使徒信条3
主イエス、神の独り子
ヨハネによる福音書 1:14-18
14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
あなたにとってイエス・キリストとは?
今日は使徒信条の3回目。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」というところを見ていきます。
あなたはイエス・キリストを何者だと思いますか?
イエス・キリストは神話のような作り話に出てくるキャラクターではなく、歴史上実在した人です。
イエス・キリストは確かに人でしたが、神の子です。
日本でも何かすごいことをした人のことを神と言うことがあります。
イエス・キリストが神であるというのは、そういう次元の話ではありません。
使徒信条が言うのは、イエス・キリストは三位一体の第2位格としての神の子ということです。
イエス・キリストは完全な神であり、完全な人なのです。
そう言うと意味がわからなくなり、やっぱり作り話じゃんと思われるかもしれません。
しかしイエス・キリストを見上げる時、十字架を見届けたローマの百人隊長のように「本当にこの人は神の子だ」としか言えなくなります。
神の子イエス
使徒ヨハネは福音書を書きました。その目的は、読者がイエスを神の子メシアであると信じ命を受けるためだと言っています。
世界を創造し治める神の言葉
ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という文章で始まります。この言とはイエス・キリストのことです。いきなりイエスは初めから存在した神だと言うわけです。
言は元のギリシア語ではλóγος(ロゴス)という単語が使われています。この単語には単に言葉という意味だけでなく、宇宙を支配する原理という意味も含まれます。
創世記でも世界は神の言葉によって創造されました。だからイエスは世界を創造した神の言葉であり、今もすべてを治めているというわけです。
いきなりイエス様が世界を創造し治める神の言葉だとか言われると、現実離れしすぎて、ヨハネさん大丈夫かな?と思えてきます。
これはヨハネの妄想ではありません。他の聖書箇所でもこのように言われています。
2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
ヘブライ人への手紙1:2-3
イエス・キリストは世界を造り治めている神の言葉そのものです。
父なる神と本質が同じ完全な神
私たちが使う言葉というのは、私たちがどういう人間であるのか、何が心の内にあるのかが反映されます。だから言葉はその人の人格をある程度反映しています。
しかし人間の言葉はあくまで意味を持った空気の振動であり、実体はありません。人間の言葉は人間ではないのです。
とすると神の言葉は神ではないということでしょうか。
また神の子と言うと、神が生み出した存在ということでしょうか。
大人の神と子どもの神というように能力に差があるということでしょうか。
そうではありません。
神の言葉は神です。
神の子イエスは神です。
先ほど引用したヘブライ人への手紙でも「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であると言います。
今日の本文には「独り子である神、この方(イエス・キリスト)が神を示された」とあります。
イエス・キリストは父なる神と本質が同じ完全な神なのです。
聖書には確かに「御子は~すべてのものが造られる前に生まれた」という表現がありますが、時間という概念そのものが神の創造によるものです。
だからイエス・キリストは過去のある時点で神から生まれ神の子になったのではなく、時間を超越してきのうも今日も永遠に変わることなく神の子なのです。
このようなお方はイエス・キリストしかいません。
その独自性を表すため、聖書はイエス様を神の独り子と表現します。
神の独り子イエスを信じる
三位一体の神の間の神秘的な関係性を表すために「子」という表現が使われています。
それはどのような関係性でしょう。
1つは愛の交わりです。
福音書の中には、父なる神がイエス・キリストに「あなたはわたしの愛する子」と呼びかける場面が記録されています。イエス様も父なる神様のことを「アッバ、父よ」と親しく呼んでいます。
また子は親に従います。
イエス様は自分勝手に行動することなく、いつも父なる神様の願うことを行いました。
そして本当に父を敬う人は、その子どもも敬います。
イエス様はこう言いました。
すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
ヨハネによる福音書5:23
この聖書の言葉を読むたびに思い出すことがあります。私が高校生だった頃のことです。
私が通った高校の教頭先生はとても立派な先生でした。生徒たちの生意気な意見にもよく耳を傾けてくれました。意味の分からない校則を廃止したり、サッカーW杯日韓大会を放課後に学校で観戦できたのは、あの教頭先生の協力があったおかげです。
野球の桑田投手のように頬が張った四角い顔は今も忘れられません。
そんな敬愛する先生の娘が、後輩としてその高校に入学してくるという噂がありました。
教頭先生のご息女様ですから、ご挨拶申し上げなければと思っていました。
しかし顔がわかりません。
どんな人だろう、同じ中学出身の友だちに教えてもらおうかなどと考えながら階段の踊り場を曲がったとき、目の前に桑田投手がいました。
いや、うちの高校にプロ野球選手がいるわけない。
あ、教頭先生か。
いや、それにしては背が低い。
それにセーラー服を着ている。
・・・あ!
教頭先生と全く同じ顔なので、笑いをこらえきれませんでした。
その後私は、娘さんの顔を笑ってしまった私は教頭先生を本心から尊敬していたわけではなかったのだと気づかされました。
「我は父なる神を信ず」と告白しながらその独り子であるイエス・キリストを神として信じないなら、あなたはまだ神を信じているとは言えません。
イエスは私たちと同じ人間
ここまでイエス・キリストが神であることをお伝えしてきましたが、神の言葉だとか神の子だとか言われてもよくわかりませんね。
イエスが神だとして、それがどうした?自分とは何の関りもないように思えます。
神が人となられた
聖書はまた驚くべきことを言います。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
神の言葉であるイエス・キリストが人間になって、この世界で私たちと共に住んでくださったということです。
人間のフリをしていたわけではありません。完全な人間になりました。
福音書を見るとイエス様の人間的な姿を見ることができます。
お腹を空かせたり、疲れたり、眠ったり、怒ったり泣いたり。
人間らしい弱さ、喜怒哀楽といった感情の起伏が見られます。皆さんと同じですね。血も涙もあります。
十字架の場面では愛する人に裏切られたり、理不尽な苦しみにあったり、暴力を受けたりしています。肉体的、精神的な苦しみも経験しました。
人間として生きていれば様々な苦しみがありますね。
イエス様は確かに私たちの間に住んだ、私たちと同じ人間です。
救い主イエス・キリスト
完全な神が、なぜ完全に人間になられたのでしょう。
それは私たちを救うためです。
イエスという名前は、天使が告げた名前です。「神は救い」という意味があります。
キリストは名前ではありません。肩書のようなものです。社長とか先生みたいな。
イエス・キリストと言うとき、キリストであるイエス様、イエス様はキリストですと言っていることになります。
キリストとは、油を注がれた者という意味のヘブライ語メシアのギリシア語訳です。
旧約聖書の中で油注がれた者メシアが来ると約束されており、ユダヤ人はメシアを救世主として待ち望むようになりました。
洗礼者ヨハネが現れたとき、人々はついにメシアが来たと思いました。しかし洗礼者ヨハネはメシアではなく、『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とメシアが来ることを予告しました。
そして人になられた神、イエス様がメシアとして来られたのです。
預言者、祭司、王であるイエス・キリスト
ああ、メシアが来たんですね。
メシアっていうのは油注がれた者という意味なんですね。それのギリシア語訳がキリストなのか。
・・・で、油注がれた者って何じゃい。
ごま油ですか背脂ですか。
旧約聖書で特別な役割の人に油を注ぐ儀式が行われました。
これはその職務のために神から力が与えられることを象徴する儀式です。
油を注がれた職務とは、預言者、祭司、王です。
預言者は神の言葉を人に伝えます。
祭司は神と人との和解の仲介者です。
王は神から委ねられた民を保護します。
イエス・キリストもこれらの働きをします。
イエス様は預言者として神がどのようなお方であるか示してくださいます。
イエス様の十字架によって私たちは神と和解し、偉大な大祭司イエス様によって神様の祝福の中で生きられます。
王の王、主の主であるイエス様が私たちを守り、導き、力づけてくださいます。
滅びへ向かう人間を探して救うために神が人間になった
ここで1つ想像してみてほしいです。
皆さんはオーストラリアにいます。ユーカリの森があり、かわいいコアラたちが住んでいます。
ある日、その森で山火事が発生しました。火は勢いよく燃え広がります。
皆さんは「火事だ!逃げろ!」と近所の人に呼びかけ、避難することにしました。
そこでコアラたちのことを思い出します。火の手から逃れさせようにも、何匹も連れ出すことはできません。
「火事だ!逃げろ!」と叫んでもコアラたちはむしゃむしゃユーカリの葉を食べています。
「葉っぱ食ってる場合か!」と発破をかけても言葉が通じないのです。
彼らを助け出すために、自分もコアラになって彼らと同じ目線に立ち、同じ言葉を話すことができれば、滅びへ向かうコアラたちを探して救うことができるかもしれませんね。
神は私たちを救うために人になりました。
私たちと同じ目線に立ち、同じ弱さを経験されました。
神は霊であり、目に見えません。聖い神の前で罪ある人間は生きていられません。
神は人となって私たちの間に住み、滅びゆく私たちを探して救ってくださったのです。
イエス・キリストは完全な神であり、完全な人間です。
それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。
使徒信条はイエス・キリストを「我らの主」と告白します。私たちの主です。
教会はイエスを主とする信仰告白の上に建てられているからです。
15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
マタイによる福音書16:15-16
この信仰告白の直後、イエス様はご自分の教会を建てると言われたのです。
我らの主と告白するためには、個人個人がイエス様を「私の主」と告白できなければなりません。
イエス様は私たちにも問います。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
あなたはどうですか?