主が権威を与えて送る剣と救い

エゼキエル書講解31

主が権威を与えて送る剣と救い

エゼキエル書 21:23-32

23 主の言葉がわたしに臨んだ。24 「人の子よ、あなたはバビロンの王の剣が来るために、二つの道を用意せよ。二つの道を一つの国から延ばし、それぞれの町へ至る道が分かれる地点に標識を作り、25 剣が、アンモン人のラバおよびユダの堅固な都エルサレムに進みうるように道を備えなさい。26 バビロンの王は二つの道の分かれる地点に立ち、そこで占いを行う。彼は矢を振り、テラフィムに問い、肝臓を見る。27 彼の右の手に、エルサレムに対する占いが出る。占いは破城槌を置き、殺戮を宣言し、戦いの呼び声をあげ、門に向かって破城槌を置き、塁を築き、堡塁を建てよ、と命ずる。28 それはエルサレムの民の目には空しい占いのように思われる。彼らは自分のために立てられた誓いに頼っている。しかし、それは彼らの罪を思い起こさせ、彼らは捕らわれの身となる。29 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちは罪を思い起こされ、背きがあらわにされ、過ちが自らのすべての行いによって示され、まさにこれらのことが思い起こされたゆえに、お前たちは敵の手に捕らえられる。30 悪に汚れたイスラエルの君主よ、お前の日が、終わりの刑罰の時にやって来る。31 主なる神はこう言われる。頭巾をはずし、冠を取れ。これはこのままであるはずがない。高い者は低くされ、低い者は高くされる。32 荒廃、荒廃、荒廃をわたしは都にもたらす。かつてこのようなことが起こったことはない。それは権威を身に帯びた者が到来するまでである。わたしは権威を彼に与える。」

愛するウナギを守る

 ウナギは好きですか。
 高いですね。
 浜松はウナギが名産だと言っても、なかなか食べられません。
 そんな一般庶民の私たちに衝撃のニュースが入ってきました。
 2017年に捨てられたウナギが少なくても2.7万トンになるそうです。およそ1万3600匹分になります。

絶滅危惧のウナギ、2.7トン超が廃棄 大手小売り調査

 これはウナギを扱う大手の業者へのアンケートからわかった範囲の数字です。実際にはこの数倍が捨てられていると考えられます。
 流通しているウナギの量からするとほんのわずかな割合に過ぎませんが、大量のウナギが無駄死にしていることに変わりありません。
 そもそもウナギというのは絶滅危惧種に指定されている魚です。このままでは近い将来に野生種は絶滅すると見られています。
 「スーパーで売られているのは養殖だから大丈夫」と思ってはいけません。ウナギはまだ養殖できません。スーパーに並んでいるウナギは、シラスウナギという天然のウナギの赤ちゃんを捕獲し、育てたものです。元は野生のウナギなのです。
 「絶滅危惧種は日本のウナギでしょ、中国産だから大丈夫」という考えも危険です。ウナギは湖や川で獲れますが、生まれる場所は海です。詳しい生態はわかっていませんが、マリアナ海溝の辺りで産卵することがわかっています。これが2000㎞離れた東アジアの方まで泳いできます。そして川を上って大人のウナギになります。日本のウナギも中国のウナギも、元は同じウナギです。
 しかも日本ではウナギの漁獲量に制限がありますが、中国にはありません。もし中国産のウナギが日本で大量に売られる状態が続けば、天然のウナギは今以上に大量に乱獲されるでしょう。そうすると野生のウナギは本当に絶滅してしまいます。中国のウナギが絶滅するということは、アジアのウナギが絶滅するのと同じことです。
 今年のシラスウナギは過去2番目の不漁だったそうです。原因はよくわかっていませんが、野生のウナギは確実に少なくなっているのでしょう。
 それでウナギ業者はわざとウナギをあまり獲らないようにしたり、高い値段で売ったりします。
 なかなか食べられない貴重な魚だということが浸透していけば、無駄死にするウナギも減っていくでしょう。
 ウナギが高いのは私たち一般庶民を苦しめるためではありません。ウナギを愛するからこそです。

 愛するからこそ、制限を加えることがあります。
 権威ある人は、愛するからこそ試練を与え、愛を持って救い出します。

バビロンの王の剣をユダへ

 今日の本文は主がエゼキエルに、バビロンの王の剣のために道を備えよと命じる場面です。
 バビロンから西へ向かう道は途中で2つに分かれます。一方はアンモンへ、もう一方はユダへ向かいます。バビロンの王はそこで占いをします。結果はエルサレムを攻撃せよというものでした。
 エルサレムの住民はそんな占いを気にしません。しかしバビロンの王が来るというのは事実です。彼らはバビロンの王の剣によって、自分たちの罪を思い起こされます。この剣は主が権威をもって送ったものでした。
 そして主は再び権威を帯びたものを送り、ユダヤ人を救い出します。

主が送る剣

 まず今日の本文の23節から28節に『23 主の言葉がわたしに臨んだ。24 「人の子よ、あなたはバビロンの王の剣が来るために、二つの道を用意せよ。二つの道を一つの国から延ばし、それぞれの町へ至る道が分かれる地点に標識を作り、25 剣が、アンモン人のラバおよびユダの堅固な都エルサレムに進みうるように道を備えなさい。26 バビロンの王は二つの道の分かれる地点に立ち、そこで占いを行う。彼は矢を振り、テラフィムに問い、肝臓を見る。27 彼の右の手に、エルサレムに対する占いが出る。占いは破城槌を置き、殺戮を宣言し、戦いの呼び声をあげ、門に向かって破城槌を置き、塁を築き、堡塁を建てよ、と命ずる。28 それはエルサレムの民の目には空しい占いのように思われる。彼らは自分のために立てられた誓いに頼っている。しかし、それは彼らの罪を思い起こさせ、彼らは捕らわれの身となる。』 とあります。
 主は試練を与えることがあります。

バビロンの王の剣

 主はエゼキエルに、道を用意せよと命じています。バビロンの王の剣のための道です。
 バビロンからユーフラテス川に沿って西に向かう道がありました。これはダマスコの辺りで2つに分かれます。左に行くとアンモンの首都ラバ。右に行くとユダの首都エルサレムに向かいます。バビロンから近いのはラバです。
 さらに主はエルサレムのことを堅固な都だと言っています。近くて堅固じゃない町と、遠くて堅固な町だったら、どっちを先に攻撃しますか。まず攻略しやすいのはラバの方だというのは明らかです。
 しかしエゼキエルがその分岐点に標識を作るので、バビロンの王ネブカドネザルは一度立ち止まります。そこでどちらに行くべきか占いをします。矢を振り、肝臓を見るという占いです。2つの矢にそれぞれラバ、イスラエルと書きます。くじ引きのようなものですね。
 テラフィムは家の守り神のようなものです。出エジプトのときにはイスラエルにもありましたが、後に偶像化されたため禁止されました。
 肝臓を見るというのは、いけにえの動物の肝臓を見る古代の占いです。異教の占いです。
 結果は、右の方。エルサレムの破壊と殺戮を命じる結果が出ます。

空しい占い

 エルサレムの住民はこのような占いを気にしませんでした。これは異教の占いです。そのような占いに何の力があるでしょうか。

 血液型や生年月日の占いがあります。色々なアドバイスをしてくれます。
 Yahoo!の占いによると、今日の私の運勢は79点だそうです。周りの人からほめてもらえる日だそうです。今日のメッセージ良かったですとか言ってもらえるのでしょうか。そのためのアドバイスとして、よく使うカバンの取っ手や肩ひもをよく磨くといいのだと。
 このような占いを気にしてはいけません。人からほめてもらうのはうれしいですが、それを求めてカバンの取っ手を磨く人の姿を想像してみてください。惨めでしょう。
 占いを気にすると、私たちの人生は占いに支配されます。
 それでも占いが当たった!という経験を持っている人もいるでしょう。それは考えようによっては当たった気にさせられるように、よく文章が作られているからです。あるいは悪霊の力です。
 占いは偶像になって私たちの人生を空しい道へ惑わします。

 だからエルサレムの住民がバビロンの王の占いを気にしなかったのは良いです。気にして絶望してはいけません。
 またゼデキヤが王になったとき、バビロンとの間に条約が結ばれていました。バビロンが攻めて来るはずがありません。
 さらにエルサレムには主の神殿があります。天地の創造主がご自身の名を置くと誓われた神殿があるのです。その誓いがある限り、エルサレムの城壁の中は安全だと思い込んでいました。

主が送った

 それでも現実には目を向けなければなりません。ネブカドネザルがエルサレムを攻めるというのは事実です。
 たとえその占いが悪霊によるものだとしても、全ては主の御心の中で行われます。主は預言者の口に惑わす霊を送ることもできます。
 この剣は主が送った裁きの剣です。

 私たちは目の前に迫った危機を見て、言い訳をしながら目を背けてしまうことがあります。これはサタンの妨げだと。
 もちろん霊的な戦いはあります。私たちを恐れさせ、疑いを起こさせ、絶望させる霊がいます。
 しかし自分の計画がうまく行かないというのは、大体の場合、自分の側に問題があります。
 だから主が剣のような試練によって私たちの道を妨げます。

 東京で5歳の女の子を虐待で死なせた疑いで両親が逮捕されました。
 父は再婚相手で、女の子と血は繋がっていません。父は女の子を厳しくしつけました。朝早く自分で起きて、体重を測ったりひらがなの練習をさせました。上手くできなければベランダに出しました。ごはんを少ししか与えず、衰弱死したと見られています。
 母はこの女の子の生みの親です。初めは再婚した夫のしつけが厳しすぎるのではないかと感じていたようです。しかし娘がだんだん行儀よくなって行くのを見て、これでいいのだと思うようになってしまったようです。最後には夫の虐待にも、助けを求める娘にも見て見ぬフリをするようになってしまいました。
 体罰によって子どもが成長したように見えるのは錯覚です。子どもは親から捨てられる恐怖や苦しみから逃げるため、一時的に親の命令に従います。これは成長したわけではありません。逃げる方法を覚えたダメな人間を作るだけです。
 人を成長させるのは愛だけです。
 児童相談所はこの家族が香川県に住んでいるときには家を訪問したり、女の子を保護したりしてきました。しかし東京に引っ越してからは手が出せなかったようです。
 虐待する夫に対して反対したり、女の子を家族から引き離したりすることも愛の表現です。

 主はエルサレムに剣を送ることで、滅び行くエルサレムに愛を表現しました。
 私たちの人生がうまく行かないときも、間違った道に行かないように介入してくださる主の愛に感謝していきたいです。

苦難の中で見えるもの

 次に今日の本文の29節30節に『29 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちは罪を思い起こされ、背きがあらわにされ、過ちが自らのすべての行いによって示され、まさにこれらのことが思い起こされたゆえに、お前たちは敵の手に捕らえられる。30 悪に汚れたイスラエルの君主よ、お前の日が、終わりの刑罰の時にやって来る。』 とあります。
 苦難の中で私たちは命の道に立ち帰る機会を得ます。

罪を思い出す

 エルサレムがバビロンによって包囲されるとき、エルサレムの住民は自分たちの罪を思い起こすことになります。
 空しいものを頼っていたのは誰でしょうか。
 自分たちこそ、神殿という物を頼っていました。神殿が偶像化していました。
 エゼキエルが幻で見た通り、神殿から主の栄光は去ってしまいました。
 エルサレムにあるのは主の臨在ではありません。ただの石の塊です。
 預言者たちを通して、またバビロンの王の占いを通しても主は語ってきました。それなのに民は聞き従いませんでした。

悔い改めさせる

 こうして苦難に直面することで悔い改めの機会を得ます。
 私たちは一度立ち止まらなければ、方向転換する必要を感じません。
 坂道を転がるボールのようなものです。一度動き始めたら、このまま行ってしまえと思います。
 止まるためには、誰かがブレーキをかける必要があります。
 主の御心は悪人が悔い改めて生きることです。
 滅びの道を転げ落ちる私たちを、命の道へ立ち帰らせるためにブレーキをかけます。

主の前に立つ

 悪に汚れたイスラエルの君主と呼ばれているのはゼデキヤ王のことです。
 ゼデキヤは捕えられ、リブラでネブカドネザルの前に引き出されました。それはゼデキヤの裁きの日、終わりの刑罰の日でした。ゼデキヤの目の前で息子たちは殺され、ゼデキヤは目をえぐり取られます。
 私たちにも終わりの日が来ます。いつか主の前に立ちます。イエス・キリストを信じる私たちには永遠の命が約束されていますが、信仰生活の決算が待っています。
 終わりの日はいつ来るかわかりません。だから今この時に悔い改めていきたいです。

 今回、教会の12周年礼拝を準備しています。
 私たちはどのような心で準備しているでしょうか。ただ時間が経てば12年になるわけではありません。
 12周年に賛美の奉仕者を呼ぼうということになりました。しかしなかなか決まりませんでした。
 横山大輔さんに連絡しましたが、検討しますということでしばらく保留になっていました。
 後日再び連絡をしてみると、来られそうな雰囲気で連絡が来ました。それで横山さんが来るつもりで準備を進めて行きました。
 ところが前の木曜日に再び連絡が来ました。「まだ教会のリーダーから許可が下りていないので、お祈りください」と。
 まさかの事態です。どうしましょう。私たちには祈ることしかできないです。
 そこの教会の牧師や長老に賄賂を贈って説得するわけにもいきません。
 木曜日の青年の集い、金曜日の祈り会、土曜日の祈り会と毎日集まるたびに祈りました。
 そして昨日の夜、ようやく許可が出ました。
 教会は自然に建てられるわけではありません。12年という月日も自然に過ぎていくわけではありません。様々な戦いがあるのです。
 しかし私たちには強力な武器があります。それは信仰です。
 信仰は要塞を打ち砕き、山をも動かす力があります。
 私たちが心を一つにして祈るとき、その信仰の力が発揮されます。
 12周年礼拝まであと1週間です。祈りながら備えていきましょう。
 ただ主のみ栄光を受けられる礼拝がささげられるように。横山さんの賛美と証しに恵みが溢れるように。新しい人や回復する人が与えられるように。チラシが早く届くように。ロールケーキがよく作れるように。
 日々の生活の中で主の前に静まり、主の道に立ち帰ることを願います。

主が送る救い

 最後に今日の本文の31節32節に『31 主なる神はこう言われる。頭巾をはずし、冠を取れ。これはこのままであるはずがない。高い者は低くされ、低い者は高くされる。32 荒廃、荒廃、荒廃をわたしは都にもたらす。かつてこのようなことが起こったことはない。それは権威を身に帯びた者が到来するまでである。わたしは権威を彼に与える。」』 とあります。
 主は油注がれた人を用いて失われた魂を救い出します。

冠は取られる

 やがてエルサレムは滅ぼされ、住民はバビロンに捕囚になります。主が権威を与えた剣、ネブカドネザル王がエルサレムを徹底的に破壊します。
 ユダヤ人はバビロンで奴隷の生活を送ることになります。
 このときゼデキヤ王は冠を外されます。エルサレムで頭巾をかぶって仕えていた者も、冠をかぶって高ぶっていた者も関係ありません。
 そしてユダヤ人は頭巾をかぶり、冠をかぶったバビロンの王に仕えることになります。

 主はそのような日々に終わりが来ることを約束します。
 バビロンの王の冠が外されます。
 バビロンの王は主が権威を与えた剣でしたが、王は高ぶり、自分の力で世界を支配していると思いました。
 高ぶったものは打ち砕かれます。

 今この世界を支配しているのは悪霊です。だから霊的な戦いは続きます。
 しかしイエス・キリストが再び来られるとき、全ての敵は滅ぼされます。
 全てのひざが主の前にひざまずき、イエスは主であると告白する日が来ます。

頭巾を脱ぐ

 またユダヤ人がかぶっている頭巾を脱ぐ日が来ます。
 解放の時が来ます。
 シンデレラのような逆転が起こります。

油注がれた者が来る

 後に再び主が権威を与えた者が来ます。それはキュロス王です。
 ペルシアの王キュロスはバビロンを倒しました。
 新たに中東一帯を支配したキュロス王は、ユダヤ人を解放し、エルサレムの神殿を再建するよう命じました。

 この約束は私たちに向けても語られています。
 主が権威を与えるというのは、油を注ぐということです。
 預言者、祭司、王として油注がれた者が来ることをユダヤ人は待ち望んでいました。
 油注がれた者をヘブライ語でメシア、ギリシア語でキリストと言います。
 旧約聖書で約束されたメシアとして来られたのがイエス・キリストです。
 イエス・キリストは私たちを奴隷の身分から解放し、神の国の王子、姫としました。
 そして主は私たちにも油を注ぎます。
 聖霊の油を注がれた私たちが、この世に遣わされていきます。捕われ人を解放するためです。
 私たちの周りのまだ主を知らない人々に、主の解放を宣言していく使命があります。

 主は私たちに剣を送ることがあります。それは私たちを愛するからです。
 一度立ち止まり、主の道に立ち帰りましょう。
 そして聖霊の油を受け、救いの福音を告げ知らせていくのです。

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