主の祈り1
祈りとは
ヨハネによる福音書 14:14
わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
使徒信条のシリーズが終わり、主の祈りに入ります。
3年前に祈り会でも学びましたが、今回は礼拝のメッセージとして語り直します。
主の祈りを学ぶ前に、そもそも祈りとは何かということを考えてみます。
祈りとは何ですか?
私は呼吸のようなものだと思います。
私たちは普段、何気なく息をしています。
これを止めると、すぐに死ぬわけではありませんが、だんだん苦しくなってきます。
また、呼吸の仕方を学ぶことで体をリラックスさせたり、力を引き出したりできます。
祈りも、クリスチャンの日常生活の中で何気なく行われています。食事の時、何かを始めたり終えたりするとき祈ります。
もし祈らないクリスチャンがいたら、その人はだんだん力を失い、信仰生活が苦しくなっていきます。
祈りについて学ぶことで、祈りの力を体験するようになります。
神に願う
今日の本文でイエス様は「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と約束しています。
祈りは願うこと
祈りとは、願うことです。
こうなってほしいな。これが欲しいな。これはイヤだな。神様にそういう願いを訴えます。
これはキリスト教に限らず、他の宗教でも言えることです。宗教という枠に留まらず、人類皆が願いという形で祈りをしているとも言えます。
家族が健康で幸せに暮らせるように。仕事がうまくいくように。平和が守られるように。ジュビロ磐田がJ1に復帰できますように。世界中でこのような祈りがささげられています。
人間は霊的な存在として造られました。だから呼吸をするように人間は当然、祈りをします。
誰に願うのか
私たちが何かを願うとき、それを叶えてくれる相手に願うことが大事です。
七夕の時に短冊に願い事を書くという風習があります。
七夕は、天の川で隔てられた織姫と彦星が、一年に一回だけ再会できるという中国の神話が元になっています。
七夕の願い事は、誰にお願いしているのでしょうか。織姫と彦星にですか?
織姫さんも彦星さんも、一年ぶりの再会を楽しみにしていたはずです。二人の時間を大切にしてもらいましょうよ。私たちの願いを聞いている場合ではないでしょ。
短冊に願いを書くこと自体はいいと思いますが、願う相手を間違えてはいけません。
信頼をもって祈る
イエス様は「わたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と約束しています。
イエス様は神様ですから、私たちの願いを叶えることができます。
信じますか?
願う時には相手への信頼が大事です。
皆さんが「君ならできると信じているよ!」と言われた時と「ダメ元でやってみてくれない?」と言われた時の心はどうですか。
前者なら「やってみせます!」と信頼に応えようと思えるのに対し、後者ならできなくても仕方ないという気持ちになるのではないでしょうか。
ある父親が悪霊につかれた息子を助けてほしいと弟子たちに願いましたが、できませんでした。
イエス様が来たときにも半信半疑で、「できるなら、私たちを憐れんで助けてください」と願いました。
するとイエス様は言います。
イエスは言われた。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」
マルコによる福音書9:23
「弟子たちにできなかったから、イエス様も無理かもしれないけど…。もしできるなら助けてください。」と半信半疑で願ってはいけません。
「イエス様、あなたにはすべてが可能です。わたしの息子を助けてください!」と信頼をもって祈るなら、何でもできます。
「わたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
この約束を信じ、全能の神様にお願いしてください。
自分の願いではなく神の御心が中心
皆さんの心の中にはどのような願いがありますか?
私たちは悪い願いも持っています。
「神のようになれる」「禁じられた実を食べたい」この誘惑は強い願いとなり、神への反逆を引き起こしました。
皆さんの心の中にも、力を得て人を支配したい、宝くじを当てていつまでも夏休みを楽しみたい、復讐したいなどの願いがあるかもしれません。
たとえば「SNSでたくさんのいいねがほしい!インフルエンサーになって影響力を持ちたい!YouTuberになって好きなことして暮らしたい!」など。
それで「イエス様!私をバズらせてください!」と祈ったらどうなりますか。10万人のフォロワーが与えられますか。
いいえ、このような祈りは聞かれないでしょう。その心にあるのが、悪い願いだからです。
神様は何でもできますが、私たちに都合のいいことをしてくれる何でも屋さんではありません。ドラえもんのような便利なロボットではないのです。
私たちを破滅へ向かわせるようなことはしない、愛の神様です。
だから私たちの心にある悪い願いを捨てなければなりません。
罪の告白
祈りを呼吸にたとえました。
きれいな空気を吸うためには、先に吐き出す必要があります。
二酸化炭素を吐き出すように、あなたの罪を吐き出してください。
罪を悔い改めないなら、正しい心で神様に祈ることはできません。
15 また、あなたがたが両手を広げても/私は目をそらし/あなたがたが祈りを多く献げても、聞くことはない。/あなたがたの手は血にまみれている。16 洗え。身を清くせよ。/あなたがたの悪い行いを私の目の前から取り除け。/悪を行うことをやめよ。
イザヤ書1:15-16
汚れた手を洗わないと、聖い神様からの祈りの答えを受け取れません。
聖霊によって祈りが変えられる
息を吐いたら、吸います。
きれいな空気が体に入り、体を生かします。
罪を悔い改めた後に求めるのは、聖霊です。神の息吹、聖霊が私たちの心を新しくします。
そうすると私たちの願いの方向性が変わります。
神様に背いて自分を高めようとする祈りから、神様を賛美する祈りに変えられます。
自分が満たされることばかりを願う利己的な祈りから、他の人に与えること仕えることを願う利他的な祈りに変えられます。
ないものに目を留めて不平不満が尽きない祈りから、与えられているものに目を留めて感謝する祈りに変えられます。
「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と神様の御心が中心になるのです。
そして罪深い者を救ってくださった神の憐れみへの感謝があふれてきます。
ヨハネはこのように言います。
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
ヨハネの手紙一5:14
祈りの方向性は、自分の願いが叶えられることではなく、神様の御心を知ることです。
イエスの名で祈る
神様の御心に一致した祈りが大事なら、私たちは神様が喜びそうなお行儀のいい祈りをしたらいいですね。「神様感謝します。愛します。」
全く感謝していないのに、神様を喜ばせようと思って心にないことを言っています。
これはまるで親の顔色をうかがう子どものようです。
親を怒らせないように、わざと親が喜ぶような返事をします。「お父様、お母様、いつもありがとうございます。愛しています。」
このような子どもは表面的にはいい子ですが、親を愛してはおらず、反逆の機会を狙っています。無理して神様が喜ぶような祈りをしようとしないでください。
御心から離れた私たちの祈りをイエス様が届けてくれる
今日の本文でイエス様は「わたしの名によって」願いなさいと言っています。
私たちの祈りを、大祭司イエス様が届けてくれます。
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブライ人への手紙4:16
イエス様は私たちの弱さを知った上で、祈りを届けてくれます。そして必要な助けを与えてくれます。
私たちが神様の御心から遠く離れた自己中心的な者であることもよく知っています。私たちの幼稚で自分勝手な祈りも、イエス様はちゃんと聞いてくれています。
だから、神様を喜ばせようといい子ちゃんの祈りをしなくてもいいです。
あれが欲しい!これはイヤだ!そんな素直な思いを大胆に祈ってください。
そうしていく中で「私はこれがイヤです。この杯は飲みたくありません。でもわたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 と、私たちの願いが神様の御心と一致したものになっていきます。
整理すると、祈りとはこのようなことだと言えます。
祈りとは、神の御心に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。
ウェストミンスター小教理問答第98問の答え
祈りはクリスチャンに与えられた特権です。
神の子としての力を引き出す呼吸です。
これまで何気なく祈っていた祈りを、意識してみてください。
呼吸を整えるように、祈りに集中するのです。
そうして祈る度にあなたの祈りは変えられ、祈りの力を体験していきます。