ローマ書講解8
ただ信仰による救い
ローマの信徒への手紙 3:21-31
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
恵みの時代の到来
現実の世界を超えた信仰の世界
先週は正しい者はいない、一人もいないという現実を突きつけられました。私たちは日々、思いと言葉と行動で罪を犯しています。律法を行っても、罪の自覚しか生じない。人間の悲惨、暗闇、絶望。この世に救いがないことが示されました。
現実の世界に救いがないならどうしましょう。現実から目を背けてファンタジーの世界、2次元の世界に逃げ出しましょうか。生きるのを止めてこの世からサヨナラしましょうか。
聖書は天の国について語ります。
それは現実逃避のおとぎ話でも、この世を去って後のあの世の話でもありません。
神の支配されるところ。天と地が一つになるところ。神の国です。
それは現実の外の世界ではなく、私たちの間にあります。
目に見える現実を超えた、信仰の世界がここに来ているのです。
イエス・キリストによって新しい時代が始まった
イエス・キリストが公の活動を始めたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言いました。
この時という言葉はカイロスという単語が使われています。
過ぎ去っていく時間クロノスとは違う、準備された時、決定的な時です。
イエス・キリストによってこの世界に救いが来ました。
恵みの時代の到来です。
パウロも26節で「今この時(カイロス)」について語っています。それは神の義、神の正しさが示された時です。
イエス・キリストを信じることで、イエスが成し遂げた救いを受け取ることができます。
律法の行いとは関係がありません。まさに恵みの時代が来たのです。
しかし律法や預言者、つまり旧約聖書と何の関りもないわけではありません。旧約聖書にちゃんと根拠があります。
律法の行いという原理の中で生きてきた時にはわかりませんでした。
恵みの時代が来て、信仰という原理の中で読んで初めて、旧約聖書で証しされたイエスの救いを読み取ることができます。
イエス・キリストが来たことで新しい時代が始まりました。
カレンダーは紀元前B.C.と紀元後A.D.に分けられます。
B.C.はイエス・キリストが来る前 Before Christ、A.D.は神の年 Anno Domini です。
カレンダーの上だけではありません。私たちが生きるこの現実の世界において神の国が来て、恵みの時代が始まりました。
目に見える現実を超えた、信仰の世界が見えてきます。
無償で義とされる
すべての罪人に差別なく与えられた救い
神の義はイエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられます。
そこには何の差別もありません。
すべての人が罪人であるということは嫌と言うほど聞かされてきました。
ここでも「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と追い打ちをかけてきます。
人は神のかたちに造られ、神の素晴らしさ(栄光)を反映するものでした。
しかし罪のために神のかたちは壊れ、人間を見ても神の素晴らしさなど感じられなくなっています。
エゼキエルが見た、神殿から神の栄光が去るという幻も思い出されます。
これはバビロン捕囚の時に見た幻です。
神を捨て罪の奴隷となった私たちは、神の栄光を受けられません。
人間の側に正しさなどないのです。
そんな私たちが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」。
救いはイエス・キリストが成し遂げてくださった。
私たちはただイエスを信じる信仰によって救われる。
受ける資格のない私たちに無償で差し出された神の恵み。
何の差別もなく、すべての人に差し出された神様からのプレゼントです。
イエスの贖いによって提供されたプレゼント
プレゼントをもらう方はただで受け取れます。
しかし準備する方は代価を払いますね。もちろん愛をもって喜んで準備し差し出すわけですが。
救いというプレゼントはキリスト・イエスによる贖いの業によって提供されました。
また「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」とあります。
贖いというのは、身代金、奴隷を買い取るための代価です。
イエス・キリストが十字架上で血を流し死なれました。
この命の代価によって神は私たちを買い取りました。
私たちはもう罪の奴隷ではなく、神のものとされています。
そして神の子羊イエスの血は私たちを罪から洗い清め、神との関係を回復させます。
大祭司が民全体のために罪の償いの儀式を行ったように。
次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。
レビ記16:15
神との関係が回復し神のものとされた私たちは、神のかたちに回復し、神の素晴らしさを表します。
感謝して受け取るしかない
プレゼントをただでもらえるというだけでもうれしいです。
そのプレゼントがどのような思いで、どのような手間をかけて準備されたのかを知ると、もっとうれしいです。
プレゼントがあまりにも素晴らしいと、自分にはもったいないと受け取るのをためらうこともあります。
しかし相手の愛を知ると、受け取るのを拒むこともできなくなります。
神が私たちに差し出した救いというプレゼント。
まさに命をかけて私たちを愛してくださった神の愛、キリストの愛が込められたプレゼントです。何の差別もなく、ただ信仰で受け取れます。
自分にはもったいないと拒んだら、神様は悲しむでしょう。
もう感謝して受け取るしかないです。
信仰でこの世界を生きる
律法の行いという原理の中で生きてきたユダヤ人にとって、ただ信仰で救われるというのは理解しがたいことでしょう。
また彼らは神に選ばれた民だと誇っています。救いが何の差別もないということも納得がいかないでしょう。
ただ信仰
しかし恵みの時代が到来したのです。神の国が来ました。
まことの神の民は行いの原理ではなく、信仰の原理で生きます。
人が義とされるのは律法の行いによってはなく、信仰によってだからです。
宗教改革者ルターはこのローマ3章28節に sola (ただ) を付け加え、「ただ信仰によって」と訳すべきだと力説しました。
信仰という公平な救い
ユダヤ人は神は唯一であると信じています。
本当に神が唯一であるなら、世界を治めるのはその唯一の神であるはずです。
主なる神様はユダヤ人だけでなく異邦人の神でもあります。
だから割礼があってもなくても、ただ信仰で救うのです。割礼がないからと異邦人を見捨てるはずがありません。
信仰こそ律法の目的を果たす
だったらもう律法の行いは意味がないのか?割礼は無駄だったのか?
決してそうではない。
もし律法の目的が、正しい行いをさせるという点にあったなら、確かに律法は無意味になってしまうでしょう。
律法は神の民としてどう生きるかを指し示しています。
神の国では行いの原理ではなく信仰の原理が働きます。
恵みの時代が来ました。
神の民は、目に見える現実を超えた信仰の世界を生きます。「正しい者は信仰によって生きる」のです。
だから律法の目的は、神を信頼して生きるという点にあります。
ただ信仰によって救われるという福音は、律法を無にするのではなく、むしろ律法を確立するのです。
イエス・キリストもこう言いました。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
マタイによる福音書5:17
信仰者は人の生き方を変え、世界をも変える
イエス・キリストの十字架の死と復活により、恵みの時代が始まりました。
私たちはただ信仰で救われます。
イエス・キリストの血潮によって与えられた救いというプレゼントを感謝して受け取ってください。
そのとき私たちは神のかたちに回復され、神の素晴らしさを表す者になります。
信仰によって生きる神の民になります。
そしてこの地に神の国を広げ、神の恵みをこの世界に届ける者になっていきます。
信仰は現実逃避ではない。この世を去った後の慰めだけでもない。
信仰は私たちの現実の生き方を変えます。
神のかたちに回復し、本当に人間らしく生きるようになります。
そして信仰者は現実の世界をも変えていくのです。
多くの信仰者たちがイエス・キリストに従い、信仰をもって歩んできました。
目に見える現実を超えた神の約束の上を歩きました。
神が見せたビジョンを受け取り、その実現のために戦ってきました。
この日本という国も、聖書を学んだ人たち、信仰者たちの活躍で変えられてきました。
ちょうど選挙が行われていますが、神の御心にかなったリーダーが立てられるよう、祈りつつ投票してください。
私たち一人一人も信仰によって変えられ、私たちを通して家庭、職場、学校、この町が変えられていきます。
そのような信仰の世界を生きていきましょう。