主の祈り2 天にいる私たちの父へ

主の祈り2

天にいる私たちの父へ

ローマの信徒への手紙 8:14-16

14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

話しやすい人

 話しやすい人っていますよね。
 柔らかい態度で、自分の話を最後まで聞いてくれたり、適度に反応したりしてくれると話しやすいです。
 逆に、この人は話を聞いくれないと感じたら話したくなくなります。
 「ちゃんと話しなさい!言わないとわかりません!」と怒られると、この人とは本音で話すのをやめようと思います。

 祈りは神様と話すことだと言われることがあります。
 神様はあなたの話をどのように聞いてくださるお方ですか?

祈りの対象は天地の創造主

 木や石で作られた像や紙切れが入ったお守りは、祈っても答えてくれません。ただ一方通行です。
 お地蔵さんに手を合わせて祈っても、無反応。
 これでは独り言をつぶやいているのと同じです。
 祈りというのはただ自分に言い聞かせて、暗示をかけるようなものだと考える人もいます。
 そのような祈りを続けていたら、頭がおかしくなりそうですね。
 返事をしてくれたらいいのですが。

祈りに応える生ける神

 コロナの流行が始まった頃、世界中の都市で家から出ることが禁止されました。誰にも会わない生活が続きます。
 そんな時、フランスの精神科医師会がこのような声明を出しました。

 「長引く外出禁止の結果、壁や植物に向かって話すことは正常であり、相談に来ることはありません。
  そのかわり、壁や植物が返事をしたらすぐ連絡してください。」

 これはジョークですが、祈りで神様と話すというのもおかしなことでしょうか。
 壁や植物が返事をしたらヤバいです。生きていないのですから。
 しかし神様が返事をすることは正常です。生きているのですから。

神に呼びかける

 イエス様は弟子たちに祈りを教えるとき、「天におられるわたしたちの父よ」と祈り始めました。
 祈りは天にいる私たちの父に呼びかけるところから始まります。
 木や石のような物質ではありません。生きておられる神様です。
 人間に話しかけるのとも違います。創造主、全能の神です。
 この神様は霊であり、知恵、力、聖、義、真実において無限、永遠、不変のお方です。
 このようなお方は三位一体の神様の他にいません。

力ある神に祈る

 助けが必要なとき、誰に助けを求めますか。

 溺れる者はワラをもつかむ。ワラはすぐ折れます。

 ネコの手も借りたい。ネコは勝手に出て行きます。

 助ける力のある方に助けを求めてください。

1 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

詩編121:1-2

 私たちが祈るべき相手は天地の造り主、全能の神、天にいる私たちの父です。

畏れと親しみ

 この神様に対して私たちはどのような態度で接することができるでしょうか。

偉大な神への畏れ

 まずは畏れです。
 私たちは自分を超越した存在に出会うと畏れを感じます。
 この畏れは相手の素晴らしさに対して尊敬する思い、畏怖です。
 山や海など雄大な自然を見て、感動したことはありませんか。私は富士山を見たときに感動しました。
 山もすごいですが、この山をも造られた神様がいます。
 この人間を超越した偉大な神様が、私たち一人一人を見守っています。眠ることなく見守り、髪の毛の数まで数えています。
 そして私たちの祈りに耳を傾け、答えてくださるのです。大声で叫ばなくても心の中で人知れず願ったことまで神様は聞いています。
 すごいことですね。感動をもって祈ることができます。

神を恐れる奴隷

 畏怖の畏れは恐怖の恐れとは違います。
 地震、雷、火事、オヤジも恐いけれど、それを超えた神様はもっと恐い。
 独裁国家の監視カメラ以上に私たち一人一人を見張っている。
 すべての発言、思想が検閲されている。
 そう思うと、私たちは素直な祈りができません。
 神様を怒らせないように、きれいごとしか祈れなくなります。
 主人を恐れる奴隷のようです。

神を父と呼べる神の子

 神様との関係が壊れていると、神様をそのように恐ろしい存在だと勘違いします。
 その壊れた関係は修復され、和解しました。
 イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んで復活されたからです。
 イエス・キリストを信じる私たちは聖霊によってキリストと結ばれ、神の子とされています。
 もはや私たちは神を恐れる奴隷ではなく、神の子です。

 だから私たちは神様に対して親しみをもって話すことができます。
 神様を父と呼ぶことができること自体が、親しさの表れです。

 親しい人とは何を話しますか?
 悩みを相談することや、社会の問題について話すこともあるでしょう。
 それだけではありませんね。日常のささいなことも話します。楽しかったこと、うれしかったこと、悲しかったこと。それにどうでもいい話。神様に対して、こういうことも話せます。

不完全な父ではない

 父という存在に対して抱く思いは人それぞれです。
 否定的な思いを抱く人もいるでしょう。父という存在を知らずに育った人もいるかもしれません。
 そういう人はただ「神様」と祈るだけでもいいです。

 しかしあなたの父のイメージによって神様のイメージを損ねるべきではありません。
 間違ったイメージを捨てて、聖書のいう神様に出会ってください。
 この方は、いつも良いお方です。私たちの祈りを聞き、最もふさわしい時に最もふさわしいものを与えてくださいます。
 そしてあなたを背負い助け出してくださいます。

3 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。4 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

イザヤ書46:3-4

 幼いころ、広い背中に背負われたことや温かい胸に抱かれたことを覚えていますか。
 覚えていないかもしれませんが、少なくとも赤ちゃんの時には誰かに抱っこしてもらったはずです。誰からも抱かれずに育つ赤ちゃんはいないです。

 今、自分で自分を抱きしめてあげてください。

 温かさを感じます。

 神様はあなたを抱いています。
 その大きな愛に包まれている中で、今日あった楽しかったこと、うれしかったこと、悲しかったこと、どうでもいい話をします。
 私たちは「アッバ、父よ」と呼ぶことができる神の子です。

私たちの祈り

 最後に、主の祈りは「私たち」の祈りです。
 イエス様は「天におられるわたしの父よ」ではなく、「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさいと教えられました。
 私たちは心を合わせて共に祈ります。
 この祈りは世界中でささげられています。
 たとえ場所や時間が離れていても、祈りは空間も時間も超えます。
 世界中の歴史上のあらゆるクリスチャンが同じ祈りをささげます。
 独りぼっちだとしても、祈りの中でつながることができます。
 そして私たちが祈るとき、そこにイエス様も共にいます。

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