使徒信条8 我は聖霊を信ず

使徒信条8

我は聖霊を信ず

ヨハネによる福音書 14:16-17

16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

信仰は聖霊の働き

 屋上にミニトマトを植えました。たくさんのミニトマトを収穫できます。先週の流しそうめんの時も収穫したてのミニトマトを流しました。火曜日から帰省する予定だったので月曜日にも収穫しました。金曜日に帰って見てみると、またたくさんのミニトマトがなっていました。
 赤い実を結ばせるために水をあげたり時々肥料をあげたりはしますが、ほとんど何もしていません。私が茎を伸ばしたり花を咲かせたり実を膨らませたりしているわけではありません。特に火曜から金曜は本当にほったらかしにしていただけです。
 それでも茎につながった実は、時が来て赤く実るのです。

 ここまでイエス・キリストの十字架の死と復活など信仰の大切な部分を学んできました。先週はキリストの昇天と再臨の話から、私たちの生活が変わらざるを得ないということも見ました。
 知識としてはわかったけれど受け入れられない。信じたいけれど生活を変えることには抵抗がある。そもそも三位一体とか天地創造とか意味不明。この牧師さんの言うことわけわからん。そのような反応の人もいるでしょう。
 私たちが自分の力で理解しようとしたり自分を変えようとしたり他の人に信じてもらおうとしたりするのは大変です。というか無理です。
 ミニトマトを人の力で赤くできないように、信仰も人間の力で持つことも持たせることもできません。
 信仰は聖霊の働きです。

 今日は使徒信条その8。「我は聖霊を信ず」の部分を見ていきます。使徒信条の最後の部分に入ります。

聖霊なる神

ヴェロッキオ、ダ・ヴィンチ「キリストの洗礼」

 聖霊は三位一体の神の第三位格です。だから聖霊は神です。
 天地創造の場面では混沌とした状態の中で神の霊が動いていました。どういう状況なのか、創造の場面は想像が難しいですね。
 イエス様が洗礼を受ける時、聖霊が鳩のようにくだってきました。
 このように聖霊は活動的な神です。
 風のように目には見えませんが、確かに存在し働きかけます。

聖霊によって人は本当に生きる者になる

 聖霊は人間にも働きかけます。
 土の塵から造られた人間は、鼻に命の息を吹き入れられて生きる者になりました。この命の息は聖霊です。
 人は罪を犯し神から離れたので、聖霊の働きも受けられなくなっていました。
 旧約聖書の時代には、神は特別な人に聖霊を与え、働きかけていました。だから聖霊を受けるというのは何か特別な出来事のように思えます。
 しかし土の塵に過ぎない人間が聖霊によって生きる者になったことを考えれば、聖霊を受けた状態こそ人間としてあるべき状態とも言えるのではないでしょうか。
 復活したイエス様は弟子たちの間に現れ、息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言いました。
 鼻に命の息を吹き入れたときのように、私たちが聖霊を受けて本当に生きた人間になることをイエス様は求めています。

永遠に一緒にいて内に住む弁護者

エル・グレコ「聖霊降臨」

 聖霊はイメージしづらいのでなかなか身近には感じられないかもしれません。聖霊の大きさも形も色も匂いもわかりません。
 それでも聖霊は、私たちにとって最も身近な神の位格であると言えます。

 弟子たちにとってイエス様は目に見える神様でしたから、身近に感じられたでしょう。
 そのイエス様が地上から離れ、天の父なる神様の右の座に就きました。
 イエス様は、弟子たちが神から見捨てられみなしごになってしまったと感じないように、あらかじめ聖霊を送ると約束していました。
 今日の本文もその約束の1つです。聖霊は弁護者として永遠に弟子たちと一緒にいるのだと約束されています。
 そして約束の通り、ペンテコステの日に聖霊が降ったのでした。

 聖霊は今もイエス・キリストを信じる人たちに与えられています。
 聖霊に満たされたペトロがこう預言しています。

38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

使徒言行録2:38-39

 イエス・キリストの救いを受け入れた人は誰でもすでに聖霊を受けています。永遠に一緒にいて、内に住み、働きかけます。
 イエス様が天の父なる神の右の座で祈ってくださっていますが、聖霊も言葉に表せないうめきをもって私たちのそばで祈ってくれています。

聖霊は真理の霊

 そもそもイエス・キリストを信じる信仰そのものが聖霊の働きです。
 誰も聖霊によらなければイエスは主であると告白できないのです。

 実際に何か悪いことをした時に、私は罪人だなと思うことはあります。しかし神から離れているという罪を犯しているということは実感がわきません。
 もし自分の罪を認識できたとしても、イエス・キリストが罪人のために十字架で死んだということは理解しにくいことです。
 その上、2000年前に死んだ見ず知らずのイエス・キリストによって自分が救われるなど、受け入れられる話ではありません。

 それでもクリスチャンはこのことを信じています。クリスチャンは賢いんですね。
 いいえ、人の力ではありません。
 ただ聖霊の働きによって、私たちは自分の罪が示され、イエス・キリストが罪人のために死なれたことを知り、それを自分のこととして受け入れることができます。

 聖霊は真理の霊と言われています。
 聖霊によって私たちはキリストの言葉を聞いて信仰が与えられます。
 聖書を読むとき、また礼拝でメッセージを聞くとき、聖霊の助けを求めてください。
 聖霊が私たちの目を開き、耳を開いて神の言葉を悟らせてくださいます。

聖霊による人間性の回復

 私たちの内に住む聖霊は私たちを本当の人間にします。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

コリントの信徒への手紙二3:18

 聖霊の働きによって私たちはキリストに似た者に造り変えられ、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制というよい人格を持つようになります。
 パウロはこれらの人格を聖霊の実と表現しています。
 キリストという木につながることで結ぶ実です。
 私たちは枝。枝に求められるのはただ木であるキリストにつながっていることだけです。
 そして私たちとキリストを結び合わせているのは聖霊なのです。

 そして聖霊は私たちを神の子とします。
 創造主なる神を「アバ父よ」と呼ぶことができるのも聖霊の働きです。

 私たちは聖霊の働きにより、三位一体の愛の交わりの中にしっかりと結び合わされています。
 聖霊によって私たちは、神との関係においても人間のあるべき状態に回復されます。

聖霊の賜物

 イエス様は天に上げられる直前に、弟子たちに聖霊が降ると力を受けると約束しました。
 行って福音を伝え、キリストを証しする力です。
 この力、デュナミスはダイナマイトの語源にもなった大いなる力です。
 実際、ペンテコステの日に聖霊を受けた弟子たちは他の国の言葉で神を賛美し始めました。
 同じ聖霊が私たちそれぞれに賜物を分け与え、キリストの教会のために仕えさせます。

 皆さんはどのような賜物を受けているでしょうか。
 はて、聖霊から何かをもらっただろうか。賜物なんて受け取った記憶がない。デュナミス?そんな力、身に覚えがない。あれ?私は他の国の言葉で神を賛美することなんてできないぞ。もしかして私はまだ聖霊を受けていないのでは?
 あるいは、バイブルキャンプみたいなところに参加した時はすごく心が燃やされたのに、今は冷めてる。もしかして聖霊は私から離れていってしまったのでは?
 そう不安になる方もいます。
 自分の感覚を頼ると、私たちは聖霊を受けた実感など滅多に感じません。
 むしろ聖霊を受けていないのではないかという悪魔のささやきが聞こえます。
 大事なのは私たちの感覚ではなく、聖書の約束です。

 私たちがイエスを主と告白できるなら、それはすでに聖霊があなたの内で働いている証拠です。
 聖霊は永遠に一緒にいます。
 聖霊の賜物は人それぞれ違うので、劇的な変化がなくてもあなたにはあなたなりの賜物が与えられています。

 ぜひ自分に与えられた賜物を探してみてください。
 自分の賜物は、自分にとって当たり前に感じます。教会で他の人と仕えていく中で自分の賜物が見えてきます。

 賜物は使わなければ隠れたままです。宝の持ち腐れになります。
 聖霊の賜物を見出したなら、それを活用してください。
 使えば使うほど磨かれ、キリストを現すデュナミスの力が発揮されます。

神の息吹によって本当の価値が発揮される

 おもちゃの笛が数百円で売られています。
 この笛の価値はどれくらいですか?
 数百円ですね。興味がない人には何の価値もないゴミに見えるかもしれません。間違いではありません。

 世界的なフルート奏者のソンソルナムさんがコンサートの中でおもちゃの笛を使ったことがありました。
 ソンソルナムさんに息を吹き入れられたその笛はとても美しい音色を奏でました。
 おもちゃだと言わなければ、他の数百万、数千万円の笛と変わらないような音色です。
 笛そのものは何も変わっていないのだけれど、そこに一流のフルート奏者の息が吹き込まれたことで、隠された価値が発揮されたのです。

 私たちは土の塵から造られた人間。いつかまた塵に返るだけの土の器。神から離れ、その価値を見失っていました。
 しかし神はイエス・キリストによって私たちを探して救い出し、命の息を吹き入れました。
 私たちは聖霊の力を受け、本当の人間として新しくされています。
 隠されていた本当の価値を発揮するときが来ました。

 さあ、聖霊によって日々新しくされ、聖霊の実を結び、神を賛美する者に造り変えていただきましょう。
 主を賛美することこそ人間のあるべき姿なのですから。

後の世代のために/このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」

詩編102:19

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