主の祈り3
御名があがめられるように
詩編 103:1
【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。
神の恵みを体験させた祈り
ユダヤ教の教師ラビたちの教えをまとめた本に、このような話が記録されています。
紀元前1世紀、ユダヤを深刻な干ばつが襲いました。1年以上も雨が降っていないのです。
預言者マラキの時代から約400年。神の言葉が新たに語られることはなく、奇跡は遠い昔の幻となっていました。
そんな時代に、一人の祈りの勇士がいました。
ホニという名のその人は、2メートル近い杖を手に持ち、自分を中心に地面に円を描きました。
何が起きるのだろうかと群衆が見守る中、ホニはひざまずいて天に向かって両手を上げ、こう宣言しました。
「万物の主よ、大いなる御名の前で誓います。あなたがあなたの子どもたちにあわれみを示してくださるまでは、私は決してこの円から出ません。」
ホニがこう祈ると、群衆の額にぽつりぽつりと冷たいものが当たりました。
雨です。
待ちに待った雨に群衆は歓声を上げました。
しかしホニはまだひざまずき、頭を垂れています。
そしてこう祈りました。
「いいえ、この程度の雨ではなく、ため池もくぼ地も洞窟も満たすほどの雨を降らせていただきたいのです。」
すると雨はどしゃ降りに変わりました。
あまりの大雨に、群衆は高台に避難しました。
ただホニだけは円の中に留まっています。
そしてこう祈りました。
「このような雨ではなく、あなたの恵み、祝福、慈悲を降り注いでいただきたいのです。」
すると雨は静かで穏やかなものに変わりました。
それはまさに神の恵みの雨であり、大地を潤し、人々に神への賛美をわき立たせるものでした。
「サークル・メーカー」(マーク・バターソン いのちのことば社)より
神があがめられるように
今日は主の祈りの3回目です。
主の祈りの中には、6つの願いが含まれています。前半の3つは神の栄光のための願い、後半の3つは私たちの必要のための願いです。
今日は1つ目の願い、「願わくは御名をあがめさせたまえ」について学んでいきます。
御名とは
御名というのは祈りのときに使うことはありますが、普段は使わない言葉です。
御名とは何でしょう。
名前を丁寧に言い換えたものだと言うこともできます。
すると「御名をあがめさせたまえ」という祈りは、神様の名前があがめられることを祈っているということですね。
では神様の名前とは何でしょう。
「わたしはある」?「ヤハウェ」?
神様の名前については、十戒との関係でややこしい問題が出てきます。
大事なのは神様の名前が何かということではなく、神様がどのようなお方かと言うことです。
創造主、全知全能、愛と正義のお方。
だから神の御名とは、神がご自分を知らせるために用いられるすべてのことです。
そこには神様の名前も含まれるし、神様を呼ぶときにつけられる称号、神様の持つ属性、また神様がお定めになったことや、御言葉や御業も含まれます。
「御名をあがめさせたまえ」という願いは、あらゆるかたちで「神様があがめられますように」ということと同じだと言えます。
第一に神があがめられることを願う
主の祈りの6つの願いの第一が「御名をあがめさせたまえ」ということは、神様があがめられることは私たちにとって重要なことだということです。
そして神様があがめられていない現実があるわけです。
どうでしょう。皆さんは物事が上手く行ったとき、自分をほめたたえていませんか。仕事や勉強が順調で、健康で、お金に不自由しない。すると神様のことを考えなくなります。
逆に物事が上手くいかない時は神様を呪っていませんか。
困難にあったときばかり神様に不平不満を言い、普段は神様を忘れてしまいます。
イエス様は山上の説教で、神様のことを第一にしなさいと教えています。
エリヤの時代に国がバアル崇拝に染まり、神様があがめられなくなったこともありました。
このように偶像崇拝や無神論が広まることで、神様があがめられなくなることもあります。
今この世界に生きる私たちは、第一に神様があがめられることを願いなさいと教えられています。
人生を通して神があがめられる
ではどのようにすれば神様があがめられるのでしょう。
まずは私たちの人生を通してです。
今日の本文でダビデは「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。」とうたっています。
残念ながら自分の内にある自然な思いは神様のことを考えもしません。
真理の霊である聖霊の助けで、神様を知り、神様をあがめられるようになります。
まずは自分自身が神様をあがめる者になれるように求めてください。
そのために礼拝に参加すること、聖書を読むこと、祈ることは大事です。そこで恵みを受け、神様への賛美がわき上がってきます。
どんな時も神を賛美できる
また聖霊は私たちの信仰の目を開き、耳を開きます。
今まで何気なく見過ごしてきたささいな出来事の中に、神の恵みが十分注がれていたことに気づきます。
輝く太陽を仰ぐとき、月や星をながめるとき、絶えず注がれる神様の恵みを見ます。
森で鳥の声を聞き、谷間を流れる川の音を聞くとき、すべての作られたものが共にささげる賛美を聞きます。
そのような何気ない日常にあって神様を賛美する心が起こります。
逆境や問題の中にあっても、インマヌエルの神が共におられ、神の偉大な力が人の弱さを通して輝くことを見ます。
だからどんな時も神を賛美することが可能です。
成熟した信仰者を見て神があがめられる
そのような皆さんの姿を見て、人々は神をあがめるようになります。
職場や学校で、家庭で、皆さんの生き方は見られています。
あの人はなぜいつも喜び感謝しているのだろう。そうか、彼はクリスチャンだからか。彼が信じているイエス様は本物の神様だ。
キリストの似姿に変えられた私たちによって、神様があがめられます。
パウロは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても神の栄光のためにしなさいと言いました。
より幅広く、私たちの生き方を通して神の栄光が現わされます。
クリスチャンのアスリートがインタビューなどで「神様は私の力です」と答えたりします。スポーツを通しても神様があがめられます。
プロのスポーツ選手でなくても、神のかたちにつくられた私たちが活躍するとき、神様があがめられます。
人間としての力が発揮されるとき、その人を造られた神様があがめられます。
そのためによく勉強し、よく運動してください。日常の生活は大事です。
聖霊は私たちをキリストに結ばせ、成熟させ、実を結ばせます。
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ヨハネによる福音書15:8
信仰において成熟した私たちの人生を通して、神様があがめられます。
神の導きが明らかになって神があがめられる
また、この世界の中で神様の導きが明らかになるようなことを通して神様があがめられます。
罪と悲惨に満ちたこの世界
罪と悲惨に満ちたこの世界の中で、人々は思います。神がいるなら、なぜこのような出来事が起こるのか。
戦争によって人々の命が奪われている。地震や洪水によって何千何万もの命が奪われる。
神などいないのではないですか。神は愛だなんてウソだ。
祈っても目の前の苦しみは変わらない。祈って何になるのか。
人間の力で解決できない問題が解決されたら
祈っても仕方ないと思われるような時にこそ、祈りは重要です。
1年以上干ばつが続く中で、人々は井戸を掘るなど、できる限りのことをしたでしょう。
しかし人間の力ではどうしようもありませんでした。
その状況を変えたのは、ホニの祈りでした。
1人の祈りの勇士によって神の恵みが降り注ぎ、人々は神をあがめました。
この世界の問題を解決するために何ができるでしょう。
募金をするとか、自分にできる限りのことはします。
そして私たちは祈ることができます。
人間の力で解決できない問題が解決されたなら、それは神の御業としか言えません。
この世界の罪と悲惨が取り除かれていくとき、神様があがめられます。
どんでん返し
祈りの勇士と言えばエリヤです。
エリヤの時代、主の預言者たちはバアルを崇拝する王によって処刑されていました。ただ1人エリヤだけが生き残っています。
イスラエルの民は主への信仰を忘れ、バアル崇拝に流されていました。
主への信仰が消えかかっている中で、エリヤはバアルの預言者と対決し、こう祈りました。
37 わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」38 すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。39 これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。
列王記上18:37-39
神様は本当に生きておられるのだと感じるとき、人々は神様をあがめるようになります。
死の力を打ち破り復活されたキリストは逆転の神様です。
死という、すべてが終ってしまったかのように思える絶望的状況をキリストは逆転させ、キリストは今も生きています。
どん底のような状態から大逆転が起こることもあります。
神などいないと思えるような罪と悲惨の状況が、1人の祈りによって逆転します。
そして人々は「主こそ神です。主こそ神です。」と神をあがめます。
今は神があがめられていない現実があるけれども、最終的にはすべての舌がイエスは主であると告白し、神をあがめるような大逆転が起きるでしょう。
私たちは主の祈りの1つ目の願いで主の御名があがめられることを願います。
まずは自分自身が神をあがめる信仰者として成熟できるように。
そしてこの世界に神様の素晴らしさが満ちあふれていくよう祈っていきましょう。