ローマ書講解9
信仰の父の模範
ローマの信徒への手紙 4:1-12
1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
アブラハムもただ信仰で義と認められた
ただ信仰によって救われる。これをキリスト教用語で信仰義認と言います。
イエス・キリストを信じる信仰を見て、神様が私たちを正しいと見なしてくださいます。
このことは旧約聖書でも語られていたけれど、行いの原理ではわからなかった。恵みの時代が来て信仰の原理で読み取れることなのだと話しました。
先祖アブラハム
ではユダヤ人が民族の父と仰ぐアブラハムはどうだったのでしょう。
行いの原理で聖書を読んでいたユダヤ人の間では、アブラハムは律法を守り神の民とされたのだと言い伝えられていました。
行いによって義を勝ち取ったのであれば、アブラハムはすごいですね。子孫であるユダヤ人も、父祖アブラハムを見習って律法を守り、救いを勝ち取ろう!と思えます。
聖書には何と書いてありますか
しかしアブラハムがどんなに素晴らしい人であったとしても、神の前で行いを誇ることはできません。
パウロはアブラハムの素晴らしさではなく、神に目を向けさせます。
聖書には何と書いてありますか?
ここで引用したのは創世記15章。
神様は先に12章でアブラハムを「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」と呼び出していました。そしてアブラハムを大いなる国民の父とし、すべての民の祝福の源にすると約束していました。このとき75歳。
それから10年ほどたっても、アブラハムは約束の地カナンに土地を持っていません。祝福の源になるどころか、エジプトで問題を起こし、カナンで戦争に巻き込まれています。子どももいないので、財産はしもべの1人に継がせようと思っていました。
すると神様は「あなたから生まれる者が後を継ぐ」と約束します。
5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15:5-6
アブラハムが義と認められた時、アブラハムは何かよい行いをしたのですか。
ただ星空を見上げただけです。
そして「あなたの子孫はこのようになる。」という神の約束をただ信じた。
その信仰によって、神はアブラハムを義と認めたのでした。
ここではまだイエスの救いは明らかにされていませんが、ただ信仰によって救われるということがアブラハムのエピソードからも読み取れます。
働きがなくても義とされる恵み
ところで。
アブラハムの話題は一旦置いておきます。
行いに報いてくれないケチな神
働いた人が報酬をもらうのは当然ですよね。
たくさん働いたのに、それに見合った給料がもらえなかったらどうですか。
ちょっとしか働かなかった人と自分が同じ給料なの?ふざけんな。雇い主に不満を抱き、こんな仕事やってらんねえと思います。
これはこの世の原理。行いの原理で生きる人の考え方です。
イエス・キリストもそういうたとえ話をしましたね。
ぶどう園で朝から働いた人と夕方からしか働かなかった人が同じ給料。ケチな雇い主です。
行いの原理で生きる人にとって、神はケチなのです。
私はこんなによい行いをしているのに、祝福してくれない。
他の人と比較し、自分が十分もらっていないと思っています。
行いがない人にも祝福を与える寛大な神
しかし信仰の原理で生きる人は世界の見え方が違います。
神様の恵みが見えてきます。
神様は行いがなくても信仰で義と認めてくださる。
夕方からしか働かなかった者にも一日分の給料を支払ってくださる雇い主のように、神様は寛大なお方。
自分が十分な給料をもらっていないのではありません。自分も十分もらっているし、行いがない人も十分もらっている。
神様はなんて恵み深いお方なのだろうと感謝がわいてきます。
ダビデもうたう神の恵み
それどころか、神様の恵みは一生かけても返しきれない莫大な借金を帳消しにしてくださった王様のようです。
もう1人、ユダヤ人が尊敬する王ダビデもこううたっています。
1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
詩編32:1-2
ダビデは戦争でたくさんの人の血を流し、バトシェバと姦淫し、それを隠蔽しようとウリヤを謀殺した人間です。
しかし神の前に悔い改め、赦しを受け取りました。
もう神は背きを雲のように、罪を霧のように吹き払いました。
もはや神の目から見てダビデは、正しい者と見なされています。
神はもう私たちを罪人と見ていない
神様の約束を疑ってしもべに跡を継がせようとした不信心なアブラハムでさえ、信仰で義と認められました。
イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを信じるとき、信仰の原理で聖書を読み取ることができます。
イエスを信じる人を、神はもう罪人とは見ていません。
神と私たちの間には十字架の橋が渡され、私たちはキリストにつながった正しい者とされています。
驚くばかりの神の恵み!
アブラハムの模範
アブラハムもダビデもユダヤ人の先祖です。割礼を受けていました。
するとやはり信仰で義と認められるのは割礼が前提なのではないですか?
信仰で義とされたのは割礼を受ける前
また聖書を見てみましょう。
アブラハムが信仰で義とされたのは創世記15章。このとき85歳頃だったと思われます。
割礼を受けたのは17章。99歳の時です。14年も経っています。
割礼があったから信仰で義と認められたのではないことが明らかです。
そうではなく、信仰で義と認められ神の民とされたしるしとして、割礼を受けたのです。
男の子は生まれて8日目に割礼を受けると命じられたのでどうしても割礼が先になってしまいましたが、割礼という儀式を行うことで神の民になるのではありません。
信仰で義と認められ神の民になるのです。
アブラハムは私たちにとっても信仰の父
だから異邦人である私たちにとっても、信仰で義と認められたアブラハムは信仰の父です。
もちろん割礼を受け、アブラハムの信仰の模範に従う人々の父でもあります。
素晴らしいのはアブラハムではない
今日の主題を「信仰の父の模範」にしました。アブラハムの信仰の模範ということです。
ではアブラハムの信仰はどのように模範になりますか。疑いなく信じたのですか。神の約束をよく理解し信じたのですか。
それは「わたしが示す地に行きなさい」と言われて従った信仰はすごいですよ。ソドムの王の財産を受け取らなかったのも立派。
でも疑いだらけ、間違いだらけです。
自分の妻を妹だと偽り、自分の身を守ろうとしたこともありました。
神の約束を疑い、しもべの一人に財産を継がせようとしていました。
そんな時に「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」と言われたのです。
夜空を見上げて星を数えてみたことがありますか。
「あ、オリオン座だ。北斗七星!カシオペア座!えーっと、7個、7個、5個。合わせて19個見つけた!そうか、私の子孫は19人か。神様、わかりました!」
現代ならそうやって数えて理解したつもりになれるでしょう。
ではここで、日本一の星空と言われる長野県阿智村の星空をご覧ください。
何個の星が出てきますか。
本当に数えきれません。
アブラハムもこのような星空を見たのではないかと思います。
アブラハムが神を信じたとき、何かを理解したわけではないのです。
ただ圧倒的な神の前にひれ伏すしかありませんでした。
この数えきれないほどの星空を創造された神が、ウソつきで不信仰な私に約束してくださった。「あなたの子孫はこのようになる。」
理解なんてできません。
しかし絶対にウソではない。
だから神を信頼するしかなくなった。
信仰の父とされたアブラハムが素晴らしいのではありません。
信じさせてくださった神が素晴らしいのです。
ただ神の前にひれ伏し神を信頼する姿勢を見習う
この後のアブラハムも間違いだらけです。
自分から生まれる者が後を継ぐと言われて、妻サラではなく女奴隷と関係を持ちます。
割礼を受けてからも、ゲラル地方に滞在していた時、妻を妹だと言いました。またか!
これが信仰の父の姿です。
間違いだらけ、疑いだらけ。神の約束なんて理解できない。
それでも神の前にひれ伏す。ただ神を信頼するしかない。
その姿勢に信仰の父の模範があります。
よくわからなくても神の招きに応える
救いは人の立派さにあるのではありません。ただイエス・キリストの十字架の死と復活によって救いは成し遂げられました。
私たちはただ信仰によって救われます。
その信仰さえ、誇れるものではありません。
ただ神の前にひれ伏し、神を頼るしかありません。
神に目を向けてください。
神は不信心な者を義と認めてくださいます。
神様はあなたに何と約束していますか。何を求めておられますか。
よくわからなくていいです。神の約束なんて、私たちの小さな頭では理解できません。
ただ神を信頼し、アブラハムのように信仰の一歩を踏み出してください。