主の祈り9
人知を超えた神に祈る
エフェソの信徒への手紙 3:20-21
20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
主の祈りの結びの言葉
今日は主の祈りの9回目。主の祈りの結びの言葉「国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり アーメン」について見ていきます。
主の祈りはイエス様が教えた祈りが元になっています。
しかし福音書に記された主の祈りに、この結びの言葉は入っていません。イエス様が教えたものではなく、後から追加された言葉です。
ディダケー(十二使徒の教え)という1世紀後半から2世紀頃に書かれた文書には既にこの結びの言葉を含めた主の祈りが記録されています。かなり初期の頃から教会が受け継いできた言葉です。
福音書が伝える主の祈りを受け取った者の応答として、教会は今もこの言葉を告白しています。
国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり
神の国と力と栄光はすべて神様のものです
「国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり」という言葉は、「神の国と力と栄光はすべて神様のものです」という告白です。
ダビデはこのように告白しました。
11 偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。12 富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。
歴代誌上29:11-12
すべては神様のものです。
ダビデは王として国を治め、神殿建築のための金銀などをささげる力を持っていました。
そのすべては神から与えられたものです。
素晴らしい神を喜ぶ
祈る時には、相手が願いを叶えてくれると信頼することが大事です。
その祈る相手は天にいる私たちの父です。
天のお父さんはどれほど信頼できるお方ですか。
すべてを治めておられるのですから、絶大な信頼を置くことができます。
私たちが願うことの大きさは、相手への信頼の大きさに左右されます。
神様がどれほど素晴らしいお方かを知れば知るほど、私たちは神様に大きな願いを祈ることができます。
そして神様は「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」です。
祈りの答えを受け取って、私たちはますます神様への信頼を深めていきます。
神様の素晴らしさを喜びながら「国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり」と告白できます。
神に栄光を帰す
私たちが主の祈りの中で願うことはすべて、神が成し遂げます。
この地で御心を行い神の国を前進させる力も、私たちの毎日の必要も、赦しも、神の武具も、すべて神から与えられるものです。
私たちは「国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり」と告白することで、すべてを神様にお返しすることになります。
このように神の栄光を現し、神を喜ぶ主の祈りは、人の主な目的にかなった大切な祈りだとわかります。
大きな夢を見る
皆さんの信じる神様はどれほど素晴らしいお方ですか。
どれほど大きな夢を見ていますか。
私たちが小さな願いしか持てなくても、神様はそれを超えてきます。
自分のことしか祈れなくても、神様は家族のためにも祈りに答えてくれるかもしれません。家族のために祈った人は、親戚のための祈りの答えを受け取るかもしれません。さらに一族、民族、国へと祈りの範囲が広がります。
私たちの神への信頼の大きさや夢の大きさで神が変わるわけではありません。私たちの限られた視野の中で受け取れる恵みが変わるということです。
私たち夢が大きくなれば大きくなるほど、視野が広がり、より大きな神様の奇跡を目撃します。人知を超えた神の力を体験します。
大きな夢を見てください。
神にできないことは何一つない。
死の力を打ち破り復活されたイエス・キリストは天と地の一切の権能を持っています。
聖霊の力によって、私たちにはすべてが可能です。
アーメンでしょうか。
アーメン
今は牧師の誘導でアーメンと言わされましたね。
祈りの最後にもアーメンと言いますね。
もう習慣的にアーメンと口にしているかもしれません。
そのアーメンの意味を知っていますか。
私は小学生の頃からアーメンと口にしていました。
「アーメン ソーメン 冷やソーメン」と。
何がおもしろかったのか、意味もわからず言っていました。
もちろんアーメンとソーメンは何の関係もありません。
本当に その通り
アーメンは「本当に」「その通り」という意味のヘブライ語から来ています。
旧約聖書では誓いや呪いの言葉を読み上げた後に会衆一同で「アーメン」と唱えたり、詩編の中で祝祷への応答として「アーメン」と書かれたりしています。
今でも御言葉への応答や祈りの確信を表すために「アーメン」と唱えます。この「アーメン」も含めて主の祈りです。
祈りの最後に「アーメン」と唱えることには大切な意味があります。
心からの願いの表明と確信
主の祈りの中で6つの願いを祈ります。
アーメンと唱えることで、「本当にその通り」なるよう心から願っていますということを言い表します。
そして神がその願いを「本当にその通り」成し遂げてくださると確信します。
14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
ヨハネの手紙一5:14-15
目の前の現実より確かな、神の約束の実現の上を生きる
祈りは既に聞かれていると確信できたら、生き方が変わります。
私たちはこの現実社会の中で生きています。
しかし祈りの答えを確信するなら、神の約束の世界を生きます。
妄想ではありません。
夜通し漁をして全くとれなかった魚が「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」との言葉に従うと網が破れそうになるほどとれました。
イエス様が「来なさい」と言うなら水の上も歩けます。
目の前の現実より確かな、神の約束の実現の上を生きるです。
望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること。それが信仰です。
かなたから上る手ほどの雲
預言者エリヤの時代、3年間も雨が降りませんでした。雨が降る気配は全くありません。
しかしエリヤは王に「激しい雨の音が聞こえる」と言いました。
そして従者に「海の方を見なさい」と言います。
その間エリヤは地面にうずくまり、顔を膝の間にうずめました。祈っていたのです。目も耳もふさぎ、神だけに集中する姿勢です。
しかし従者には何も見えませんでした。
エリヤは「もう一度」と言って見に行かせます。
やはり何も見えません。
これを7回繰り返したとき、従者は手のひらほどの雲が海のかなたから上ってくるのを見ました。
エリヤは裾をからげて走り出します。
そして激しい雨が渇ききった大地を潤したのです。
祈り続ける
この罪と悲惨の世界の中で、私たちは目の前の問題に悩みます。
何年も変わらない現実があります。
祈っても変わらないように思えてきます。
しかし祈ることをやめてはいけません。
もしエリヤが祈りを6回でやめたらどうなったでしょう。
「目の前の問題は手に負えない。自分たちの力では不可能だ。手元の資源では何もできない」などと恐れないでください。
「国とちからと栄えとは 限りなくなんじのものなればなり」そう信じて祈り続けるなら、はるかかなたにある手ほどの雲を見ます。
祈りの答えを確信し、沖へ、水の上へ、神の恵みで潤された大地へ新たな一歩を踏み出します。
そこは目の前の現実を超えた神の恵みの世界です。
その世界に飛び込むなら、神の愛の広さ、長さ、深さ、高さの限りなさを体験します。
今年私たちは神様からのビジョンを受け取ろうと祈ってきました。私たちにはビジョンが必要です。
教会の現実を見れば人もいない。能力もない。お金もない。
しかし神が用意した手ほどの雲が上って来ています。
祈り続けるならば、ここに神の恵みが雨のように降り注ぐことを体験します。
祈りはただの気休めや独り言ではありません。
天のお父さんと対話し、神の御心を知り、それに従う者へと生き方が変えられます。
生きるために呼吸が必要なように、私たちが信仰者として生きていく上で祈りは欠かせません。
イエス様が教えてくださった主の祈りを基に、祈りの生活を歩んでいきましょう。