主の祈り7
罪の赦しを祈る
マタイによる福音書 18:23-35
23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
罪の赦しなしに平安なし
今日は主の祈りの7回目。主の祈りの第5の願い「我らに罪を犯すものを者を我らがゆるすごとく/我らの罪をもゆるしたまえ」についてです。
前回、第4の願いはこの世の良いものを求める祈りであると学びました。
第5の願いでは罪の赦しを祈ります。
もし衣食住が満たされ、健康で、お金の心配もなく、健全な人間関係の中で生きられたとしても、罪の赦しがなければ平安はありません。
罪とは神から離れた状態であると言えます。
枝が木から離れていれば枯れます。
糸が切れた凧はどこに行くかわかりません。
罪の中にあるとき、人の体は生きていても霊は死んでいます。「お前はもう死んでいる」状態です。
そしてイエス・キリストが帰って来るとき、罪の中にあるものはすべて滅ぼされるのです。
限りあるこの世の人生で必要が十分に満たされたとしても、永遠の滅びに入るとしたら何の意味もありません。
恐ろしいですね。
神様もそんな結末を望んでいません。神から離れた罪人が帰って来て命を受けることを願っています。
神は誰の死も喜ばず、「立ち返って生きよ」と言われます。
神は私たちを愛し、私たちが一人も滅びることなく永遠の命を受けられるように、独り子イエス様を与えてくださいました。
神に立ち帰り、罪の赦しを受け取ってください。
そして罪赦された者として生きるのです。
赦される恵み
返しきれない借金
今日の本文はイエス様が語られたたとえ話です。
ペトロが他の人の罪を赦すことについて質問したとき、このたとえを語られました。
王様は神様を表しています。家来たちは私たち人間のことです。
ある家来は王様に1万タラントンの借金をしています。
1タラントンは6000デナリオンになります。1デナリオンは1日分の給料になりますが、ここでは1万円にしておきましょう。
そうすると1万タラントンとは、10,000×6,000×10,000=600,000,000,000 6千億円になります。
桁が大きすぎてワケが分かりません。一般庶民には一生かかっても返せない金額です。
償いきれない罪
家来が王様に対して負っている借金、これは人が神様に対して犯した罪の大きさを表しています。
私たち人間は神様に償いきれないほどの罪を犯しています。
返すことのできない借金をなくすにはどうしたらいいでしょうか。
妻、子ども、家、持ち物を全部売っても全く足りません。
唯一の方法は、裁判所に行って自己破産の手続きをすること。
このたとえの中では、王様が借金を帳消しにすることです。
王様は家来を憐れに思い、一方的に彼を赦し、借金を帳消しにしました。
私たちの罪は人間の力では解決できません。神からの赦しを受けるしかないのです。
人を罪から救うことができるのはキリストのみ
神様からの赦しを受け取る方法として、旧約時代は動物のいけにえをささげることが命じられていました。血を流すこと、つまり命をささげることで罪から清められます。
しかし人間の罪を動物が負うことはできません。この方法では不十分で、繰り返し繰り返し動物の血を流さなければなりませんでした。
人間の罪を解決するためには、人間が血を流さなければなりません。
ところが人は皆、罪を犯した状態にあります。人の罪のために、すべての造られたものは壊れています。
汚れた雑巾で拭くと汚れが広がるだけ。
罪のない存在だけが、罪を取り除くことができます。
すべての造られたものが罪で汚れているということは、罪のない存在がいるなら造られていないもの。それは造り主である神様しかいません。
人を罪から救うことができるのは、人となられた神、イエス・キリストだけ。
私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか与えられていないのです。
洗礼者ヨハネはイエス・キリストを「世の罪を取り除く神の小羊」だと言いました。
罪なき神の独り子イエス・キリストが十字架で血を流し死なれたことで、私たちの罪の償いは完了しました。
そして死ぬべき罪人であった私たちが、復活のキリストと共に新しい命に生かされるのです。
繰り返し罪を犯しても赦される
王様はこの家来を無条件で赦しました。彼はもう借金がない生活を送ることができます。
私たちはイエス・キリストを信じる時、無償で義とされます。ただ信仰で救われ、罪赦された者として生きることができます。
もう罪の奴隷ではなく、自由な神の子です。
しかし借金がなくなったからと言って、この家来の生き方がすぐ変わるとは限りません。
お酒を飲みに行っては「王様のツケにしといてくれ!」と言い、給料が入ればギャンブルに使ってしまう。そのような過ちを繰り返し、また借金を作ってしまう。
私たちも古い生き方そのままに、再び罪を犯して神様から離れてしまいます。
そうすると今まで以上に心が責められるかもしれません。またやってしまった。二度目はないだろう。バレたら人生終わりだ。
しかし隠すことはできません。神様の目にはすべてが明らかです。
では神様はあなたをどのような目で見ていますか。
主の祈りの最初の言葉を学んだ時に話したように、神様は愛の眼差しで見守っています。
赤ちゃんや子どもが失敗するとしても、親は温かく見守りますね。
ごはんをきれいに食べられずこぼしても、トイレが上手くできなくて汚しても、またやったのか!出ていけ!なんて言いませんよね。
上手くできないことを当然のこととして受け止め、汚れを取ってきれいにし、わが子の成長を見守ります。
神の子として新しく生まれた私たちはまだ成長の途中。繰り返し罪を犯します。
それでも神の子でなくなることはありません。救いは取り消されません。
私たちには「もう神様に合わせる顔がない。クリスチャン失格だ」と思うようなことがあるかもしれません。
もう息子と呼ばれる資格がないと思った放蕩息子でも、父は無条件で受け止めます。あなたはわたしの愛する子と言ってくださいます。
だから安心して神様のところに立ち帰ってください。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの手紙一1:9
赦す力
主の祈りでは「我らに罪を犯すものを者を我らがゆるすごとく/我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ります。
前半は自分に対して罪を犯す人を自分が赦しますという内容。後半は自分の罪を赦してくださいという祈りになっています。
この前半と後半はどのような関係にあるのでしょうか。
「神に自分の罪を赦していただくために、まず自分が人の罪を赦すべきだ」という赦しの条件なのでしょうか。
「私は人の罪を赦しました。だから私の罪も赦してください。」という取引なのでしょうか。
それとも「神様が自分の罪を赦してくださったように、自分も人を赦します」という模範なのでしょうか。
仲間を赦せない家来
今日の本文で6千億円の借金をしていた家来が、王様から赦され借金がなくなりました。
ハッピーエンド
…で終わりません。
赦されて自由になり、幸せな気持ちで王宮を出ました。
するとそこに、酒飲み仲間がいました。
「そういえば『病気の妻の治療費で100万円必要なんだ』って言うから、あいつに金貸したんだ。」
100万円は一般庶民でもわかる大金です。彼は何だか自分が損をしたような気分になってきて、仲間を捕まえると首を絞め、『借金を返せ』と言いました。
そんな急に言われても困ります。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と何度も頼みましたが、赦してもらえず、牢に入れられてしまいました。
無茶苦茶な話です。
これを知った王は6千億円の借金をしていた家来を呼び出し『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言い、借金を返すまでと、彼を牢に入れました。
この人は自分の6千億円の借金を帳消しにしてもらったのです。それなのに自分に対する100万円の借金を赦すことができませんでした。
割合としては60万分の1。0に等しい額です。
それに目くじらを立てるというのは、彼が自分の赦された借金の大きさ、赦してくれた王の寛大さがわかっていないということです。
もし自分が赦された恵みを本当に受け取ったなら、仲間の借金も帳消しにできます。0に等しいのですから。
赦しの恵みを受け取り、人を赦す
このたとえで借金は罪を表わします。
私たちは自分の罪をキリストの十字架によって赦していただきました。
それなのに私たちは、自分に罪を犯す者を赦すことができません。
自分がされたこと、してもらえなかったことが忘れられません。
いつか同じ目にあわせてやりたい。いや、「やられたらやり返す、倍返しだ!」
そうして私たちは自分に罪を犯す者を怒りと憎しみの監獄に閉じ込めます。
1回2回は忍耐できても、同じ過ちを3回も4回も繰り返されると耐えられません。
そのような私たちに神は、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と問いかけます。
私たちが本当に赦しの恵みを受け取ったなら、私たちも自分に罪を犯した人を赦すことができます。
このたとえから考えれば、主の祈りで私たちは「神様が自分の罪を赦してくださったように、自分も人を赦します」 と宣言していると言えます。
赦せない相手のために祈る
これは人を赦す義務を負ったということではありません。
歯を食いしばりながら、無理やり「赦し…ます…ぐぬぬ」と言わなくていいです。
赦された私たちは赦す力をいただきました。赦すかどうかは私たちの自由な選択です。
どうしても赦せない相手もいるでしょう。
自分の人生をぶち壊したあの野郎。自分の大切な存在を傷つけたこの野郎。
そんな敵を赦すことなどできません。
だからイエス様は罪の赦しのために祈りなさいと言います。
イエス様自身、自分に罪を犯す者の赦しのために祈りました。
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
ルカによる福音書23:34a
赦すことで自分が自由になる
イエス様はこのたとえ話の結論として「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 と言います。
ここだけ見れば罪を赦すことが赦される条件のようにも見えますが、赦しは神の一方的な恵みです。そのような条件は必要ありません。
天の父はどのような意味で同じようになさるのでしょう。
それは牢に入れるという点です。
人を赦さないなら、その人は怒りと憎しみの監獄に閉じ込められます。
赦せない相手を監獄に閉じ込めたつもりだったのに、その相手はのほほんと自由に暮らしています。
気づけば、監獄の中にいたのは自分の方でした。
私たちが人を赦すとき、私たち自身が赦しの恵みを体験します。
赦すことで問題をうやむやにしてはいけない
一つ気をつけなければいけないのは、赦すというのは何でも許可するという意味ではありません。
何でもいいよいいよと、なかったことにしてはいけない問題もあります。
相手が犯した行為の責任は、本人が負うべきものです。
教会は赦しを大事にしますが、それで教会の問題をうやむやにすることがあってはいけません。
まとめ
自分の罪がどれほど大きいかを知れば知るほど、赦しの恵みの大きさがわかります。
そして赦しの力をいただき、相手も自分自身も自由になります。
キリストの救いを受け取った人には、自由の霊、聖霊が与えられるからです。
ダビデが人生最大の罪を指摘されたとき、彼は悔い改めてこのように祈りました。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/
詩編51:14
自由の霊によって支えてください。
私たちも同じように祈りましょう。
天のお父様、私の罪の大きさを悟らせてください。
その罪をキリストの十字架で赦してくださりありがとうございます。
救いの喜びを味わわせてください。
聖霊様、私を赦せない思いから自由にしてくださってありがとうございます。
私に罪を犯す者たちを赦してください。彼らはかつての私と同じように、自分が何をしているのか知らないのです。
共に神に立ち帰り、一つの神の家族として歩ませてください。
イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン。
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