使徒信条1
我は父なる神を信ず
マラキ書 2:10
我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り/我々の先祖の契約を汚すのか。
基本に忠実に
先月、日本のプロサッカーリーグであるJリーグが始まって30周年を迎えました。30年前小学生だった私も、テレビで見るサッカー選手たちの活躍に興奮しました。それから日本サッカーのレベルは上がり、海外で活躍する選手も増え、W杯にも続けて出場できるほどになりました。
日本のサッカー界を象徴する選手の1人にカズこと三浦知良選手がいます。
サッカー王国静岡出身で、高校生の時にブラジルに渡ってサッカーを学びます。ブラジルでプロサッカー選手になった後、日本に帰国。Jリーグが誕生した時はヴェルディ川崎で活躍しました。その後アジア人として初めてイタリアのセリエAでプレーします。日本代表としても活躍し、W杯には出場できませんでしたが、予選で活躍し日本のW杯初出場に貢献しました。
56歳の今もポルトガルのプロチームに所属しています。
ゴールを決めた後のカズダンスも有名です。
彼が今もプロの世界で活躍を続けられているのは、単にチームの話題作りというわけではありません。他の選手の及ばない卓越した能力があるわけでもありません。
パスやトラップ、シュートなど基本的なプレーをおろそかにしないこと。チームのために献身的にプレーすること。そして集中力などメンタルの強さが彼の強みです。
ブレない心を持って基本を忠実に守る人はサッカーだけでなくどの分野でも活躍できます。そして他の人の模範となるでしょう。
信仰の基本 使徒信条
私たちも信仰の基本を忠実に守るなら、キリストに倣う者、模範的な信仰者になるでしょう。
そこで毎週の礼拝で告白する使徒信条を学んでいきたいと思います。
使徒信条はキリスト教会がその一致した信仰を告白したものです。信条や信仰問答は様々ありますが、使徒信条は最も基本的な信条の1つです。
使徒信条は大きく3つの部分に分けることができます。
まず「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」という「私とすべてのものを造られた父なる神を信じること」。
次に「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」から始まる「私とすべての民を贖った子なる神を信じること」の部分。
最後に「我は聖霊を信ず。」以下の「私とすべて神に選ばれた民とをきよめる聖霊なる神を信じること」です。
今日は「我は・・・父なる神を信ず」という部分を見ます。
父なる神を信じるとは
父なる神
父なる神という表現に抵抗を感じる方もいるかもしれません。
父という言葉を聞いてまずイメージするのは、あなた自身の父親でしょう。頼もしくてかっこいいスーパーヒーローみたいなお父さんをイメージする人もいれば、怒りっぽく暴力的なオヤジをイメージする人もいます。家庭の事情によっては父親という存在を知らずに育つ人もいます。
残念ながらこの地上に完全な父親などいないので、私たちのイメージする父親像は不完全です。
父なる神様は、あなたの父親のような神様ではありません。
神様こそ完全な父です。そして母でもあります。神様に性別はありません。
映画にもなった「神の小屋」という小説の中では、パパと呼ばれる父なる神様が女性の姿で描かれます。私たちの勝手な父なる神のイメージをぶち壊す、いい表現でした。
新約聖書でイエス様が神様を父と呼んでいます。アッバ(お父ちゃん)と親しみを込めて呼ぶ場面もあります。
それでユダヤ人から反感を買うわけですが、ユダヤ人も神様を父と呼んでいました。
それが今日の本文です。創造主なる唯一の神様を父と呼んでいます。
残念ながらこの箇所ではユダヤ人が父なる神様を信じていたという文脈ではなく、その神様を裏切ることをしているという文脈になっています。
預言者マラキは嘆きます。なぜ父なる神様を信じないのか。なぜ神様の言葉に従わないのか。なぜ神ではないものを神のように拝むのか。
聖書が示す神を信じる
使徒信条は神への信仰告白ですが、そこで信じる神は聖書が示す神です。人が勝手に思い描く神ではありません。
聖書が示す神は、三位一体の神です。
使徒信条も父なる神、子なる神、聖霊なる神という3つの部分に分けられます。
それは神様が3人いるということではありません。神は唯一です。1人の神様が3つの姿に変身するとか3つに分裂するとかいうことではありません。
父、子、聖霊という3つの位格でありながら本質は1つの神です。
これは人の理解を超えています。この世の何かで例えようとしても、不完全な説明にしかなりません。
理解できなくていいです。神が人の理解に収まる存在であるはずがありません。人を造られた神は、人を超越しているからです。
神は理解する対象ではなく信じる対象です。
聖書で示される三位一体の神を信じるのです。
信じる
ところで信じるというのはどういうことでしょうか。
信じると言っても、口先だけで信じる、盲目的に信じる、心から信じるという信じ方があります。
あなたが高い所にいて、父親が両手を広げて「さあ、父さんを信じて飛ぶんだ」と言ったとします。
口先だけの人は「うん、信じるよ!」と口では言いますが、ジャンプしません。
盲目的な人は迷わずジャンプします。
心から信じる人は父親が信頼に値する人だと認めてジャンプします。ただし父親の体格や自分の体重などを考えた上で「父さんありがとう」と笑ってジャンプしないこともあります。
口先だけの人は明らかに信じていません。
盲目的な人と心から信じる人とでは、どちらが父親を信じていると言えますか?
盲目的な人の方が信じているように思うかもしれませんが、いつかケガします。
心から信じる人は父親がどういう人か知っているので、自分がどうすべきか判断できます。その信頼関係の下で安心して飛び込むこともできるし、冗談も笑って受け止められます。
私たちが神を信じるという時も、どうせ理解を超えているからと口先だけで信じると言ってみたり、よくわからないまま飛び降りてはいけません。
神がどのようなお方であるかを知り、その信頼関係の中で神様の胸の中に飛び込むのです。
信じるとは、信頼関係の中であなたが決意することです。
神を父と呼ぶ
イエス・キリストの模範
父なる神を信じるということの模範は、イエス・キリストが見せてくれました。
イエス様はいつも祈り、父なる神様とお話していました。そして父なる神様の願うことを行いました。十字架という苦難の杯を飲まなければならなくなったとき、「アッバ父よ」と呼びながら苦しい思いを天のお父ちゃんに話します。それでも天の父の愛を信頼しているので、十字架の道を進みます。
愛する弟子に裏切られ逮捕されるとき、イエス様はこう言いました。
イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
ヨハネによる福音書18:11
父なる神への完全な信頼です。
神様は完全な正義の方であり、完全な愛の方です。神様はいつも良いお方です。だから神様はいつもその子どもに最善のものを与えます。
順風が吹く時には感謝して進み、逆風が吹く時にも感謝し受け止めることができます。その逆風は子どもを鍛えるための励ましかもしれないし、子どもを間違った道から正すためのしつけかもしれません。
キリストによる父と子の関係回復
神を父と呼べるのはイエス様だけの特権ではありません。神の民はすべて、神を父と呼べるはずでした。
ところがユダヤ人は神を捨ててしまったのです。預言者マラキは父との信頼関係が壊れていることを嘆きます。
それはいつまでも壊れたままではありません。マラキは最後に回復の希望を伝えます。
23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。
マラキ書3:23-24
預言者エリヤが帰って来て、父と子の愛の交わりを回復させます。
これが旧約聖書の最後の言葉。そして新約時代につながります。
マラキが預言した通り、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を伝え、ユダヤ人たちを父なる神に立ち帰らせました。
そしてイエス・キリストが来て父と子の関係を壊していた罪の問題を、十字架の死と復活によって解決します。
神の子として父の胸に飛び込む
聖書は驚くべき約束を語ります。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
ヨハネによる福音書1:12
イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは神の子とされています。
聖霊によって私たちも「アッバ父よ」と天のお父ちゃんを呼ぶことができます。
三位一体の愛の交わりの中に招き入れられているのです。
神様はいつも良いお方です。あなたの最善を願っています。
神様から遠く離れていたとしても、神様は両手を広げてあなたの帰りを待っています。
あなたの罪の背きは、イエスお兄ちゃんが引き受けてくれました。
神様はあなたに試練を与えるかもしれません。
この世の試練が洪水のように襲うとき、あなたは握っているものを手放さなければいけなくなります。間違ったものを頼ろうともがけばもがくほど、深みにはまって溺れていきます。
「この世の力や自分の力を握りしめるな。さあ、握っているものを捨て、わたしに捕まれ。」
神様はあなたに挑戦してきます。「そこから一歩踏み出せ。」
神様は時に冗談のようなことを言ってきます。
「ノアよ、箱舟を造れ。」いやいや、こんな山の上に舟を作っても無駄でしょ。
「アブラムよ、わたしが示す地に行け。お前を大いなる国民の父にしよう。」もう75歳です。今さら父だなんて。ただのジジイですよ。それにわたしが示す地ってどこ?どっちに行けばいいの?
でも神様はマジです。
神様の招きに従うとき、決して無駄になったり間違ったりすることはありません。
父なる神様を信頼し、その胸に飛び込んでください。
我は信ず
トマスは信仰に正直な人でした。決して口先だけで信じますと言ったり、盲目的に信じたりすることはありませんでした。
イエス様の復活を聞いたときも、釘の跡に指を入れ、槍の痕に手を入れないと決して信じないとまで言いました。
そんなトマスのために復活のイエス様が現れ、トマスに声をかけます。
そのときトマスはこう告白しました。
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
ヨハネによる福音書20:28
トマスは主イエスに人格的に出会いました。
もはや私たちの主とかイスラエルの神とかではなく、私の主、私の神なのです。
神との人格的な出会いを求める
使徒信条の主語は「我」です。
私自身の信仰告白です。
私たちの父なる神とか、聖書のいう父なる神ではなく、私の父なる神への信仰告白です。
神との人格的な出会いによって生まれる告白です。
神との出会いは、この目で見てこの手で触れてできるものではありません。
聖霊の働きにより、見なくて信じる幸いが与えられています。
あなたは「我は父なる神を信ず」と告白できますか。父なる神との信頼関係を築けていますか。
これが信仰の基礎中の基礎です。
まだ自分自身の信仰告白として「我は父なる神を信ず」と告白できないなら、聖書を読んでください。祈ってみてください。
あなたが父なる神との出会いを求めるなら、神様は必ずあなたと出会ってくださいます。
「我は父なる神を信ず」という信仰の基礎中の基礎に堅く立つなら、あなたはブレない信仰者となります。