使徒信条10
罪の赦し
詩編 130:3-4
3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
白くされたから目立つ黒いシミ
黒い画面を見せます。
その後、白地に小さな黒い点がついた画面を見せます。
そうすると多くの人は小さな黒い点に注目します。
ほとんど白い画面が目の前にあるのに、小さな黒い点が目立ってしまいます。
最初の画面は全体が黒いので、黒が目立ちません。
全体が白くなることで、黒が目立ってきます。
クリスチャンは葛藤を抱えます。
イエス様を信じ、洗礼を受けました。罪を告白し、赦しを受け取りました。
それなのに相変わらず罪を犯し続ける自分の姿を見ます。その度に悔い改めますが、変わりません。
変わらない自分のためにイエス様が十字架で死なれたことを思うと申し訳ない気がしてくる。
そしてお前はクリスチャン失格だという声が自分の中から聞こえてきます。
こんなに罪深い者が神様の前には出られないと感じ、教会に行くことがつらくなります。
このような経験はありませんか?
この葛藤はクリスチャンだから感じるものです。
イエス様を信じる前は、自分が罪人だなんて考えもしませんでした。平気で神なんていないと言っていました。罪の中で生きてきたので、罪を罪とも思わなかったのです。
しかしイエス様の十字架により罪の中から救い出されました。墨よりも黒い心が雪よりも白く洗われました。
しかし罪の根が残っているので、繰り返し罪を犯してしまいます。
このとき、前は何とも思わなかった罪がとてつもなく深刻な罪であったと気づきます。
全体が白くなると小さな黒い点が目立つのです。
罪に悩むのは不信仰だからではありません。信仰があるからです。
クリスチャン失格だという声に惑わされないでください。こんな罪深い自分だからこそ、イエス様が十字架で死なれたのです。
罪の赦しを受け取って、自由に生きてください。
今日は使徒信条の10回目、「罪の赦し」についてです。
罪に葛藤する大切さ
罪について葛藤することは悪いことではありません。むしろ大切なことです。
罪を悔い改めない異端や悪魔のせいにする異端に注意
しかしある異端の教会は罪の問題を軽んじます。
救われた時にすべての罪が赦されたのだから、もう悔い改める必要はない。もしまだ罪について葛藤しているなら、本当の救いを得ていないのだと言うのです。
また他の異端は罪の原因を悪魔のせいにします。人が罪を犯したのも悪魔のせい。病気や災いも悪魔のせい。人間の罪のために生じる問題も悪魔のせいにします。
これらの異端は他の教会を批判し、オンラインのセミナーなどでクリスチャンを惑わすこともしていますので、注意してください。
救われてからも罪に悩むのは当然のことです。
問題を起こさない赤ちゃんがいますか?
神の子として新しく生まれた私たちは少しずつ少しずつキリストの似姿に変えられていく途中にあります。
日々罪を犯しながら、悔い改め、成長していきます。
悪魔は人を誘惑します。しかし罪を犯すのは人間自らの選択です。
人は自らの罪の責任を負わなければなりません。
異端に惑わされないように聖書をよく読んでください。
正しい者は一人もいない
聖書を読んで、こんなことも罪なのかと驚いたことはありませんか。
ヤコブの手紙には、人がなすべき善を知りながらそれを行わないのは罪だとあります。今までどれほど自分に言い訳をし、見て見ぬふりをしてきたことでしょう。
十戒には「殺すな」とあります。殺人は誰もが罪だと認めることです。
イエス様は、誰かに「ばか」と言う者は最高法院で裁きを受けると言いました。「ばか」と言うことは殺人と同じような罪だと言うのです。
またみだらな思いで女性を見るなら、心の中で姦淫の罪を犯していると言います。
旧約の律法によると姦淫の罪は死刑にあたります。
私は思春期の頃からこういう思いに悩まされたことが何度もあります。
私だけではないはずです。こうなると世の中の男は皆死刑です。
またイエス様は、聖霊が来るとイエス様を信じないことも罪だとわかるようになると言いました。
実際私たちは、信仰生活の中で自分の不信仰の罪を見させられます。
イエス様はずっと心の扉をノックしていたのに、無視し続けていました。
そしてイエス様を心に迎え入れると、その光に照らされて今まで見えていなかった罪が見えてきます。
見ないように匂わないようにフタをしていた過去の醜く悪臭を放つ罪をも、聖霊は指摘してきます。
こうして聖書が言うこの言葉が真理だとわかります。
1 【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
詩編14:1-3
正しい者は一人もいません。
律法では、すべての戒めと掟を忠実に守るようにと要求しています。
約630の戒めの中でたとえ629を守れたとしても、1つでも欠けたら罪です。
そして罪人は神の怒りを受け、永遠の滅びに落ちるのです。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。」
今日の本文で詩人が言うように、誰も生きていけません。
信仰で義と認められた
詩人は言います。「しかし」です。素晴らしい逆接があります。
「赦しはあなたのもとにあり」です。
自分の力では正しく生きられない私たちのために、主はイエス・キリストの十字架によって罪の償いを完了してくれました。
イエス様を信じる私たちは聖霊によってキリストに結ばれます。
父なる神様は私たちを見るとき、罪人として見るのではありません。罪赦された者として見ます。
私たちは義と認められているのです。
このように約束されています。
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマの信徒への手紙3:24
罪の償いはイエス・キリストの十字架で完了しています。
私たちが義と認められるために必要なことはただ信仰です。
どれほど正しく生きられたかが問題ではありません。どんなに正しく生きようとしても、正しく生きられる人は誰もいないのですから。
義と認められた今、自分の罪に悩むとしても神の怒りを受けるのではと恐れる必要はありません。
神は怒りの眼差しであなたを監視しているのではなく、愛の眼差しで見守っています。
ある徴税人は自らの罪深さに悩み、神殿に近づくこともできず目を伏せ、胸を打ちながら言いました。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
このように自らの罪に悩む人こそ、神の義を受け取れます。
罪人こそ主の前に招かれている
罪に悩むとき、教会を避けようとしないでください。
病気のとき「病院は清潔な場所だ。私のような病人が行って汚してはならない。」と言う人がいますか。
病人こそ病院に行くべきです。医者は病人のためにいるのですから。
イエス様は罪人を招くために来ました。
自らの罪に悩むときこそ、魂の医者であるイエス様のもとに駆け付けてください。
教会は正しい人の集まるところではなく、罪人が集められたところです。
罪人の友となられたイエス様があなたを待っています。
罪赦された者として生きる
行いと関係なくただ信仰によって罪が赦されました。
それなら私たちは正しく生きる必要はないのでしょうか。なすべき善を知りながら、見て見ぬふりをしてもいいのでしょうか。
そんなことはありません。罪の赦しを受け取ったことで、私たちの生き方は変えられます。
義と認められた私たちは神との関係が回復しました。的外れな人生から神に立ち帰りました。汚れは洗われ、壊れた神のかたちが回復しています。
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙2:10
これは恵みにより信仰によって救われたという話の後に続く言葉です。
ただ信仰で義と認められた私たちは、神の傑作品として善い業を行う人生へ歩み出します。
神を畏れ敬う
詩人は、罪赦された人は神を畏れ敬うと言います。
この畏れは、神の怒りを恐れるのとは違います。神様すごい!という思いです。
自分の罪を知れば知るほど、神の愛の広さ、長さ、深さ、高さに圧倒されていきます。
そして神様の言葉に従いたくなります。
かつて十戒を始めとした律法は、罪を自覚させる恐ろしいものでした。
しかし罪赦された人にとって、神の民とされた者の自由な生き方を指し示す指針になります。
人を赦す
そして罪赦された人は他の人をも赦すことができるようになります。
復活のイエス様は弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を受けなさいと言いました。そして命じたのは、人を赦しなさいということでした。
かつてペトロはイエス様に、何回まで赦すべきかと問いました。
するとイエス様は7の70倍まで赦しなさいと言います。何回でも赦しなさいという意味です。
私たちはどれほど多くの罪を繰り返してきたことでしょう。莫大な借金を帳消しにしてもらったように、自分では負いきれない罪をイエス様の十字架によって赦していただきました。
それなら他の人が自分に犯した罪を赦すのは当然ではないでしょうか。
いつまでも他の人がしたことやしてくれなかったことに怒りと憎しみを抱え続ける私たちに、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と神様は問いかけます。
愛の人になる
「愛の鬼才―西村久蔵の歩んだ道―」という本を読みました。
西村久蔵さんという実在したクリスチャンの方の生涯を、三浦綾子さんが取材してまとめた本です。
この本が書かれたのは西村久蔵さんが亡くなって30年後のことです。だから取材したとき、少なくとも30年以上前、ある人は60年以上も前のことを思い出して答えています。
しかし何年経っても、本人が亡くなって30年以上経っても、西村久蔵さんから受けた愛は忘れられていませんでした。思い返すたびにその愛がよみがえってきます。
愛は消えないのだという強い印象を受けました。
別の話になりますが、ある認知症のおばあさんが同じ話を繰り返しはなしていました。
それは戦時中、東京大空襲の時のことです。学生だった彼女はいつも電車で通学していましたが、その日は父から地下鉄で行くように勧められたそうです。そして地下にいたので空襲を免れたという話です。
この話を何度もするのです。
なぜでしょう。これが彼女が父から受け取った最後の愛だったからです。
父の一言によって自分は生き延びることができた。父の愛によって今も生きることができている。
認知症になって他のことは忘れても、その愛は忘れられませんでした。
愛は消えないのです。
だから皆さんも天のお父さんからの愛を受けてください。罪の赦しを受け取ってください。その愛は消えません。
より多くの罪を赦された人はより多くの愛を示すようになるとイエス様は言いました。
自分の罪に悩み、罪の赦しを受け取った人は、神の愛を受け取り、愛の人に変えられていきます。
その愛は他の人を愛する愛にもなっていきます。
罪赦された人は、他の人の人生にも消えることのない愛のくさびを打ち込みます。