使徒信条2 全能の創造主

使徒信条2

全能の創造主

詩編 104:24-35

24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。25 同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。26 舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。27 彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。28 あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。29 御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。32 主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ/主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

美しく悲惨な世界

 百合の花が咲く季節になりました。
 息子の保育園の近くに立派な百合が咲いています。気品を感じさせるあの花びら。なんと美しいことかと感動を覚えます。
 今年もツバメたちが来て子育てを始めています。
 どこからか泥と枯草を集めてきて、立派な巣を作りました。彼らはどこで巣作りの方法を学んだのだろうかと、その知恵に驚かされます。
 この世界は美しく、驚きと感動に満ちています。

 しかし悲惨でもあります。
 今教会の入口に住んでいるツバメたちは、既に子育ての経験があります。これが2回目のチャレンジです。
 最初の子どもたちは大人になって巣立って行ったわけではありません。いなくなりました。ある日、巣が壊され、子どもたちがいなくなっていたのです。カラスか何かに襲われたのでしょう。
 これもまた自然の姿なので仕方ないことですが、ヒナの成長を見守って来た身としては心が痛みます。
 自然は時に残酷で、大雨によって川があふれたり山が崩れたりして人間の生活を脅かすこともあります。

 一番恐ろしいのは人間かもしれません。
 沼津で生まれたばかりの赤ちゃんの遺体を火で焼くという事件がありました。火葬のつもりだったのでしょうか。
 赤ちゃんの死因や逮捕された男女と赤ちゃんの関係はわかっていませんが、たき火のようなかたちで赤ちゃんの遺体を焼くというのは私には理解できません。
 これが同じ人間のすることなのかと、恐ろしさを感じる事件でした。

この世界は神が極めて良く造ったはず

 聖書はこの世界も人間も神が造ったものだと言います。そしてそれは極めて良いものだと言います。
 確かに世界は美しい。
 しかし悲惨でもあります。
 神が極めて良く造ったのなら、なぜ世界はこのように悲惨なのでしょうか。神は失敗して不用品を造ってしまったのでしょうか。

 使徒信条は私たちが信じる父なる神について、「天地の造り主、全能の」父なる神であると告白します。
 今日は全能の創造主について見ていきます。

世界を悲惨にしている人間の罪

 今日の本文は詩編104編です。この詩は創造の6日間をたどりながら、天と地とそこに満ちるあらゆる生き物を創造した神をたたえています。

神の恵みに満ち足りる

 大地には様々な草木が生え、人間や動物が暮らしています。海の中にも色々な生き物がいます。
 レビヤタンというのは海の中に住む巨大な生き物です。
 ヨブ記では神の傑作、最高の生物ベヘモットと並んで最強の生物として紹介されます。体は盾のように硬く、どんな武器も無力にされます。口からは火を噴きます。
 そのような怪物でさえ神が造ったものであり、海の中で遊んでいます。神にとってレビヤタンもかわいいペットのようなものかもしれません。
 神はこれらの生き物に、時に応じて食べ物を与えて養います。

 人間も神によって造られたものの一部です。
 私たちも神によって養われています。
 目を上げて世界を見渡してみてください。神が私たちの前に用意した祝福があります。
 毎日太陽が昇り新しい一日が始まる。時に恵みの雨を降らせ大地を潤す。
 畑を耕し種を蒔き、水をあげるのは人間です。しかし成長させ実を結ばせるのは神です。
 神様が与えてくださった恵みによって私たちは生かされています。
 また人間はブドウからワインを作ったり、小麦からパンを焼いたり、オリーブから油をしぼったり、杉の木を木材に加工したりします。
 私たちの生活を豊かにさせるための資源もやはり神様からの恵みです。
 私たちはそれを受け取って良い物に満ち足ります。

失楽園

 かつてエデンの園で人間は神からの祝福に満ち足りて暮らしていました。
 そしてそこを耕し守り、世界をより美しくするための働きをしていました。
 それは人間だけに与えられた特権です。

 人間はすべての造られたものの中で、特別な存在です。創造の6日目、一番最後に造られました。
 神は人を造ったとき、このように言います。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

創世記1:26

 人は神に似せて造られました。人は神のかたちです。
 神のかたちとは、知性を持って考え悩むことができる、道徳性を持って善を愛し悪を憎むことができる、宗教性を持って神を求めることができるということです。
 支配させようと言われていますが、あくまで人間はこの世界の管理者であり、所有者は神です。

 神こそが世界の主人であることをわきまえるために、神はエデンの園の中央にある善悪の知識の実を食べることを禁じました。
 しかし人間は神に反逆し、自分を世界の主人にしようとします。
 神のようになれるという蛇の誘惑にそそのかされ、人間は神が禁じた実を取って食べました。
 その結果人間は神から離れ神のかたちは失われ、世界は呪われたものとなりました。
 人間は管理者として世界をより美しくするべきなのに、支配者として世界を破壊し搾取するようになりました。

 確かに神は世界を極めて良く造りました。
 その世界を悲惨にしているのは、私たち人間の罪なのです。

全能の神の御手に守られている

死も命も神の手の中にある

 皆さんは、なぜこんなことが起こるのかと悲しみの涙を流したり、なぜ私がこんな目にあわなければならないのかと嘆いたり、こんなことして何になるのかと空しい労苦に悩まされたりしたことはありませんか。
 まるで神が御顔を隠し私たちを見捨ててしまったかのように感じられます。

 特に死の問題に直面したとき、私たちの心は揺さぶられます。
 造られたものは有限の存在であっていつか過ぎ去る。
 そんなことはわかっていても、愛する人を天に送るのは悲しくつらいものです。
 不慮の事故、自然災害、病気などによって突然その時が訪れることもあります。
 土の塵から造られたに過ぎない人間は、再び元の塵に返るだけ。

 空しい空しい。

 しかし、安心してください。
 神は決して私たちを見捨てません。
 神は今もすべてを治めておられます。
 神様はあなたのことを見ておられ、よく知っています。
 髪の毛の数まで把握しているのですから、あなたのことをあなた自身よりよく知っているのが神様です。
 イエス様はこのように言いました。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

マタイによる福音書10:29

 一羽のスズメの命も、父なる神様の手の中にあります。
 だから私たち人間一人一人の命も天のお父さんの手の中にあります。
 私たちが今日生きているのは神によって生かされているのであり、死が訪れる時は愛の神様がそれを許可された時です。

 だから私たちはどんな時も神を賛美することができます。
 今日の本文で詩人が歌うように、「命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」と。

全能の神に矛盾はない

レンブラント・ファン・レイン「イサクの犠牲」

 アブラハムは100歳の時に息子イサクを授かりました。
 そのイサクを焼き尽くす献げ物としてささげよと神から命じられた時、彼は息子をささげようとしました。
 自分の子どもを火で焼くなんて、アブラハムの人間性を疑いそうになります。普通の人間がすることではありません。
 しかしこれは神からの命令でした。
 イサクを与えられたアブラハムは、神が命をお与えになる方だと知っていました。
 だから神がイサクに命を与えてくださるのだと信じ、神の非情に思える命令にも従うことができました。

 神は全能の神です。何でもできます。
 ただしご自分の性質に反することはできません。できないと言うか、あえてしないのです。
 正義の神は約束を破ることができません。だから約束したことを必ず果たします。
 アブラハムを大いなる国民の父にすると約束した神は、約束の子イサクを守らないはずがありません。
 愛の神は愛することをやめることができません。だから人を見捨てたり、人に非情な命令をしたりすることはありません。
 人には理解できないことがあっても、神の愛から離れることはありません。
 神の計画に失敗はありません。人生の中でなぜこのようなことが起こるのかと思い悩むことがあるとしても、神はいつも良いお方です。
 あなたへの平和の計画は進行中です。
 神の約束を信じてください。

 天使ガブリエルはマリアに言いました。

神にできないことは何一つない。」

ルカによる福音書1:37

救いの計画は完成に向かっている

 しかし神は失敗したではありませんか。
 極めて良いものとして造られた世界が、このように壊れている。
 人間の反逆を許し、罪を放置しているではないか。
 この世界に満ちている罪と悲惨を見ると、そのように思えてきます。

人間の罪によっても神の計画は妨げられない

 それでも神の考えは、人間の考えをはるかに超えています。
 人間の罪によって神の計画が失敗したかのように見えても、全能の神は人間の悪さえご自身の善に逆転させることができます。

あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

ヨブ記42:2

 私たちは目に見える一部分だけを見て一喜一憂します。混乱を目にして、神は失敗したと疑います。
 しかしそれは美しい世界を完成させるための一時的な混乱です。
 目の前の荒れ狂う海、背後から迫る敵の足音は、偉大なる救いのための伏線です。
 神は言います。何も知らないくせにごちゃごちゃわめくな。落ち着いて主の救いを見なさい。

イエス・キリストによって成し遂げられた救いの御業

 ある人々はイエス・キリストが十字架刑で処刑されたので、失敗したのだと判断します。
 確かに人間の考えでは、死んだら終わりでしょう。
 しかし神はキリストを復活させました。
 イエス・キリストは人間の罪を背負って十字架で死にました。そして罪の究極的な結果である死さえも、復活によって打ち破ったのです。
 死は勝利にのみ込まれ、死のとげは抜かれました。
 神の救いの御業は成し遂げられたのです。

工事中

 イエス・キリストの死と復活から2000年経ちます。救いの御業が成し遂げられたと言うのに、まだ世界は壊れたままです。
 それは工事現場のようなものです。
 教会の南にある六間道路という通りはずっと工事が続いています。私たちが浜松に来る前からなので、少なくとも8年以上は工事が続いています。
 工事のために歩道が狭くなったり、渋滞が起きたり、混乱が発生します。
 その一場面だけを見れば、道路がボロボロになって市民生活が苦しくされていると感じます。管理する浜松市は住民を見捨てたのかと嘆きます。
 しかし浜松市には計画があります。その計画は既に承認され、動き出しています。
 その計画は、道路を広く美しくし、市民の生活をより良くするための計画です。
 その計画を実現させるための手続きや支払いは(多分)成し遂げられた。今は計画を完成させるための工事が進んでいるわけです。

 詩人は「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。」と歌います。
 神の息は聖霊です。
 土の塵から造られた人間が生きる者とされたのは、鼻に神の命の息が吹き込まれたからでした。
 聖霊によって人は本当に生きる者になります。
 新しく創造された者とされ、神のかたちが回復します。
 人間はその知性をもって世界をより良く開発し、道徳性をもって悪と戦い、宗教性をもって神の御心をこの地に成し遂げていきます。
 黙示録で神は、死も涙も嘆きも労苦もない新しい天と新しい地を約束します。
 罪ある者がこの地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つ時が来ます。
 神の救いのための御業は既に成し遂げられ、今は完成に向けての工事中です。

神は私たちを用いて計画を完成させる

 キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられた救いは、救われた一人一人を通して完成に向かっています。
 エデンの園を耕し守り、世界をより美しくするための働きは、私たちに受け継がれました。私たちを通して世界は美しく変えられていきます。

 自分には何もできないと思わないでください。
 神は天地万物をことばで創造しました。それは意味のない呪文ではなく、意味を持った言葉です。
 だからこの世界のすべてに意味があります。意味のない存在はありません。いなくていい人などいません。
 神のことばイエス・キリストがあなたを救ったのも、意味があります。この世界にあなただからこそできる使命があるので、神はあなたの名を呼んでいます。
 聖霊の働きにより、あなたにはすべてが可能です。

 目を上げて世界を見渡し、全能の創造主をたたえましょう。
 わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

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