主の祈り5
神の御心を果たす者
詩編 103:17-21
17 主の慈しみは世々とこしえに/主を畏れる人の上にあり/恵みの御業は子らの子らに 18 主の契約を守る人/命令を心に留めて行う人に及ぶ。19 主は天に御座を固く据え/主権をもってすべてを統治される。20 御使いたちよ、主をたたえよ/主の語られる声を聞き/御言葉を成し遂げるものよ/力ある勇士たちよ。21 主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ。
御心が果たされていない世界
今日は主の祈りの5回目です。主の祈りの第3の願い「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」を見ていきます。
御心というのは神様が願っていることです。今日の本文にある御旨もだいたい同じ意味です。
神が許したことしか起こらない
イエス様が「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈りなさいと教えたということは、神様の願っていることが天では行われているけれど、地上では行われていないということです。
全く行われていないわけではありません。箴言には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」とあります。主の御旨は実現しています。神様の摂理は今も働いていて、神様の御心でないことは起こりません。
神様が「こんなことが起こるなんて!どうしよう」と慌てふためくことはありません。
一羽のスズメさえ、神様の御心でなければ地に落ちることはないのです。
「主は天に御座を固く据え/主権をもってすべてを統治される。」とあるように、神様は今も生きておられ、すべてを治めています。
神は地上の現実に心を痛めている
しかし完全に神様の御心が成し遂げられているわけではありません。
先週見たように、この世界は人間の罪のために壊れています。そしてサタンの支配下にあり、罪と悲惨に満ちています。
先ほどハンガーゼロの講演動画を見ましたが、内戦によって住む場所を追われ、貧困や飢餓の問題があり、子どもたちに教育を受けさせることができず、人と人とが憎しみ殺し合っていました。
これはコンゴだけではありません。世界中で起きていることです。
このような状況を見て神様が、「よしよし、上手く行っている。」とほほ笑んでいるわけがありません。
私たちに神様の御心は完全にはわかりません。それでもこの世界の現実に神様が納得しているはずはないと思います。
ヨブに悲劇が襲ったとき、神様はサタンに許可を与えました。
人間にとって悲劇に思えることさえも、神様がそれを許したので起きています。あくまで神様の許容範囲の中ではありますが、サタンの支配下となった地上で悲劇が起こります。
神様は心を痛めながら地上の罪と悲惨を見ています。
神は人を通して働く
天では天使たちが御心を果たす
天では神様の御心が行われています。
今日の本文によると、天使たちによって神の御心が果たされています。
「御使いたちよ、主をたたえよ/主の語られる声を聞き/御言葉を成し遂げるものよ/力ある勇士たちよ。主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ。」
神は人に御言葉を告げた
地上では誰が神の御心を果たすのでしょうか。
旧約聖書を見ると天使たちがソドムとゴモラを滅ぼしたり、天まで届く階段を上り下りする様子が描かれたりしています。
このように天使も地上で働くことがありますが、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と命じられたのはアダムであり、箱舟を作れと命じられたのはノアであり、イスラエルの民を導き出すように命じられたのはモーセでした。
神様は人に御言葉を告げ、それに従うよう求めます。
地上では人に、神の御心を果たす役割が求められています。
神様は人を通して働くのです。
御心を果たすために祈る
人には御心を知る力も行う力もない
残念ながら人には神様の御心を知る力も行う力もありません。
宗教指導者たちは神様の御言葉に従うことを求め、安息日に働くことを禁じたり、いけにえをささげたりしていました。
その様子を見て神様は「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている」と言います。
御言葉に従っているように見えるけれども、その上辺だけの行いは御心から遠く離れていました。
新約聖書の多くを書いたパウロ先生でさえこう言っています。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
ローマの信徒への手紙 7:18
人間には神の御心を果たすことができません。
祈りなしに神の御心は果たせない
だから祈りなさいとイエス様は言います。
イエス様でさえ、祈りなしには何もできませんでした。
一日の初めに人里離れたところで祈りました。
奇跡を行う時も祈りました。
十字架に向かう前にも「御心に適うことが行われますように」と祈りました。
神の御子でさえ神の御心を行うために祈ったのだから、私たちが神の御心を果たすために祈りは欠かせません。
御心を知る力を求める
まずは御心を知る力を求めてください。
神様は何を願っているのでしょうか。
進路をどうすべきか?誰と結婚するべきか?今日の昼ごはんをどうするか?
どちらにするべきか迷うことはたくさんあります。
どちらにするかは大した問題ではありません。
神の御心はAかBか、ではありません。どう生きるかが大事です。
人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6:8
神様が人に求めているのは、神と共に歩む存在になることです。
それは羊飼いに従う羊のようです。
羊飼いの言葉をよく聞く羊のように、御言葉をよく聞いてください。
聖書を読みんだり祈ったりして神様の言葉を聞き、神様のもとに留まるのです。
御心を行う力を求める
そして御心を行う力を求めてください。
何をしたらよいでしょう。
神様はこの世を愛しています。そしてこの世界の現状に心を痛めておられます。
戦争があり、災害が起こり、人が人として生きる自由を奪われています。
これらの問題を解決するために世界に飛び出すべきでしょうか。
そのように召される人もいますが、御心を行うべきところはもっと身近にあるかもしれません。
一人の救いこそ神の御心
神様はあまりにも世を愛されたので、一人も滅びないで永遠の命を受けられるよう、独り子を与えてくださいました。
99匹を置いてでも、失われた1匹を探して救い出します。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
マタイによる福音書18:14
小さな者が一人でも滅びることは父なる神の御心ではありません。
一人の魂の救いこそが、神の御心です。
その救われるべき魂は、私たちの身近なところにいます。
飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅人に部屋を貸し、着るものがない人に服を与え、病気の人を見舞い、孤独の中にいる人を訪ねる。小さな者の一人に手を差し伸べることをイエス様は求めています。
愛の実践ができるよう求めてください。
キリストの体として生きる
イエス様は十字架上で「成し遂げられた」と言いました。救いのための神の御心は十字架で成し遂げられました。
それを人々に伝える役割は、聖霊を受けた私たちに委ねられています。
キリストの手となり足となり、頭であるキリストの御心を果たしていくのです。
神様の目は今、どこに向いているでしょうか。私たちの目もそこに向けていきたいです。
それは低く暗く冷たいところかもしれません。私たちが見ないように目を背けてきたところかもしれません。
神様の眼差しが向かうのなら、私たちはそこから目を背けていてはいけません。
神様が愛しておられるものを愛したいです。
このような人は救われる資格がないとか教会に来るべきではとか遠ざけていた人がいるかもしれません。
その人も、その人こそ、神様に愛されている人かもしれません。
これまで愛せなかった人を愛せるように求めてください。
そして神様の手にある道具として用いていただきましょう。
地上で神の御心を果たす者は誰か
神様は問います。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。地上で神の御心を果たす者は誰か。」
その時このように答えます。
「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」