この世界に救いがないのなら、救いは外から来るしかありません。
造られたものでなく、造られた方。創造主なる神のほかに救いはありません。
しかし神の前で正しくありえない私たちを、どうして神が救ってくれるでしょう。
自分自身を嫌悪するほどに汚い私たちに、救われる理由などありません。
ノアの時代のように、洪水で滅ぼされてしまうのではないですか。
そうです。神は正義の神。罪を放っておくことはありません。
同時に神は愛の神。私たちを愛してやみません。私たちが神を捨て、離れ去ったとしても、神はそのままで私たちを愛してくださっています。
そこで神は救いの最終手段として、神ご自身が人となって私たちの間に来てくださいました。
そして律法の要求をすべて満たし、すべての人の罪を負い、あの十字架で死なれたのです。
このキリストを信じ洗礼を受ける時、私たちもキリストと共に葬られます。
そして復活したキリストは、私たちを新しい命で生かしてくださいます。
だから、ほかの誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。
イエス・キリストだけが唯一の救いの道です。
聖霊の力で立ち上がる
聖霊降臨
イエス・キリストを信じた人は聖霊を受けます。
今日はペンテコステ。聖霊が降ったことを記念する日です。
ペンテコステの日の出来事を聖書はこう記しています。
1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
使徒言行録2:1-4
聖霊を受けた人たちは他の国々の言葉で語りだしました。
何を語っていたのか。
外国から来た人たちはそれを聞いて、ユダヤ人が自分たちの言葉で神の偉大な業を語っていることに驚きました。
聖霊によって思いも言葉も行動も変わる
かつて神は、人間がバベルの塔を築くので、言葉をバラバラにしてしまいました。 それで人々は散らされていきましたが、互いにコミュニケーションの問題が生じ、民族同士の争いも生じていきました。日々思いと言葉と行動で罪を犯す人間たちの姿です。
ところが聖霊を受けた人たちの間には、言葉の壁がなくなりました。使う言葉は別々でも、共に主を賛美するようになったのです。
そして互いに助け合い、貧しい人がいなくなるような愛の共同体を作っていきました。
聖霊によって思いが変えられ、言葉が変えられ、行動が変わったのです。
イエス・キリストを信じた皆さんは聖霊を受けました。
私たちは考える力があります。これを結集して、人を生かし、神の栄光を表すことができます。
私たちには言葉があります。人を造り上げるのに役に立つ言葉を必要に応じて語り、神を賛美できます。
私たちはキリストの体の部分となりました。私たちのこの体を用いて、神様の御心を行うことができます。
互いに争い奪い合うためにではなく、互いに分かち合い助け合うために体を用います。
神が遣わされるところに足を運び、人々の声を聞き、小さな者を見守り、誰かの手を取り、平和を築くことができます。
私たち自身の力ではできません。ただ神の前でひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言うしかありません。
そのように神の前で自分自身の罪深さを認めるとき、聖霊の力で立ち上がることができます。