主のための労苦に無駄はない

エゼキエル書講解39

主のための労苦に無駄はない

エゼキエル書 29:17-21

17 第二十七年の一月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。18 「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。19 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはバビロンの王ネブカドレツァルにエジプトの土地を与える。彼はその富を運び去り、戦利品を分捕り、略奪をほしいままにする。こうして、エジプトは彼の軍隊の報酬となる。20 ティルスに対して費やした王の働きの報いとして、わたしは王にエジプトの土地を与える。彼らが、わたしに代わって、このことをしたからである、と主なる神は言われる。21 その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」

平和の訴えは無駄な労苦か

 8月は平和について考えさせられる季節です。
 73年前の8月、広島と長崎に原爆が落とされ、15日に戦争が終わりました。
 アジアの国々を侵略していった日本は、戦後作られた新しい憲法の中で、戦争の放棄を宣言しました。そして世界の平和のために貢献することを憲法の前文でうたっています。
 しかし武器を持たず平和平和と訴えるだけで平和が実現しますか。平和は大事だけど、力のない正義は意味がないじゃないですか。
 今もシリアや南スーダンなど、世界各地で紛争があります。テロもあります。そこで「戦争を止めましょう。平和に生きましょう」と訴えるだけで平和を作れるはずがないです。
 それは無駄な労苦に思えます。

 それで日本は平和ボケしたおかしな国ではなく、戦争ができる普通の国になる準備をしています。
 世界の平和のために積極的に貢献しようと言うんです。
 武力によって平和を作る。
 これは正しいですか?

 昔の日本も同じようなことを言いながらアジアを侵略しました。

エラスムス

 今から約500年前のヨーロッパで、エラスムスは平和を訴えました。
 彼は戦争が起こる理由を、一部の邪悪な人々の欲望だと言っています。
 大多数の人は戦争を望んでいません。
 しかし戦争によって金儲けをしたい人がいるんです。彼らは戦争の悲惨さを忘れさせ、平和のためだと言いながら戦争をします。
 そのような過ちを犯させないために、聖書に従うことを教えています。
 聖書に従うなら、戦争はできないはずです。
 「もし、祖国という呼名が和解を生み出すというのでしたら、この世界はすべての人間に共通の祖国ではありませんか。もし血のつながりが友好関係をつくるというのならば、われわれは皆同じ祖先から派生したものではありませんか。また、もし同じ一軒の家というものがそこに住む人びとの緊密な関係の絆となるというのでしたら、教会だってすべての者に共通で、われわれを一つの家族とするものではありませんか。」
 エラスムスのこの訴えにはどんな力があったでしょうか。

 残念ながら平和平和と訴えるだけでは何の力もありません。
 その後もヨーロッパでは戦争が続きました。
 じゃあエラスムスの労苦は無駄だったでしょうか。
 本当に無駄だったら、この本が今まで読み継がれることはなかったでしょう。
 エラスムスの「平和の訴え」は時代を超え、場所を超え、言語を超えて語り続けられています。そしてガンジーを始めとした世界の平和運動家に影響を与えました。
 今でも戦争はなくなっていませんが、この影響で防がれた戦争も多くあったはずです。

 イエス・キリストは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と言いました。
 主は私たちが平和を作る者になることを願っています。それが神の子の生き方です。

 戦争屋の邪悪な欲望に惑わされてはいけない。過去の戦争の悲惨さを忘れてはいけない。
 主の御心に従い、平和を訴えていく。
 それは無駄な労苦のように見えるでしょう。
 しかし主のための労苦に、無駄はありません。

バビロンへの預言

 今日の本文は主のために労苦したバビロンへの預言です。
 バビロンは10年以上続いた戦争でティルスを占領しました。しかしそこで労苦した兵士に十分な報酬はありませんでした。
 彼らは主の御心が成し遂げられるために働きました。だから主がエジプトの地を与えました。
 そして長い苦難の時代を歩むイスラエルのためにも、一人の人を立てると約束します。

空しい労苦

 まず今日の本文の17節18節で『17 第二十七年の一月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ。18 「人の子よ、バビロンの王ネブカドレツァルはティルスに対し、軍隊を差し向けて労苦の多い戦いを行わせた。すべての戦士の頭ははげ、肩は擦りむけてしまった。しかし、王もその軍隊も、ティルスに対して費やした労苦の報酬を何も得なかった。』 とあります。
 私たちはこの世で無駄な労苦をしているような気がしてガッカリすることがあります。

ティルスとの戦争

 バビロンの王ネブカドネザルはティルスと戦争をしました。
 ティルスは海に囲まれた要塞を持っています。攻めることが難しいです。戦争は13年続き、やっとティルスを占領しました。
 兵士たちはとても苦労しました。あまりに大変だったので、兵士たちは頭がはげてしまい、肩はすりむけてしまいました。
 戦争するにはこのように多くの負担がかかります。
 私たちも苦労して勉強して目が悪くなったり、いっぱい働いて顔にシワができたりした人たちもいますね。

報酬がない

 たくさん苦労して働いたら、たくさん報酬をもらいたいです。給料が高い仕事には高い理由があります。
 私は学生時代に色々なアルバイトをしました。一番時給が高かったのは家庭教師です。1時間当たり2500円もらっていたこともあります。これは今まで勉強した労苦が反映されています。
 次は牛丼屋の深夜バイトです。一人で調理、接客、掃除をしなければならない過酷な仕事でした。
 一方、単純な作業は大体安いです。不良品がないかチェックしたり、組み立てたりするだけのバイトは楽で、安いです。
 しかし単純作業でも高いバイトもありました。仕事内容は、船から魚を降ろすだけです。これで時給1000円でした。おいしい物件を見つけた!と思ってやってみました。
 高いのには理由があります。
 太平洋から帰って来たカツオ漁船でした。船の底に、冷凍されたカツオがぎっしり積まれています。それをハンマーで叩いて、取り出すのです。
 カチカチに凍っているので、固くて取れません。カツオをハンマーでガンガン叩きます。冷凍庫の中ですが、汗がダラダラ出てきます。
 しかも漁師たちの専門用語が飛び交っていて、意味がわかりません。指示されている意味がわからなくてちんたらしていると、船長に怒られました。
 漁師の怒り方は半端じゃないです。カチカチに凍ったカツオを投げて来るんです。カツオの口はとがっているので、少し刺さりました。
 もしこんな苦労をして働いて、給料が安かったら嫌になりますね。

 バビロンはティルスを占領しましたが、長い戦争でティルスは荒れ果て、何も残っていませんでした。
 苦労した兵たちに、報酬が払えなかったのです。
 これでは不満が爆発してしまいます。

公正じゃない世界

 この世界は公正ではありません。
 苦労したのに何も得られないということもあります。
 戦争というのはそういうものです。勝っても負けても、国民は疲れて終わりです。
 1904年に日本とロシアが戦争をしました。結果としては日本が勝ちました。
 ところがロシアから賠償金をもらうことができませんでした。この戦争のために莫大なお金が使われましたが、その支出を回収できません。
 またたくさんの若者たちが戦争に動員されたので国内の経済は大きく低下してしまいました。
 この国内の不満から目をそらすために日本が目をつけたのが朝鮮半島でした。
 このすぐ後、日本は韓国を占領します。

 残念ながら苦労した分いいことがあるというのは幻想です。
 たくさん勉強したのに、勉強した範囲がテストに出ない。たくさん練習したのに、ケガをして試合に出られない。たくさん残業したのに、残業代が出ない。家事や育児のためにたくさん働いたのに、家族の誰からも感謝されない。教会でたくさん奉仕したのに、何ももらえない。
 するとどうなりますか。ガッカリします。
 やっても無駄だ。もう勉強やめよう。運動やめよう。仕事やめよう。家事やめよう。奉仕やめよう。
 空しい、空しい、この世は空しい。
 こうしてこの世は私たちを落胆させます。

主に代わって働く

 次に今日の本文の19節20節に『19 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしはバビロンの王ネブカドレツァルにエジプトの土地を与える。彼はその富を運び去り、戦利品を分捕り、略奪をほしいままにする。こうして、エジプトは彼の軍隊の報酬となる。20 ティルスに対して費やした王の働きの報いとして、わたしは王にエジプトの土地を与える。彼らが、わたしに代わって、このことをしたからである、と主なる神は言われる。』 とあります。
 主のために労苦することは落胆ではなく喜びを生みます。

エジプトとの戦争

 ティルスとの戦争で何も得られなかったので、主はネブカドネザルにエジプトの土地を与えると約束します。
 エゼキエルが捕囚になって27年目のこの年、バビロンはエジプトと戦争をして勝利します。
 エジプトの王ファラオは戦死し、その遺体は荒野に捨てられました。それはまるで荒野に捨てられたワニのようでした。
 バビロンは戦利品としてエジプトの一部を支配しました。こうしてバビロンの兵たちは報酬を得ることができました。
 一時的に見ると無駄な労苦のように思えても、後で報われるということがあります。

預言の成就

 バビロンの兵がそのように報われた理由を、「彼らが、わたしに代わって、このことをしたからである」と主は言っています。
 バビロンが世界を支配したのはなぜでしょうか。
 ネブカドネザルが偉大だったからではありません。バビロン人が優秀だったからではありません。バビロンの神マルドゥクの力ではありません。
 ただ主の御心です。主の預言の成就なのです。
 バビロンは主が約束した通り、南ユダを滅ぼし、アンモンを滅ぼし、ティルスを滅ぼし、エジプトに勝利しました。
 バビロンは主の手にある道具として用いられたのです。

主は人を通して働く

 主のために人が働く必要があるでしょうか。
 私たち人は、他の誰かに助けてもらう必要があります。それは私たちが弱さを抱えた存在だからです。
 全能の神に弱さも足りなさもありません。人に助けてもらう必要などありません。
 しかし主は人を造ったとき、人に役割を与え、世界を支配させました。
 それはただ、人を愛しているからです。
 愛しているから、一緒に働きたいのです。

 親が小さな子どもにお願いすることがあります。
 子どもの助けが必要だからでしょうか。
 子どもに手伝ってもらうと、間違えるし上手くできないし時間がかかります。親が自分でやった方が早くきれいにできます。
 それなのに子どもと一緒にやるのはなぜですか。
 愛しているからです。

 私たち人は弱く足りない存在です。
 それにもかかわらず、神は私たちと一緒に働きたいと願っておられます。
 神は人を通して働くのです。

 イエス・キリストが復活してこの地上で生き続ければ、その奇跡で世界中の人が信じたと思いませんか。
 そもそも全能の神が人の心を造り変えて、みんな信じるようにすれば早いです。
 しかし主が選んだ方法は、人を通して働くことでした。
 キリストは天に上げられ、聖霊が降りました。
 そして与えられた賜物を活かし、宣教という愚かな方法を用いました。

 なぜ神がいるのに戦争がなくならないのか。神がやめさせたらいいではないか。
 神は確かに平和を願っています。それを神の子たちと一緒に実現することを願っています。
 こうして私たち一人一人がキリストの体として働きます。父なる神と一緒になって、働きます。

 このように主の御心のために労苦するとき、私たちは愛を知るのです。
 そして神に造られた人としての、本当の喜びを知ります。

無駄にならない

 最後に今日の本文の21節に『その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」』 とあります。
 主は私たちを贖い、報いてくださる方です。

一つの角

 21節で急にイスラエルの話が出てきます。
 イスラエルの家のために一つの角を生えさせる。
 角というのは権威の象徴です。ダニエルの幻の中では王の象徴として出てきます。詩編132編では角がメシアを表しています。
 その角が口を開きます。イスラエルのために何かを語るのです。

 捕囚になって27年目。国が滅びて16年になります。相変わらず捕囚の生活は続きます。
 バビロンは勢力を拡大し、ついにエジプトも打ち破ってしまいました。頼りにしていた葦の杖は折れてしまいました。
 イスラエルの回復の希望は全く見えません。
 しかしその中にあって、主はイスラエルのために一人の権威ある者を立て、イスラエルの回復のために語らせるのです。

主が報いる

 目の前の状況を見れば全く希望が持てません。
 しかし主は必ず私たちに報いてくださいます。
 イエス・キリストは墓まで下りました。
 私たちがこの世のどんな低いところにいるとしても、悲しみのどん底にいても、深い絶望にあるとしても、イエス・キリストはそこに共にいてくださいます。
 そしてやがて雲に乗り、栄光を帯びて迎えに来ます。
 そのとき主は私たち一人一人の目をご覧になり、目の涙をぬぐってくださいます。
 そのとき全てが贖われます。
 これは聖書の約束です。まだ実現していません。
 しかし確かなことです。見えない事実です。
 だから私たちに信仰が必要です。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

ヘブライ人への手紙11:6

 主が報いてくださる方であることを信じていなければ、私たちは主のために労苦することはできません。
 どんなよい行いをしても、信仰がなければ神に喜ばれることはありません。

 第27年の1月1日というのはエゼキエル書の中で一番新しい日付です。
 最期に語られた預言かもしれません。
 しかしこの時もまだイスラエルの回復は見えていませんでした。
 それでもエゼキエルは、エルサレムが再建されること、新しい神殿が建てられることを確信していたことでしょう。

主の業に常に励む

 主のために労苦しても、この世で労苦されることはほとんどありません。むしろバカにされます。
 誰も聞いてくれない。無駄だと笑われる。
 どんなに平和平和と訴えても、状況は変わらない。
 むしろ迫害を受け、血を流し、命を落とすこともあるかもしれません。
 しかし信仰者は死の力を打ち破ります。
 死のとげは抜かれ、何の力もありません。
 イエス・キリストが復活したからです。

 だから私たちは主の業に常に励みます。
 過去を乗りこえ、和解する。
 国や民族、あらゆる違いを超えて互いに愛し合う。平和を訴え続ける。
 この世の罪には血を流してでも抵抗する。
 主の愛を語り継げる。世を去る日まで。
 それは何一つ無駄になりません。

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

コリントの信徒への手紙一15:58

 主は私たちと一緒に働きたいと願っています。
 この世で労苦することは、ときに私たちをガッカリさせることがあります。
 この世で認められることがなくても、主のための労苦は何一つ無駄になりません。
 主が報いてくださいます。

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