歴代誌講解66
今このとき神の言葉に従う
歴代誌下 29:3-15, 25-30
3 その治世の第一年の第一の月に、ヒゼキヤは主の神殿の扉を開いて修理し、4 祭司とレビ人を連れて来て、東の広場に集め、5 言った。「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ。6 わたしたちの先祖は不忠実で、わたしたちの神、主の目に悪とされることを行った。彼らは主を捨て、主の幕屋から顔を背け、これに背を向けた。7 また彼らは前廊の扉を閉じ、ともし火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたくことも、焼き尽くす献げ物をささげることもしなかった。8 主はあなたたちがその目で見たように、ユダとエルサレムに対して怒り、彼らを人々の恐れと驚きと嘲りの的とされた。9 見よ、わたしたちの先祖はそのために剣に倒れ、息子も、娘も、妻も、捕虜にされた。10 今わたしは、イスラエルの神、主と契約を結ぶつもりである。そうすれば、主の怒りの炎がわたしたちから離れるであろう。11 わが子らよ、今このとき怠けていてはならない。主があなたたちをお選びになったのは、あなたたちが御前に出て主に仕え、主に仕える者として香をたくためである。」12 そこでレビ人は立ち上がった。それはケハト一族のアマサイの子マハト、アザルヤの子ヨエル、メラリ一族のアブディの子キシュ、エハレルエルの子アザルヤ、ゲルション一族のジンマの子ヨア、ヨアの子エデン、13 エリツァファン一族のシムリとエイエル、アサフ一族のゼカルヤとマタンヤ、14 ヘマン一族のエヒエルとシムイ、エドトン一族のシェマヤとウジエルであった。15 彼らは兄弟たちを集め、自分たちを聖別し、主の言葉による王の命令に従って主の神殿を清めるために来た。
25 彼はダビデと王の先見者ガド、預言者ナタンの戒めに従ってシンバル、竪琴、琴を持つレビ人を神殿に配置した。この戒めは主が預言者たちによってお授けになったものである。26 レビ人がダビデの楽器を、祭司がラッパを持って立つと、27 ヒゼキヤは祭壇に焼き尽くす献げ物をささげるように命じた。焼き尽くす献げ物をささげ始めると、イスラエルの王ダビデの楽器の伴奏で、主の賛歌とラッパの演奏が始まった。28 会衆は皆ひれ伏し、賛歌がうたわれ、ラッパが響き渡り、これらの事はすべて、焼き尽くす献げ物をささげ終わるまで続いた。29 焼き尽くす献げ物をささげ終わると、王および彼と共にいた人々は皆ひざまずいて礼拝した。30 ヒゼキヤ王と高官たちが、ダビデと先見者アサフの言葉をもって主を賛美するようにレビ人に命じたので、彼らは主を賛美して喜び祝い、ひざまずいて礼拝した。
小さな行いの積み重ねで守られる命がある
大分県中津市に耶馬渓という地域があります。ヤバい渓谷です。
景色の美しさもヤバいですが、道の険しさもヤバいです。
耶馬渓には山国川という川が流れています。今から300年ほど前の江戸時代、山国川の下流に堰が作られました。そのため川の水がせき止められて水位が上がり、これまで通れた道が使えなくなってしまいました。
通行人は仕方なく、山の高い岩壁に沿った危険な道を、鉄の鎖を命綱に渡っていました。
この耶馬渓に、諸国巡礼の旅をしていた禅海というお坊さんが立ち寄ります。
禅海もこの危険な道を渡ろうとしますが、彼の目の前で人と馬が足を滑らせ、命を落としました。
禅海は非常に心を痛めます。
そして自力で岩壁に穴を掘り始めました。
托鉢で資金を集め、石工たちを雇ってノミと鎚だけで掘り続け、30年ほどかけて全長342mの洞門を完成させました。
青の洞門と呼ばれるこの道は、現在は改修され完成当時の原型はかなり失われていますが、明かり取りの窓などに当時の手掘りの跡が残されています。
危険な道から一人でも命を救いたい。その思いから始まった工事。
一日に掘れる量はわずかです。しかしその小さな行いが積み重なることで、道ができました。
小さなことしかできないから無駄だと思っていれば、何も始まりません。
放っておけば続けて人の命が失われます。
小さな行いでも始めることで守られる命があります。
Small Action Everyday.
今日私たちから始めましょう。
今このとき怠けていてはならない
今日の本文は南ユダ王国12代目ヒゼキヤ王の話その1です。
歴代誌の著者はヒゼキヤの記事に4章を割いています。これは南ユダ王国の王たちの中で最長です。重要な王として扱われていることがわかります。
父祖ダビデのように主の目にかなう正しいことをことごとく行ったと記録されています。ヒゼキヤ王はあのダビデ王のような王だったという評価です。
列王記では、ユダの王の中で彼のように主に依り頼んだ王は前にも後にもいなかったと評しています。南ユダ王国の歴代の王の中で最高の王だったと絶賛しています。
まず神に立ち帰る
彼がまず行ったのは神殿の回復です。
即位した年の第1年第1の月の1日に神殿の扉を開き、レビ人を集めました。
神殿は先代のアハズ王によって閉鎖されていました。先祖たちは主を捨て、顔を背け、背を向けました。その結果、ユダは剣で襲われ、妻や子どもたちは捕囚になりました。
この過ちを繰り返さないよう、自らを清め、神殿を清め、神様との関係を回復することを求めます。
今このとき始める
いつ始めるのでしょうか。
ヒゼキヤは呼びかけます。「わが子らよ、今このとき怠けていてはならない。主があなたたちをお選びになったのは、あなたたちが御前に出て主に仕え、主に仕える者として香をたくためである。」
今このとき始めるのです。
これを聞いたレビ人たちはその日早速、行動を起こしました。兄弟たちを集め神殿の中から異教のものを取り出して捨て、祭具などを清めていきました。
神の言葉に従って主を礼拝する
その後ヒゼキヤは礼拝をささげます。
礼拝の中ではダビデや預言者たちの言葉に従って奉仕者が配置され、ダビデや預言者たちの言葉をもって賛美がささげられました。詩編に基づく賛美歌ということでしょうか。
ダビデにも預言の賜物がありましたから、彼らの言葉は神から与えられた言葉だと言えます。
礼拝において神の言葉に従って奉仕者が配置され、神の言葉に従って賛美がささげられました。
王や高官たちは主を賛美して喜び祝い、ひざまずいて礼拝しました。
危機的状況においても神の言葉に従うことを最優先にする
先代アハズの時代に南ユダ王国は度々侵略を受け、国の力は弱くなっていました。アッシリアの王に貢ぎ物をしましたが、何の助けにもならないどころかアッシリアからも攻撃されました。様々な危機によって南ユダ王国は存亡の危機に立たされていました。
その状況でヒゼキヤ王は神殿の修復を最優先しました。そして共に礼拝をささげました。
最優先すべきことは、神に立ち帰ることです。神の言葉に従うのです。
それを今このときから始めるのです。怠けていてはいけません。
1人の行動は小さくても積み重ねると大きな力になる
世界が抱える問題は多くあります。戦争や紛争、貧困や飢餓、パンデミック、気候変動。これらによってたくさんの人が命の危機にさらされています。世界が共に取り組まなければならない緊急の課題です。
個人の問題もあります。職場、学校、家庭、教会でも問題が起こります。人間関係、経済、健康など様々な問題です。
この地域が抱える問題も多くあります。先週の台風で土砂崩れがあり、橋が壊れ、断水が起きています。
これらの問題に対して私たちに何ができるでしょうか。
日本の一市民が外国の大統領に、戦争止めてくださいなんて伝えることはできません。
一人の行動で土砂を取り除くことはできないし、孤立した集落を救えないし、水道を直すことはできません。
世界の食品ロスをなくすために私一人がごはんを残さず食べたところで何になる。私一人が募金しても何の役にも立たない。
どうせやっても意味がない。だからやらない。そういう考え方もできます。
しかしボランティアとして手伝ったり、必要な物資を送ったり、義援金を送ったりすることはできます。
確かに一人の行動は小さなものです。しかしその小さな行いを積み重ねることで大きな力になります。
「日本人が1人1円出せば1億2千万円になります」
1970年代にベトナムなどから多くの人がボートピープルとして国外脱出したとき、AAR(難民を助ける会)創設者の相馬雪香さんは支援を呼びかけました。
インタビューで資金源を問われた彼女は「日本人が1人1円出せば1億2千万円になります」と答えました。
この言葉に応答し全国から募金が集まり、多くの難民を助けることができました。本当に1円だけ募金した人もいたそうです。
小さな行いも決して無駄ではありません。
それにより命が守られる人がいます。
子どもでもできる小さな行い
昨日は磐田市でスポーツフェスティバルが行われました。
磐田も被災地ですから、そこでフェスティバルを行うのは不謹慎かもしれないという思いもありました。それでも磐田の人たちが1人でも多く笑顔になってもらえるようにと祈り開催しました。
結果、たくさんの人に楽しんでもらえました。
フェスティバル終了後に来た子が、バルーンアートがもらえなくて悲しんでいました。
それに気づいた小学生の男の子が「ぼくできるよ」と言って自分でバルーンアートを作ってその子に渡してあげました。
小学生の子が起こした小さな行いによって、磐田の町に笑顔が1つ増えました。
私たちにもできることがあります。
愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり
鎌倉時代に道元というお坊さんが『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という本を書きました。
この本の中にこのような言葉があります。
「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。(中略)愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。」
道元『正法眼蔵』
愛語というのは世の中の生き物を見て慈しみの心を持ち、優しい言葉をかけることです。乱暴な言葉ではありません。
この愛語には世界を変える力があります。
人はときに乱暴な言葉で社会を変えようとします。乱暴な行動を起こす人もいます。
長く抑圧されてきた人たちが乱暴な言動によって社会を変えようとするのは仕方ない面もあるかもしれません。しかしそのような力で本当に社会は変わるのでしょうか。
ユダヤ人がメシアに期待したのもそのような力でした。ローマの支配から救い出してくれるメシアを期待しました。力強く民を率い、ローマを打ち破る王を求めたのです。
群衆はナザレのイエスこそメシアではないかと期待しました。
しかしイエス様は期待したような方ではありませんでした。弱々しいロバの子に乗ってエルサレムに入りました。
こんなのメシアじゃない。イスカリオテのユダはイエス様を売りました。
群衆も手のひらを返し「十字架につけろ!」と乱暴な言葉をあびせます。
こうしてイエス・キリストを十字架につけて殺しました。
愛の言葉そのものであるイエスが世界を変えた
そのような中でもイエス様は最後まで愛を語りました。
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
ルカによる福音書23:34a
乱暴な言葉が飛び交う中で愛の言葉、愛語を語り続けました。自分を殺そうとする者たちの赦しを祈りました。
そしてイエス様が十字架で死んで復活したことにより、死の道を歩んでいた私たちが命の道を歩むことができるようになりました。
愛語そのものであるイエス様が、まさに世界を変えました。
私たちも愛をもって人々に接することが求められています。
たとえば優しい言葉をかけることや挨拶をすること、笑顔を向けることでもいいです。
これらの行動は何の力もないように思えます。誰でもできる小さな行動だから。
しかしこの愛の言動には人々を変える力があります。
愛の言葉が人を育てる
保育士さんの待遇の改善が求められています。
現在の基準では2歳の子6人に対して1人の保育士さんが見ることになっています。
2歳頃はイヤイヤと自分の主張ができるようになります。そうすると2歳の子たちをまとめるために、今はこの時間だからとルールで縛らなくてはならなくなります。子どもたちと向き合っていられなくなります。
もし保育士さんを1人でも増やすことができたら、自分の気持ちを話したい子に寄り添うことができます。
何でも子どもの言う通りにできるわけではありません。しかし自分の気持ちを受け取ってもらい葛藤する中で、その子の心は成長していきます。
だから1人の子どもに寄り添い優しい言葉をかけることで、成長を助けることができます。
今このときから小さな愛を実践する
イエス様は言いました。
34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ヨハネによる福音書13:34-35
世界は様々な問題を抱えています。
この世界に生きる私たちに求められていることは、互いに愛し合うことです。
神に立ち帰りその愛を受け取り、その愛を周りの人々に行動で表していきましょう。
挨拶をしたり笑顔を向けたりすることだけでもいいです。この小さな行いで救われる人がいます。
今このときから始めましょう。